第10話-3 迎えた朝は嬉しくて
■奈々視点
がちゃ、と扉が開く音と共に身体が揺れる。
ふわ、とした浮遊感と共に、ひんやりとした空気が頬を撫でた。それがぼんやりとした意識を呼び覚まし――扉が閉じる音で目が覚める。
「あ……兄さん?」
「起きたか、奈々」
ぱちくりとまばたき。気づけば暗い中で兄さんの顔が近くにあった。軽く揺れる感覚と支えられた手の感触で、あ、と気づく。
(兄さんの、お姫様抱っこ)
よいしょ、と抱え直す兄さんは優しく目を細めていた。
「高速降りたあたりから、半分寝ていたぞ。奈々」
「うぇ……マジ?」
そういえば高速に乗っているうちにうとうとしてきた気がする。兄さんがカーラジオをつけると、急速に意識が遠のいて――。
今もまだぼんやりしているくらいだ。兄さんの腕の中が温かくて。
(でも、起きないと……)
「ああ、無理して起きなくていいぞ。もう家は近いし」
「……いいの?」
「ん、ぼんやりしていな」
「えへへ、やったぁ」
兄さんの抱っこは地味にレアだ。もしかしたら小学の頃以来かもしれない。捻挫した私をがっしりと抱きかかえてくれて。あのときに、兄さんの男らしさを痛感した。
あの腕にいつかまた抱かれたい、そう思っていたけど。
(嬉しいな……えへへ)
腕を伸ばして兄さんの首に抱きつき、胸に頭を擦りつける。そのまま眠気の中に身を任せる。やがて、揺れが収まって何か柔らかいものに降ろされると、身体は眠りの中へと沈み――。
(……あ、れ)
周りが明るくなった気配に気づき、意識が浮上する。ぼんやりとする思考の中で身体を起こし、辺りを見渡す。見覚えのある部屋、だけど、私の部屋じゃなくて――。
壁にかかっている男物のジャケット。それでようやく一気に目が覚めた。
「え、ここ、兄さんの部屋……?」
「ああ、おはよう。奈々」
ふと声が聞こえて振り返ると、開けられた扉から普段着の兄さんが入ってくるところだった。マグカップで湯気を立てるコーヒーを飲みながら目を細める。
「よく眠れたか?」
「え、あ、うん……え、なんで私、ここに……?」
「昨日、車で寝たから家まで運んだだけだぞ」
「え……兄さんの、家に?」
「ああ、叔母さんにちゃんと許可取ってな」
そう言いながら兄さんは椅子に腰かけ、コーヒーを差し出してくる。
「飲むか?」
「あ、うん、ありがと」
自然に差し出されたカップを手に取り、ちび、と一口。熱いくらいのコーヒーに顔を顰める。苦味と熱さで眠気はすぐに引っ込んでいく。もう一口コーヒーを飲んでからカップを返し、私は小さく訊ねる。
「ってことは、兄さん……泊めてくれたの?」
「そうなるな」
「で、母さんはそのことを知っている」
「ああ、ちゃんと許可は取ったから」
「……もしかして、母さん、知っている?」
何が、とは言わない。
だが、兄さんは正しく意図を汲み取った。彼はコーヒーを軽く飲んでから一つ頷いて告げた。
「ああ、僕と奈々が付き合ったことも織り込み済みだ。というか、叔母さんには奈々に告る前に事前に話してあったから」
「うぇ、なんで……っ」
「むしろそこは筋を通すべきだろう。従兄妹同士なんだから、隠しても隠し切れない。だったら最初に許可を取った方がいいと思って」
「……兄さん、すごく真面目」
でも、と落ち着いた思考で思う――とても兄さんらしい。
眠ってしまった私を敢えて、自分の家に連れて帰ったことも。
それからちゃんと両家の親に許可を取ったことも。
付き合ったことを包み隠さず伝えたことも。
それは私が行く行く先で、いろいろ悩まなくて済むように配慮してくれるのだ。私たちが胸を張ってお付き合いを続けられるように、気を配っている。
大人だから、と思っていたけど、そういうきっちりしたところは兄さんらしくて。
(……いつか、私も兄さんみたいに気を回せる人になるかな)
兄さんばかりに気を回せてはいられない。甘えずに隣に立つことも時に必要だ。そうなれるように頑張らなければならないだろう。
だけど、今は――その兄さんに、惚れ惚れしてしまう。
「……兄さんのそういうとこ、本当に好き」
「……おう、そうか。ありがと」
照れくさそうに笑う兄さんはごまかすようにコーヒーをまた飲む。
彼が口を離すのを見計らい、貸して、と私は手を伸ばした。彼が差し出したコーヒーカップを再び受け取る。少し減ったコーヒーを私は二口飲んでいるうちに、彼は困ったように肩を竦めた。
「まぁ、筋を通すのも大事なんだが、仮に隠したとして、だ」
「うん、隠したとして?」
「そうなると、親から一々、いらない詮索をされることになる」
「あー……」
「鬱陶しいだろう?」
「……まぁ確かに」
母さん、いつもお節介を焼いてきていたし。
「で、さっきは僕の父さんと母さんにも伝えておいた」
「……兄さんが優秀過ぎる件について」
「報連相は社会人で大事だからな。面倒くさがるとロクなことにならん」
兄さんは事務的な口調でそう言ってから、視線を奈々に戻す。穏やかな目つきで柔らかく笑って告げる。
「まぁ、そんなわけで奈々が寝ている間に、全て報告は済ませてある。奈々は特に気にする必要はないし、二度寝してもいい」
「さすがにびっくりして目が覚めたよ、もう」
思わず苦笑いを返しながら、マグカップを返す。それもそうか、と兄さんは納得し、マグカップを受け取って中身を飲み干す。
「じゃあもう昼前だからシャワーだけでも浴びな。ジャージで良ければ着替え貸すし」
「ありがと。じゃあお言葉に甘えるね」
「ん、それから母さんがお昼を用意しているから食べていきな」
「了解。至れり尽くせりだ」
兄さんに軽く笑いかけ、ベッドから飛び起きる。そのまま彼の脇を通って部屋から出ようとしたところで、ん、と軽く兄さんが声を上げた。
「奈々」
「ん?」
振り返ると、兄さんが目を細めて手を伸ばすときだった。指先は髪の方へ向いており、いつもの優しげな手つきに、あ、と私はすぐに理解する。
(寝癖直してくれるのかな)
シャワー浴びれば同じだが、その気配りが嬉しくて私は一歩兄さんの方に引き返して頭を差し出す。その手が頭に触れてくしゃ、と撫でられ。
それからぐっと頭が抱き寄せられた。
あ、と気づいた瞬間には彼の胸の中にすっぽりと頭が抱きしめられていた。優しく何度か頭を撫でながら軽く抱き、ちょん、と額にキスされる。
(え、あ……ぅ……)
不意打ちに思わず固まっていると、そっと兄さんは身体を離して軽く首を傾げる。
「嫌だったか?」
「い、嫌じゃない、けど……びっくりした」
一瞬遅れて実感が湧いてくる――そっか、今のは恋人同士のスキンシップで。
それを噛みしめれば噛みしめるほど嬉しさが込み上げてきて、胸がどきどきと破裂しそうだ。
「……えへ、えへへ……」
「またくねっているな、奈々は」
「でも兄さんの前ならいいんだよね?」
「ああ、僕だけの特権だ……他の男には絶対見せてやらん」
軽く笑いながらの冗談。だけど、その言葉が何より嬉しい。その気持ちを胸にしたまま、弾むような足取りで部屋を出る。
「じゃあ兄さん、リビングで」
「ああ、着替えは脱衣所に置いておくから」
「ありがと、了解っ」
言葉を返しながら階段を降り、兄さんの家の風呂場を目指す。その間、頬が緩みっぱなしで――熱いシャワーを浴びるまでは直りそうになかった。