Ⅲー1 予兆――天月仙門
■大尊師
■石刻象形文字
■滝の禁書室
■大尊師
果てしない宇宙から届いた芥子粒ほどの光が何百億も集まり、夜空を飾る。
星々の煌めきのなかにぽっかりと浮かんだ銀の月を長い衣の老人が見上げていた。雨が大気のほこりを洗い流し、今宵は月に影なす山や海がことのほかくっきりと浮かぶ。
深い渓谷の奥深く、風は凪ぎ、ときおりフクロウが鳴くほかに音はない。やがて、天の月はしずかに端から欠け始めた。身じろぎもせず、天を見上げる老人の目のなかで、銀月のすべてが闇に覆われた。
――ひらり。
白い長衣の裾を風が翻す。
星の煌めきが止まり、漆黒の闇。
ほんの瞬く間、見えないはずの月がすっと浮かんで消えた。
緋色の月。
風はふたたび木立を強くならしたあと凪ぎ、月が細く姿を現し始めた。背後に寄り添うように立つ若者を振り返りもせず、老人は目を閉じながら、深いため息をもらした。
「蝕のときに月の端が黄金に輝くことはままある。だが、このたびあらわれたのは緋色の真円。なにか大きな異変がおこるのやもしれぬ」
老人はゆっくりと目を開けた。かつての天月宗主。いまは、天月大尊師として、みなの尊敬を一身に集める叡鵬仙だ。
「カイよ。おまえもすでに知っておろう。この世の月は銀月じゃが、もう一つの世には緋月があるという。銀月は満ち欠けをし、時を刻む。じゃが、緋月は真円のまま。緋月が照らす世界に時は流れぬとか」
「はい。教えていただいた天月秘録にそのように記載されておりました」と、カイと呼ばれた青年は静かな声で答えた。
「二つの月が交わる〈緋の蝕〉は一千年に一度。こたびの月蝕は、その稀なる月蝕じゃ」
老師はふたたび天を見上げ、青年も同じように天を見上げた。緋月はすでに消え、銀月が太陽の陰に入り始めた。
「〈緋の蝕〉の記録は、三つ伝わる。三千年前には、太陽が姿を隠して穀物が実らず、ルナ古王国が滅亡した。二千年前には強大な異能者が現れ、世が乱れた。それを抑えるために、初代銀麗月が我が天月仙門を組織したと伝わる」
「はい」
「そして、一千年前には、カトマールの火の山が炎を吹き上げ、大地が割れ、海が膨れ上がった。これを鎮めた香華族はカトマール皇室と手を組み、帝国復興に力を注いだ。じゃが、三十年前に皇帝家も香華族も根絶やしにされた。帝国も滅んだ。そのときも小さな月蝕が起こったが、それは前触れに過ぎなかったようじゃな。こたびの月蝕は三十年前の比ではない。いったいこの世に何が起こるのか、見当もつかぬ」
博識博学の老師にすら、予測がつかぬほどのことが、これから起こるのだろうか?
「カイよ、ついてまいれ」
その威厳に、カイは平伏した。齢百を数える老師の声には張りがある。カイは、老師の後ろに付き従った。乾いた墨色のような瓦屋根が続く回廊が白砂の庭をめぐる。
老師の背はみじんも揺れず、足音も響かない。カイは少し目線を落としながら、しずかに老師のあとを歩んだ。ふたりの足跡はまるで同じ。ひとの気配を残さず、あたりの空気すら動かない。
回廊が切れる最後の壁をまえに老師は立った。低い声で二言、三言唱える。おもむろに壁が動き、通路が開く。二人の姿が中に吸い込まれると、壁は、何事もなかったように元に戻った。
カイがこの壁を越えたのは三度目だ。最初は、十年前にカイが老師と初めての旅に出たとき。二度目は、その一年後に旅から戻ったとき。それからまもなく、十二歳になったカイは、ここ天月仙門の修士として叙階された。
老師とカイしか知らぬ通路は、山をくりぬいたものらしい。あたり一面をうっすらと光カビが覆い、ほのかに二人を照らす。
だが、今日、老師が辿ったのは以前とは異なる道だった。険しい階段があらわれ、そこを登り切ると、大きな洞に出た。
洞から老師が指し示す方向を見ると、銀色の月はすでに西に大きく傾き、東から曙の光が夜空を染め始めている。はるか下方、雲の合間に天月の深い樹海が広がり、遠くまだ暗い海のそばにちらほらと灯りがともる。夜が明けぬうちに働く人びとの灯りだろう。
「天月の頂じゃ。島のすべてを見渡すことができる」
カイは眼を見開いた。蓬莱群島の主島である蓬莱本島の最高峰天月山、その頂にある「天月への架け橋」と呼ばれる聖域中の聖域。天月で学ぶだれもが憧れ、ほとんどだれもが到達できぬ場所。そこにいまこうして立っている。
「こちらじゃ」
老師は、カイにしずかに声をかけ、さらに歩みを進める。そして、一番大きな木の前に立ち、そのまま幹の中に消えた。カイもまた同じように幹の中に入る。そこは、小さな庵のような空間。古いクルミの木で作られた棚から、白髪白髭の老師は何かを取り出した。
コトリ。
カイの目の前にそれが置かれた。紫色の絹地をとりはらうと、なかには朱塗りの綴り箱。老師は、慎重にふたを開けた。
「見るがよい」
なかに、丸く薄い石盤が一枚。青みがかった美しい石の両面にびっしりと大小の絵のようなものが刻まれている。
「ルナ神聖石盤じゃ。書かれているのは石刻象形文字」
■石刻象形文字
カイは目を瞠った。
石刻象形文字と言えば、ルナ古王国の神殿文字。その存在は、古くから続く一門のトップにしか語り継がれず、一般にはまったく知られていない。むろん、解読もされていない。カイも初めて目にする。
――天月修士たるもの感情を抑制すべし。
そう教えられて育ち、カイはどんなことにも動じることはない。そんなカイですら微妙な興奮を見せた。アカデメイアの至宝とされるルナ石板ですら、これに比べれば単なる断片にすぎない。
「天月大尊師になった者にのみ伝えられる秘密じゃ。いまの天月宗主もまだ知らぬ」
カイは震えた。
「わしが前師のあとを継いでもう二十年。その年、そなたをここに迎えた。わしがそなたを抱き上げたときから、そなたの運命は定まっていたのやも知れぬな……」
老師は語り出した。
「このルナ神聖石盤は、シャンラのルナ神殿遺跡で見つかった方形のルナ石板とは異なる。たしかに、ルナ方形石板も貴重じゃ。じゃが、それらはおそらく神殿に供えられた祈祷文か、祈祷の手順図。刻まれた図は、絵か文字かすらわかっておらぬ」
カイは頷いた。二十年前にルナ石板が見つかって以来の論争だ。だが、この石刻象形文字との関係で言えば、おそらくルナ石板の図も何らかの文字と見た方がよいだろう。
「これら神聖石盤には、この世の終末と救済に関わる重大な秘密が書き留められておるらしい」
カイの姿勢はいささかもブレない。だが、まなざしは研ぎ澄まされたように鋭く光った。
「ただ、神聖石盤が全部で五枚あることのみが伝わる。いずれも神話で語られるルナ神殿に奉納されたそうじゃ。月神殿、水神殿、火神殿、土神殿、そして日神殿じゃ」
「いまわかっておるのは、我が天月が土神殿の石盤を持ち、日神殿の石盤を「日の一族」たるヨミ大神官がもっておること、そして、いまは滅んだ香華族が月神殿の石盤を持つというが、残り二つの石盤とあわせて、所在さえ分からぬ。もう数千年も離ればなれになっている五枚が出会ったときに、この石盤の謎が解き明かされると考えられておる」
ヨミ大神官といえば、ヨミ族最高の神官。シャンラ王室を支え、ヨミ族のなかでも抜きんでた能力を持つ女性が選ばれて即位する。現大神官は、シャンラ女王の大伯母のはず。
カイは身を引き締めた。
「前大尊師さまはわしにこう言い残した。代々の大尊師からの言い伝えだそうだ。そなたには教えておく必要があると思う」
老師は目を閉じた。まるで詩を吟じるように、口を突いて言葉が流れ出る。
天に「緋月の気」が満ちるとき
地は大きく割れる
天に「銀月の気」が満ちるとき
海は高くうねる
二つの月が交わるとき
世界は終わり闇がはじまる
闇を司るは天満月
人面、虎尾、狼爪をもち
天月のことばを操る
闇を開くは石に刻まれし聖なる文字
聖なる宮の聖なる文字に
天月のことばを乗せ
二つの月を解きほどき
時の歪みを正すべし
さすれば天明ふたたび輝けり
「これが「天月」の謂われかどうかは、わしにもわからぬ。ただ、言い伝えによれば、この歌に込められた秘密は、五枚の石盤に隠されているという」
問いかけるようなカイのまなざしに老師は応じた。
「ヨミ大神官もおそらくこのことを知っていよう。じゃが、石盤の存在を語ることも、五枚の石盤をあわせることも固く禁じられてきた。石盤にはだれも解くことができぬ呪いがかけられておっての。結界たる天月本院とヨミ大神殿の外にこの石盤をもちだせば、その者にはおよそ人がこうむるなかで最大の苦痛と死がもたらされるという。しかも、この石盤の文字をいくら写し取っても結界の外にでればすべて消えてしまう。いくら覚えても結界の外では記憶から消えるのじゃ。それで正気をなくした者もあったという」
老師はカイをじっと見つめた。
「だが、そなたならできるかもしれぬ」
カイは凛としたまなざしを返した。
「わしが呪いを防ぎきれる期限は、暦がめぐる一年が限度。石盤の秘密を解き明かす前に、そなたは死ぬかもしれぬぞ」
老師はカイを見た。非の打ち所のないほど整った面差し。背筋は伸び、立ち居ふるまいはじつにしなやかで、みだりに音をたてない。後ろで束ねた長い髪がさらりと揺れる。
天月一の英才と称えられた若者の瞳には微塵の動揺もない。
これほどの才と美に恵まれながら、この者には、拾いあげたときから声がない。
「そなたは動物と心を通わすことができる。その不思議な力は、きっとこのために与えられたのだろう」
美しい青年は、老僧に静かに頭をたれた。
■滝の禁書室
カイは木を振り返った。老師はこの木のなかで一年を祈りにささげて過ごすという。カイを守るためだ。
何度も厳しい修行を乗り越えてきた老師とはいえ、庵のそばに湧く水を飲んで乾きを癒すとしても、断食は一年が限度。カイが戻らなければ、天月の誰もが知らぬまま、老師は木のなかで息絶えることになる。
カイは深々と木に向かって頭を下げた。急がねば――一年など、あっという間にすぎよう。手掛かりは、アカデメイアの街から一瞬強く流れた異能の気配。すぐに消えたが、複数の異能の「気」がからまりあって、〈緋の蝕〉の月に向かって立ち上った。
急ぎ足で山の通路に戻り、かつて老師とともに出た出口を目指す。そこは、天月山の裏側。人一人通るのがやっとの細い山道を歩むカイの肩に、木漏れ日が落ちる。
道の傍らは崖。下に流れる渓流は山を深くうがち、逆巻くように水が流れる。二、三日降り続いた雨に、水量が増しているのだろう。木々も草もしっぽりと露をはらみ、ゆらゆらと風にそよぐ。
天月連峰には、多くの滝がある。
その中でも最も奥深い滝は、幅は狭いが高低差が大きい。轟音とともに、水しぶきが木々に飛び散る。
轟がカイを包む。その滝の上を悠々と飛びこして、カイの肩に一羽のカラスが舞い降りた。
カイの口から風のような音が流れ出た。
(カムイ、戻ってきたか)
カイは、指先でカムイの頭をなでた。ふたたびカムイを風の音色が包む。
(町の様子を教えておくれ)
カムイはちょこんと首をかしげてカイを見つめ、そして頷いた。
しばらくカムイの話に耳を傾けていたカイは、やがて立ち上がった。
(まずは、滝の禁書室だ)
カムイは飛び立ち、カイは端正な面差しを隠して、滝の裏に消えた。
古代からの書物で、天の人倫に反する書、天月の作法や教義にそぐわぬ書、忌むべき邪術や呪法の書が収められている。よほどの精神力がなければ、書の放つ魔力に囚われて道を誤りかねないため、厳重に管理されてきた。禁書室の鍵をもつのは、歴代の天月宗主と銀麗月のみ。
数ヶ月前、四百年ぶりに〈銀麗月〉の称号を得たカイにもまたこの禁書室の鍵が与えられた。
書架に並べられた巻物や石板には、ルナ古王国、ウル帝国、シャンラ王国など、歴代王国の事跡で公の歴史から抹消されたことについて詳細な記録が残されている。ルナの神々、ウル第一柱、ヨミ神官などの秘術に関する書もある。
その中でカイがかねてから興味を寄せていたのは、古代ルナ神殿とウル神殿に仕えた特別技能の民「ミグル族」の歴史だ。ミグル族は、託宣や音曲に優れ、心身の知識に秀で、独特の武術を発展させたと伝わる。
着いた日の翌早朝、この滝の裏から見た舞がよみがえる。
――あの舞をもう一度見たい。
何かを欲する――。かつて、そんな思いを持ったことがあるのだろうか。ずっと考えたこともなかった。いま思い出そうとしても、記憶はない。
あらゆる「欲」は、煩悩だと教えられてきた。カイは、「欲」をもたずとも老師から与えられ、「欲」にかきたてられなくともすべての技を覚え、だれもできない課題を楽々こなすことができた。より上を目ざしたいと思う必要はなかった。すべてが自然にいつのまにか身についていた。
何かを望んだ記憶を追慕する自分にカイはとまどった。
口にする木の実の味がなぜかいつもと違っている。甘さをより強く感じ、酸っぱさをより強く感じる。岩の割れ目からわき出る清水はさわやかで、陽の輝きは愛おしい。
だが、思い出の味はわからない。カイのこころは妙にさざめいていた。妙に不安で落ち着かないのに、そのさざめきが見るもの、感じるものすべてを輝かせている。
一週間がすぎた明け方。外で気配があった。
滝水のカーテン越しに映るのは、一人の舞手。大きな岩にスックと立ったその者は、深呼吸をし、そして、ゆっくりと舞がはじまる。その華麗な舞のすべてが見通せた。ざっと半時あまり、カイは呆然と見入った。
美しいだけではない。早さ、鋭さ、高さ、柔らかさ。どれをとってもこの世のものとは思えない。天月でカイが習得した武術をすべての面で上回っていた。
――おそらく、これは「ミグルの舞」。
歴史上は消えたはずのミグル族が、生き残っていたのか? ならば、ミグルが建立したとされる水神殿とそこに納められたと伝わるルナ神聖石盤の手掛かりも見つかるかもしれない。
カイは、岩の上に立った。目に焼き付けた舞手の動作と寸分違わぬ動作を繰り返す。舞手の幻を見ながら、カイは恍惚として、幻の舞手に我が身を重ねた。
舞うのはこれきりだ。ミグル族秘伝の舞を盗むことはできない。だが、後世のためにも記録に残さねばならない。カイは新しい禁書――『ミグルの舞』――をしたため、禁書室に封印した。
カムイに舞手の後を追わせた。だが、あのカムイですらその者を見つけられなかったらしい。麓からこの山奥の谷までは獣道しかない。獣道を歩む猟師の足でも、数時間はかかる。ミグルの舞手は、すぐには見つからないかもしれない。だが、確かにこの島にいる。
月蝕の夜、アカデメイアの街にいくつかの異能の「気」がかげろうのように立ち昇った。異能の持ち主を探し出し、「天満月」の所在を確かめねばならない。
まずは、アカデメイア附属博物館に行き、ルナ方形石板を確認する必要があろう。神聖石盤を読み解くためのなにがしかの手がかりがあるはずだ。




