第12話-2 そしてこれから見る二人の京都の景色
■春馬視点
五鳳楼に出ると、涼しい朝の風が頬を撫でた。
眼下に広がるのは南禅寺一杯に広がる境内――澄み渡る朝色に包まれた風景を見て、思わず息を呑む。
境内の木々は鮮やかに色づき、様々なグラデーションを見せている。
それは南禅寺の外に広がる京都の山々に繋がり、自然との調和を見せていた。まるで一枚の絵のような光景――それを見入っていると、奈々が隣で小さく口ずさむ。
「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両――」
そこで言葉を切り、奈々はこちらを見て悪戯っぽく笑う。
「残念だけど今日の景色は五右衛門が見た春の宵の景色ではないけど、この景色も悪くないでしょう? 兄さん」
「ああ、充分に。ここにきて良かった、と充分思えるほどに」
再び景色を眺める。紅葉は見事に色づいたものもあれば、黄色に染まったものもあり、もちろん緑も入り交じる。秋の山の魅力を充分に感じさせる光景だ。
その中に立つ南禅寺の建物は調和を崩すことなく、見事にその景色に馴染んでいる。
「冬は雪景色、春は桜、夏は新緑――。一つとして同じ景色はないよ、兄さん」
「全くだ。人の一生のようだな」
「諸行無常、だね」
あらゆる事柄は、刹那の瞬間にも変化を繰り返し続けている。
一定であるものは存在しない。かならず存在するとすればそれは、死、のみだ。
(――奈々に対する気持ちは、ゆるやかに変化していったように)
ちら、と視線を奈々に向ける。彼女は紅葉に視線を向けて小さく吐息をついている。朝の陽ざしに照らされた彼女の横顔は大人びていて美しい。
前まではただの家族、妹分として好きだと思っていた。
だけど、徐々に二人で大人になり、気持ちはゆるやかに変化していった。愛おしく求めるような好意へと。だけど、もちろん家族としての愛おしさもある。
この気持ちがどんな風に変わるか楽しみである。
(……奈々となら、この感情がどんな風になっても受け入れることができるから)
表情を緩めていると、奈々は僕の視線に気づいて、にへら、と笑顔をこぼす。
「気に入ってくれた? 兄さん」
「それはもちろん。むしろ、奈々が連れてきた場所で気に入らない場所はないぞ」
「……本当に? 無理していない?」
「当たり前だろう、奈々相手に無理は言わないし」
それに、と少しだけ笑って続ける。
「感性が似ているからか、奈々がいいと思った景色なら、僕もいいと思えるからな」
「あ……えへへ、そっか、そっかぁ……」
嬉しそうに笑い、身をくねらせる奈々。昔の幼さを滲ませる彼女に思わず笑みをこぼし、ふと思いついてスマホを取り出す。素早くカメラを起動して撮影。
ぱしゃり、という撮影音に奈々は、あっ、と声をこぼして慌てて顔を背ける。
「ちょ、兄さん、今のはナシ……!」
「そうか? かわいい笑顔だと思うが」
撮れた写真を見せる。自分からすれば、彼女らしい魅力があふれた写真だが。
彼女はそれをじっと睨むと、唇を尖らせて首を振る。
「……なんか間抜けっぽいから嫌だな、これ」
「そうとは思わないけど……あまり好きじゃない?」
「……うん」
複雑そうな表情で奈々がこくんと頷くのを見て、そうか、と僕は頷いて彼女に見えるようにスマホを操作する。
「じゃあ、消しとくか」
「え、いいの……?」
「当たり前だろう。奈々の嫌がることはしたくないし」
許可を取らずに写真を撮ったのもマナー違反だ。素早くスマホを操作して写真を消すと、彼女は小さく吐息をついて上目遣いで言う。
「ごめんね。兄さん」
「謝るなら僕の方だろ。勝手に撮ったわけだし――それに」
スマホをしまいながら奈々の表情を見て小さく笑った。
「奈々の無防備な笑顔は、僕だけの特権だからな」
「……もう、兄さんは……」
その言葉に奈々は表情を恥ずかしそうに、嬉しそうに頬を染める。その可憐な姿に僕は小さく笑いながら目を細める。
(……僕にとってはこれが絶景かな)
値万金払っても惜しくない、愛おしい人の笑顔だ。
しばらく景色を眺めながら他愛もないやり取りをしていると、朝色は消え去り、普段の京都に日常が訪れる。人が次第に増えてくるのを見て、奈々はうん、と一つ頷いた。
「そろそろ行こうか、兄さん」
「そうだな。ちなみにこれから今日はどうするんだ?」
確か、今日の予定だと奈々は午後から大学の講義があるはずだが。
「朝は簡単なごはんしか作らなかったから、モーニングでもどっかの喫茶店で食べる?」
「あ、それはありだな。三条あたりに出るか?」
「だね。それで一旦、家に帰ってかな」
二人で軽くこれからの予定を話しながら三門から出る。明るくなった辺りを見渡すと、残念そうに奈々は小さく吐息をこぼす。
「……折角なら、今日も一日中デートしたかったのに」
「学生の本分は勉強だぞ」
「うん、そうだけど。でももうすぐ兄さんの有給も終わって仕事が始まるでしょう? 今迄みたいに平日観光は難しくなるな、って」
「まぁな。ただ、今までと違って気軽に会いに来れるぞ」
「確かに。それもそうか」
少し残念そうにしていた彼女だったが、納得したように一つ頷いた。
「これからは兄さん、京都の職場だし。夜は家に行けば会えるものね」
「逆に奈々の家に遊びに行くかもな」
「それは大歓迎。あ、その前にお父さんを追い出さないといけないけど」
「それは叔父さんに申し訳ないな……」
ただ、二人とも実家暮らしなのだ。どちらの家に行っても家族には鉢合わせてしまう。それは少し遠慮もあるかもしれない。
「……行く行くは二人暮らしも視野に入れるか」
思わずつぶやくと、奈々は嬉しそうにこくこくと頷いた。
「それは賛成――思う存分、兄さんに甘えられるし」
「自分も奈々を可愛がられるな……今まで以上に」
「い、今まで以上……っ」
奈々はその言葉に頬を染め、どきどきしたように胸に手を当てる。僕は小さく笑いながら彼女の握る手を握り返した。
「ま、そのときのお楽しみだな――卒業くらいを目途に考えるか」
「そう言われると、卒業が待ち遠しいかも……」
二人で笑みを交換し合い、南禅寺の外へ出る。自分たちの自転車に歩み寄り、鍵を解除していると、奈々は小さく憂鬱そうにため息をついた。
「今日の学校は面倒くさいな……履修している講義に、面倒くさい先輩もいるし」
「……男か?」
「男。多分、兄さんが想像している感じで、面倒くさい」
つまり軟派な男なのだろう。正直、そんな男に奈々は声をかけて欲しくないが。
だが、奈々は少しだけ表情を緩めて胸元のアクセサリーに触れる。
「でも、兄さんがこれをくれてから、先輩もあんまり声をかけなくなったから」
「男避けの効果は充分あったか?」
「うん、ばっちり」
「そうか。なら――これもあってもいいかもしれないな」
手荷物の中から小包を取り出す。
これは昨日、一人で新京極通りを散策していたときに買ったものだ。奈々が好きそうなアクセサリーで、折を見て渡そうと思っていた。
不思議そうにする奈々に、僕は手渡しながら軽く笑う。
「ロマンチックじゃないのは、勘弁してくれよ」
「……え……」
その言葉に奈々は戸惑い、そして淡い期待を滲ませるように小包に視線を落とした。その手に手渡すと、彼女は形のいい唇をそっと動かす。
「……開けていいかな?」
「もちろん」
奈々はそっと小包の包装を剥がす。そして箱の蓋を開けると――中から顔を見せたのは、簡素なシルバーリングだ。二つセットになったそれを見て奈々は感極まったように瞳を潤ませる。
「兄さん……これ、ペアリング……?」
「ああ、前、おねだりされたからな」
御多福珈琲のことを思い出しながら笑うと、彼女は何度も頷いて頬を染める。それを見ながら手を伸ばし、リングの一つを取った。
指のサイズは、この前の寝ているときに確かめておいた。
彼女の小さな手を取り、その薬指に嵌める――ぴったりだ。
「まだ正式なものではないけど――男避けには充分だと思う」
「うん……うんっ……!」
奈々は何度も、何度も繰り返し頷く。その嬉しさを表すように目を潤ませ、表情を綻ばせて真っ直ぐに僕の顔を見つめた。
「これ……兄さんのカノジョ、って感じがしてすごくいい……!」
「……そうか」
眩しい笑顔で嬉しいことを言ってくれる。胸がむずむずする感触に僕も釣られて笑顔をこぼしながら、自分の手を差し出した。
「じゃあ、僕も――奈々の彼氏の証をくれるかな」
「あ……うんっ」
奈々はすぐに頷いたが、指輪を見るとその表情が真剣そのものになる。慎重な手つきで指さを取り上げる。僕が指を差しだすと、迷うようにふらりと揺れた。
「……えっと、兄さん」
「うん?」
「薬指……で、いいのかな」
「ああ、もちろん」
「よ、よし……行きます……」
慎重な手つきで彼女は指輪をそっと嵌めてくれる。これも当然、サイズはぴったり――それを見て彼女は嬉しそうに口元を緩ませる。
そして、自分の指輪が嵌められた手を重ねて吐息をついた。
「――お揃いだ」
「ああ、お揃いだ」
指と指を絡め合わせ、奈々の瞳を見つめる。彼女の大きな瞳は感極まったように潤み、頬が火照っている。彼女はそのまま近寄り、僕の胸に顔を押し付ける。
その身体を抱きしめながら、僕は目を細めた。
今まで従兄妹同士――家族として見てきた女の子。
だけど、その関係を飛び越えて今は恋人。その温もりと柔らかさを感じるたびに胸が高鳴るのを感じる。そんな彼女と見る京都はまた違った景色に見えるはずだ。
「これからもいろんな京都の景色を見ていこう」
「うん、どんな景色でも、貴方と一緒に――」
巡る季節の中で、過去の人々が紡ぎ上げてきた京都の今。
それを愛しい恋人と見つめる未来を想いながら、奈々の身体を抱きしめる。
その二人を祝福するかのように、京都の冷たくも柔らかい風が吹き渡っていた。




