第10話-1 夜のドライブは大人の特権
■奈々視点
京都市内の交通手段で縁深い存在といえば、自転車だ。
意外と狭い京都の中をすいすい走り抜けられる。洛中を駆けるには欠かせない、京都の学生の味方だ。次点で馴染むのはバス、鉄道だろう。
特にバス乗り放題チケットはいろんなところを回るのに欠かせない。距離があるときは欠かせない交通手段だ――観光客が多いのが地元民としては苦しいところだが。
というわけで、京都の学生である私は自転車、バス、鉄道を主に使って移動する。だからこそ、兄さんの提案はまさに意表を突くもので。
「確かに、これは大人しかできないわー」
思わず私は感心しながら背もたれに背を預ける。ふかふかのシートは温かく心地いい。そして視線を横に向ければ、周りの夜景が尾を引いて背後へ流れていく。
その反対側では運転席の兄さんがハンドルを握り、得意げに笑っていた。
そう、ここは車――兄さんの運転する乗用車の中だった。
「というか兄さん、この車はどうしたの? ウチも兄さんの家も自家用車なんてなかったよね」
「ああ、普通に借りた」
「あ、そっか」
だからこんなに綺麗で最新型の車なのだろう。すごく乗り心地が良く音も静かだ。兄さんは慣れた様子で運転し、京都の街をすいすい走る。
外を見れば自転車で走る人を瞬く間に追い越していく――やはり早い。
すぐさっきまで東大路通を走っていたのに、御池通を経由してから、堀川五条のあたりを景気よく走っている――もう間もなく京都駅だ。
「早いなー」
「特にこの時間は交通量も少なくなってくるからな。もちろん夜だから飛び出しに気をつけないといけないけど。ま、東京に比べれば大分運転は楽だな」
「東京は、まぁ、車も人も多そうだしね」
「そうそう。京都は不意の飛び出しが怖いけど、大通りを選んでいけば基本的には大丈夫かな……ああ、一応、僕は無事故だから安心してくれ」
「そこは信頼しているよ、兄さん」
現に兄さんの運転はすごく丁寧だった。止まるときもふんわりと柔らかく止まり、走り出すときも自然と進み出す。速度も出し過ぎず、穏やかなそのものだ。
おかげで温かい車内でリラックスしながら、兄さんと一緒の時間を過ごせる。
「初デートが兄さんとドライブか……なんか大人だ」
「お気に召したか?」
「うん、楽しい。こういうのも悪くないね」
「だろ。これならドライブしながら二人でのんびりお喋りできるから」
「確かに」
温かい車内で夜景を楽しみながら、二人きり。悪くないシチュレーションだ。
「とはいえ、運転中だからちょっかいを出すのは止めてくれよ?」
「さすがにやらないよ」
思わず唇を尖らせると、兄さんは一瞬だけ横目で私を見て優しく笑ってくれる。その笑顔に胸がどきっとして――そして表情も緩んでしまう。
(えへへ、兄さんと恋人ドライブ……夢みたいだ)
昼から理沙と話していたけど、まさか本当に告ってもらえるとは。
車を用意していたことといい、いろいろと入念に考えてくれていたのだろう。その気配りが嬉しくてたまらない。笑みをこぼしていると、兄さんの苦笑い交じりの声が響く。
「嬉しそうだな、奈々」
「うん……ね、兄さん、いつから私のこと好きになったの?」
「ん? そうだな、昔から好きと言えば好きだけど」
「えー、本当に?」
「ああ、ただその好きの形に気づいたのは、ごく最近だな」
「あ、じゃあいろいろアプローチしていたのは正解だったんだ」
「大正解だな。全く奈々はいいところをついてくるよ」
「えへへー、兄さんとは長い付き合いですから」
他愛もない会話をしているうちに、京都駅を過ぎて南へと向かっている。信号で軽く停まった辺りで、私は気になって訊ねる。
「兄さん、行先は?」
「ん? 適当かな」
「適当、って」
「ドライブってそんなものだぞ……ちなみに奈々、お腹の空き具合は?」
「え、あ、そっか」
時間を確かめるともう午後八時――結構遅い時間だ。
「兄さんは?」
「微妙な感じ」
「……実は私も。喫茶店でケーキ食べたし」
「そうか、じゃあ、適当に名神高速に乗るかな。んでどっかのパーキングか、滋賀のラーメン屋で一杯飯を食う」
「あ、それアリ」
「だろ? 行き当たりばったりでも楽しいのがドライブなんだ」
「へー、なんか大人」
「奈々も免許取ってみたらどうだ? ドライブできるぞ」
「んー、でもなんか難しそう」
ちら、と兄さんを見る。丁度兄さんは車線変更するところだったのか、ウィンカーを出していた。素早くミラーと目視で側面を確認。ハンドルを切って車線を移る。
「そうでもないぞ?」
「今の車線変更だけでもできる気がしないんだけど……」
「はは、まぁ慣れだよな、教習所で鍛えてもらえばいい」
「兄さんは教えてくれないの?」
「勉強なら教えられるが、残念ながらこればかりはダメ」
珍しく兄さんははっきりとした口調で言う。前から視線を逸らさずに彼は言葉を続けた。
「車は便利な道具だけど、その分、秘めた力は莫大――扱いをミスれば事故は当然、下手をすれば人命を損なう威力を持っている。だからこそ免許制度だし、免許を持った以上はその道具に関する責任を負うことになる。だから、免許を持つならちゃんと適切な講習を受けてから、取得するべきだ……それが筋だろうし」
「うん、確かに……兄さん、ちゃんと考えているんだね」
「教習所の講師がいい人だったからな。それに使い方を弁えれば、暮らしを豊かにすることもできる。ま、つまるところ、何でも道具はそうなんだが」
「確かに。アメリカでも銃は悪くなくて、銃を扱う人が悪い、というからね」
「よく勉強している。まさにその通りだ」
「分かった。じゃあ兄さんに運転してもらえば万事解決だね」
「……なんでそんな答えになるんだ」
渋面をこぼす兄さんに私は笑顔で告げる。
「だって兄さんの運転なら信頼できるし、私だったら運転しながら兄さんと楽しくお喋りできないもの。免許を取っても、多分、兄さんに運転してもらうな」
「……まぁ、今はそれでいいけど。免許を取ることは検討してくれ。就活でも有利になる可能性があるし」
「了解。でもそっか、就活か」
将来を考えるなら避けて通れない道だ。とはいえ、ぱっと思いつく進路はない。一応、合同説明会は見るようにしているのだが。
「……どうしよう」
「ま、やりたいようにやるのが一番だな。行きたい会社があれば、そこに行けばいいし、他にやりたいことがあればやればいい」
「簡単に言ってくれるねぇ、兄さん」
「実際、簡単な話だからな……甘やかすことになるから、あまり言いたくないが」
そこで一呼吸置くと、兄さんは目を細めて続ける。
「どんな結果であれ、僕は責任が取れるからな」
「あ……それってつまり」
いざとなれば、兄さんがお嫁さんに取ってくれる、という言葉に他ならない。
胸の底からじわじわと嬉しさが込み上げるのを感じながら、思わず私は頬に手を当てる。身体をもじもじするのを抑えられない。
「それは兄さん、私を甘やかし過ぎだよぅ」
「そう思うなら愛想を尽かされないように頑張ってくれ」
「つまり兄さんにご奉仕しろと」
冗談半分で口にすると、兄さんは軽く息を詰まらせ、視線を泳がせる。
「……ちゃんと進路を考えろ、ってことだ」
「あ、兄さん一瞬迷った」
「うるさい、運転に集中させろ」
「はぁい」
少し拗ねた口調に兄さんに笑いかけながら、私は外の景色を楽しんでいく。しばらく行くと車は京都の郊外へと向かい、見慣れない景色が広がっていく。
(なるほど、これは確かに)
流れていく夜景と、運転してくれる彼氏。その姿を見ながら思わず笑みをこぼしてしまう。
紛れもなく、大人のデートだ。