プロローグ――禁忌の森
■禁忌の森
はるか昔に埋もれた村の上
土に眠る人びとの吐く息を糧に森は育つという
花もなく実も結ばぬその森に踏み入る者はだれもない
あまたの光を吸い込み
森は黒々と静まりかえって威を放つ
その禁忌の森の奥深く妖が住むという
鳥は翼をなくし
獣は目を失い
魚はヒレをもがれる
迷い人は蒼くくすんだ死人の群れにとらわれ魂を失う
代を超えて受け継がれた言い伝え
人はみな森を畏れ
重なる樹幹の暗さに怯おびえる
■森に消えた幼女
いつものようにその日も、日の出とともに静かな一日が明け、日の入りとともに漆黒の闇に閉ざされるはずだった。しかし、事件が起きた。都築家の曾孫が森に消えたのだ。
深い山の奥にある都築家の古い屋敷を風子はもう何度訪れただろう。母が遠くに出かけるたび、風子はこの家に預けられた。今度は少し違う。母にはしばらく会えないと言い聞かされ、小さな赤いリュックを背負ってここにやってきた。
屋敷に向かう古びた石段も、大きな茅葺屋根を超えてそびえ立つ樫の木も、この前の春の光景と少しも変わらない。ただ、降りしきる花びらはなく、頬に柔らかな風も感じない。
曾祖母の稲子は、いつものように縁側でひなたぼっこをしていた。門に寄り添うように立つ風子を、稲子がいとしげなまなざしで手招きした。木綿の前掛けをしたイチが、背を丸めながら、温かいほうじ茶と小さな饅頭まんじゅうを運んできた。
庭の隅ではじけるイガグリを指さし、稲子は言った。
「あの栗でつくった饅頭やけんの。うめえぞ。風子もはよ食べ」
長く手にした鍬くわのあとだろうか。齢百になろうかという稲子の手はゴツゴツと節くれ立っている。固い指で稲子は曾孫のやわらかな髪をなで、赤い頬をさすりながら、いくつもの物語を語り聞かせた。声音は低くうねり、かぼそくささやいたかと思うと、太いダミ声に変わる。
あの森の奥深くにはのう、ずうっとずうっと昔から、銀色のシッポをもつ狼がおるという。満月の夜になるたび、ソイツは尾を振りながら、どこまでも闇を駆けてゆくんじゃ。
高い枝から見下ろすのは、山猫。ランランと光る黄金色の目をもっておる。見上げるように大きな熊もおるぞ。その黒熊は、木の皮を剥いで爪を研ぐ。
森の真ん中。ぽっこりと開けた場所では、夜ごと、女たちが踊り明かす。白い衣を翻して舞うさまは、ほんに見事じゃ。それはそれはきれいな娘たちでの。じゃが、月の光に浮かぶ影はみーんな同じ。狐じゃ。狐どもは、緋色の眼をしておる。その眼に魅入られると、手はしびれ、足は萎えてしまうという。
梢を飛び交うのは、透き通るような身体をもつ木の精たち。狐どもの変化の舞にあわせ、風の音のごとき声で歌い踊る。
旅人が森に足を踏み入れようもんなら大変じゃ。すぐさま水の霊が近寄ってきて、旅人を惑わす。気がつけば、滝壺のなか。そこには水神の龍がおわす。碧色にきらめく鱗に覆われた龍神は、誰ひとりとて容赦はせんぞ。森から生きて戻った者はだれ一人おらん。
じゃから、ええか。風子、ぜったいにあの森に行ってはならんぞ。
濃い緑から緋紅へ。そして、葉を落とした細い枝が粉雪に震え、小さな橙色の芽吹きに見とれている間に、清々しい若葉が一面を覆う。やがてまた、葉色が濃くなり、木枯らしが吹く頃、赤く燃え落ちながら山モミジの葉が生を終えてゆく。山モミジの色は幾度も変わったが、母は迎えにこなかった。
だが、風子は泣かなかった。
曾祖母が紡ぎ出す物語は尽きない。蔵の棚に整理されて置かれている古い本に風子は魅せられた。端正な漢字ばかりの書も、くねくねとうねる墨文字からなる書も、読み解くことはできない。だが、ところどころに配された画はいたく風子の心をとらえた。
どの書を持っていっても、曾祖母はていねいに教えてくれた。風子の記憶のなかの母がしだいに色あせていき、その代わりに古い書にあふれる文字や画の知識が増えていった。蔵で過ごす時間はますます長くなった。
山にやってきたものの、村の子となじめないまま、いつもひとりぼっちで遊ぶ風子をひざに抱き上げ、稲子は小さな白い餅をわたした。なかにはたっぷりの小豆あん。長年、稲子に仕えるイチがせっせとこしらえた旧正月用の餅だ。
「また絵を描いとるんか」
風子が頷くと、稲子は絵を指さして訊ねた。
「これはだれじゃ?」
「大おおばあちゃん」
「そうか、わしか。おお、似とる、似とる」
稲子は豪快に笑った。
「餅はうめえか?」
口いっぱいに餅をほおばったまま、風子は大きく頷いた。
「綾羽もこの餅が大好きやった」
稲子は遠い目をした。
「あやはゆうのは、だれ?」
「わしの姉さんじゃ」
「ふうん、いまどこにおるん?」
「もうずっと、ずっと昔に、遠いところに行ってしもうた」
「あの森?」
風子の小さな指が、霞かすみたゆとう森を指す。稲子は目を細めた。
「そうじゃ。あの森じゃ」
「あの森に入ったらいかんのやろ? なんで、森に行ったん?」
おかっぱ頭の曾孫を抱き寄せ、赤いほっぺを手のひらで包みながら、稲子は答えた。
「わしのせいじゃ。わしの代わりに、姉さんはあの森の奥で眠っとる。数えで七つ、風子と同じ歳やった。いまもそのままの姿やろかのう……」
風子は大ばあちゃんを見上げた。稲子は森を見ながらつぶやいた。
「姉さんよう。姉さんにもろたこのいのち。おかげで、ようけのことがでけた。じゃが、もうちょっとだけ待ってくれんかの。この子をみてやらにゃならんで」
稲子の視線の向かう先。森の奥で何かがキラリと光った。
■子イヌ
桜が散り始めたその夜。屋敷は妙にあわただしかった。蔵にいた風子をイチが迎えに来て、離れの和室で早く寝るようにと促した。
「なんで大ばあちゃんの横やないん?」
風子の問いにイチは軽くうなづき、目頭を赤くした。
手伝いの女に導かれて入った客用の布団は、ほんの少しかびくさい。風子はやがてまどろみはじめた。
夢から覚め、そっと母屋をうかがうと、なぜか人が多い。男たちは飲み明かして騒ぎ、女たちはいそいそと動いている。風子は布団を出た。綿入りの半纏をかぶる。
大きな土間の台所で女たちは思い思いに仮眠をとっている。イチが一人、寝ずに番をしている。イチから渡された湯飲み一杯の薄茶を飲むと、身体が温まってきた。
「ほんに凛子嬢ちゃんによう似てきたのう。凛子嬢ちゃんも、眠れんときはこうやって台所に来て、あったかいほうじ茶を飲んどったもんや」
「りんこゆうたら、あたしのお母さん?」
「ああ。凛子嬢ちゃんのおっかさんは、嬢ちゃんを産んですぐに死んでしもうたけんの。凛子嬢ちゃんはわしが育てたも同然じゃ」
大ばあちゃんと同じように節くれ立った手が、愛しげに風子の頭をなでる。以前にはしゃんと伸びていた背が幾分まがり、目線が近くなった。その目はいつもやさしい。だが、きょうに限って赤く腫はれている。向こうに見える座敷には白い布団。だれかが横たわっている。回りには大勢の村人たち。
「さあさあ。はよお休みなされ。あしたは、朝早からたいへんですけんの」とイチは言いながら、軽くしゃくりあげた。
離れに戻ろうとすると、どこからかかすかな鳴き声。
きゅうん、きゅううん。
黄色い小さなゴム靴のまま、風子は声のほうへ歩みを進めた。屋敷の賑いがまだ背中に聞こえる。
どれほど歩いただろう。桜の木の下の草むら。小さな段ボール箱が夜露に濡れていた。何日も捨て置かれたのか。かがみ込んで、おそるおそるフタをあけると、中で子イヌが震えていた。抱き上げた指先に、やせた身体の冷たさが伝わる。最後の力を振り絞るように、子イヌは怯えて首を振った。足は動かない。
大ばあちゃんがいつかしていたように、ゆっくり、ゆっくり背中をなでてやる。子イヌを両腕で抱え込み、体温をうつす。やがて震えがとまり、子イヌは風子の腕に小さな頭をもたげた。
くん。
……小さな吐息をはき、子イヌは風子を見上げた。
子イヌの片目はつぶれていた。右足にも大きな傷があった。子イヌはじっと丸まり、風子の腕のなかで眠りはじめる。そのぬくもりが心地よい。子イヌを抱いたまま風子は立ち上がり、屋敷に戻ろうとした。
■緋色の月
夜が明け始めたのだろう。墨色のあたり一面がぼんやりと浮かび上がる。やがて、木々の上から薄朱色の霧が降りてきた。朝靄のなかで、銀色の月が欠け始める。
ふと振り向くと、木々のはるか奥、墨色と薄朱色が交わるさきに緋色の光が見えた。誘われるように、風子は歩き出す。背に届いていた人びとの声がやがて聞こえなくなり、緋色の光が強くなる。
それは不思議な経験だった。
欠けゆく月はあざやかな緋色。
その光を背に受け、そのひとはまっすぐこちらを見た。銀色の長い髪がふわりとゆれた。切れ長の瞳は月と同じ緋の色。まばたきもしない。
細い指をかけた枝から、はらりとひとひら桜が舞う。見渡すかぎり花の海。
明け初めの光にうかぶ足下には、鹿の角と白鷲の羽をもつあどけない少女。ふわふわとした花の海に投げ出された手足は、見慣れた猫のよう。
たたずむひとの後ろで、黄金の虎が咆哮する。その声は、大杉を揺らす嵐の轟から、しだいに天に溶け入るほどのかそけき音色に変わり、花びらを吹き上げた。
銀の髪と緋色の瞳をもつそのひとの口元がかすかに開き、薄紅色の花びらがわずかに震えた。
拾ったばかりのやせた子イヌが腕のなかでぴくりとふるえた。見上げるとだれもいない。西の空低く、銀月がふたたび丸く空にかかっている。
風子の記憶はいつもそこで途切れる。




