第9話-3 真夜中の吉田山で二人きり
■春馬視点
金戒光明寺があった紫雲山の北、吉田山。
吉田神社が座すその山は夜中、静まり返っている。一応出入りができ、公園もあるが真夜中に足を踏み入れる人はほとんどいないだろう。
「二人だけの話をするには、もってこいの場所かもね」
その吉田山公園のベンチに腰を下ろし、奈々は両手で缶コーヒーを握って小さく笑みをこぼす。わずかな光の中の彼女の笑顔を見ながら、僕はその隣に腰を下ろした。
「確かにな、考えてみるとそれもそうか……意外と京都は夜にも入れる場所は多いからな」
「そうそう。お寺とか神社とか……あとは森だよね」
「森――大文字山とか?」
「そっちもだけど、ほら、下鴨神社」
「……ああ、糺の森か」
奈々の幼い頃はよく探検だ、といって鴨川や下鴨神社に引っ張って行かれたのを思い出す。その後歩き疲れて途中で背負って連れて帰ったのもいい思い出だ。
「……いろんなところに連れていかれたな」
「えへへ、その節はお世話になりました」
そう笑みをこぼす奈々は缶コーヒーのプルタブを引いて開ける。僕も小気味いい音と共に缶を開けると、ふわりとコーヒーが立ち上った。
小さく口にすると、少し熱いくらいのコーヒーが身体に染みる。
「……やっぱ、缶コーヒーだな。外で飲むなら」
「分かるかも。ペットボトルだと、何か違うよね」
「まさしく」
缶コーヒーの方がより熱く、より開封したときの香りもいい気がするのだ。僕と奈々は束の間、コーヒーを味わいながら空を見上げる。
そしてぼんやりしていると、ふと奈々が小さな声で言う。
「……兄さんが戻ってきてから一週間か……」
「まだ一週間か」
「うん、まだ、だね」
思い出すとこの一週間、奈々といろんな場所を巡っている。
京都駅、堀川通、瓜生山、百万遍、鞍馬山、貴船神社、叡山鉄道、四条烏丸、花遊小路、裏寺町、金戒光明寺――そして、ここ、吉田山。
これだけでも多いのに。これ以上のものが京都にはある。
積み重ねた歴史の数だけ、京都には居場所がある。
その居場所の数だけ、奈々と思い出を積み重ねていける。
「……本当にいい場所だ、京都は」
「うん、昔があって今があって先がある」
「冬があり、春が訪れて」
「夏の日差しの果てに、秋が満ちていく」
奈々はそう答えたが、ふと疑問に思ったのかゆるやかに首を傾げる。
「……ちなみに、なんで冬スタートなの?」
「気づかないか」
「何か理由があるんだよね……んむ?」
奈々は思い当たらないのか、しきりに首を傾げている。小さく笑みをこぼして缶コーヒーを一口。それから軽い口調で続けた。
「実は覚えているんだ――奈々が生まれた日、雪が降っていた」
奈々が軽く息を呑む気配が伝わってくる。それを感じながら思い起こすように続けた。
「本当に……本当にぼやけた記憶だけどな、丁度、叔父さん叔母さんの差し入れだったのかな、それに一緒に行ったタイミングで生まれた、って聞いて――」
一人っ子だった僕は、その妹が一目見たくてたまらなかった。
だからこそ、母さんにお願いしてしばらく待って――そうしたら、一つの部屋で奈々と出会うことができた。ガラス越しだけど、看護師さんに抱かれた奈々を。
「といっても、本当に幼い頃の記憶だ。けど、その記憶は鮮烈に残っている」
冬の寒さを、雪の景色を、初めてできた妹のことを。
だからこそ、僕にとっての四季の始まりは、冬なのだ。
そしてこの秋が終わればまた季節が始まる――。
「だから……これからも奈々と一緒に、四季を楽しんでいきたい」
「兄、さん……」
視線を奈々に向けると、彼女はじっと僕の顔を見ていた。微かな光の中でも彼女の目が潤んでいるのが分かる。熱っぽい吐息がふわりとこぼれだすのも。
その瞳を見つめ返して、小さく笑いかける。
「まだまだ、奈々のとっておきはあるだろう?」
「もちろんだよ……私も、兄さんとその景色を見ていきたい。これから先もずっと」
奈々は小さな声でそう言いながら、そっと間合いを詰める。
握り拳一個空いていた、二人の距離。それを詰めて膝がぶつかり合う。肩もぶつかり、奈々の顔が間近に映る。彼女の瞳も、睫毛も揺れている。
「兄さんも、一緒に来てくれる? これから先も」
「ああ、ずっと一緒に。むしろ、奈々を連れ回す勢いで」
「ふふっ、悪くないかも」
じゃれつくように奈々は肩に額を擦ってから視線を上げる。その上目遣いは何かをねだるような目つきで――だけど、どこか大人っぽくどこか色っぽい眼差し。
それを真っ直ぐに受け止める。覚悟は、もう決まっていた。
口にすれば、もう後には戻れない。今までの従兄妹同士ではいられないだろう。
でも、奈々と一緒なら新しい関係性でも笑って過ごせる自信がある。
だから、怖くない。その言葉は自然と口から発することができた。
「……奈々、好きだ。これからも一緒にいて欲しい」
「はい、兄さん……ずっと好きでした。そして、これからも」
互いにはっきりと口に出し、視線を合わせる。奈々はそっと目を閉じて唇を尖らせる。何を求めているかはさすがに分かる――僕は顔をゆっくりと近づけ、唇を重ね合わせた。
胸が高鳴り、周りの寒さも感じない。ただ感じるのは奈々の唇の柔らかさだけだ。
数秒間のキスは、まるで一分近く感じた。さすがに息苦しくなりゆっくりと身体を離す。それから僕は一つ息をこぼすと、奈々も長い吐息をこぼしていた。
「……息、止めちゃうな」
「……うん、なんだかすごくドキドキした」
奈々はどこか熱に浮かされた口調で言い、確かめるように自分の唇に触れ――ふと呟く。
「苦い」
「……ん?」
「いや、ファーストキスはレモンの味、とかいうけど、苦いね」
「そりゃ、コーヒー飲んでいるからだろう」
何なら僕のキスの味も苦かった。慣れた味だから嫌いじゃないけど。
色気のない感想に僕は苦笑いをこぼした。やはり奈々は、奈々か。
「ほら、コーヒー飲んで少し落ち着く」
「ん……」
奈々はこくこくとコーヒーを飲む。僕もコーヒーを口にしていると、彼女の表情が徐々ににやけつつあることに気づく。奈々はコーヒーを飲み終えると、身体をくねらせた。
「えへへ……やった、兄さん、好きって言ってくれた……っ」
「ああ、そうだよ。好きだよ、奈々」
気持ちを込めて言うと、奈々はさらに身体をくねらせる。
「なんだか夢みたい。いつも兄さん、あしらってくるだけだから好みじゃないのかな、とか思っていたけど」
「こっちにもいろいろ考えがあってな、今日でようやく肚を括った、って感じだ」
一週間で気づいた気持ちだ。だからもしかしたら性急だったかもしれない。
だけど、奈々と積み重ねた時間は一週間ではなく、彼女が生きてきた時間それそのもの――だからこそ、踏み切るのが早かった。
「……待たせたな、というべきか?」
「ううん、全然。ちゃんと兄さんらしく形にしてくれた。それで今は満足だよ」
奈々は弾けんばかりの笑顔を浮かべ、ふと目を細めると身を寄せてくる。
「あ、でも折角恋人になれたわけだから、もう一回キスしたいかな」
少しおどけた口調だが、その瞳は物欲しげに揺れていて。
仕方ないな、と僕は軽く苦笑いをこぼし、そっとその頬に手を添える。彼女が目を閉じたのに合わせ、僕は再び唇を合わせる。今回は少し落ち着いて奈々の反応も見られる。
彼女の身体は強張り、微かに震えている――というか、これは。
少し目を細めて身体を離す。ふぅ、と奈々が一息をついたところで、僕は手を出した。
「じゃ、奈々、そろそろ行こうか」
「えー、兄さん、もう少し余韻に浸ろうよ」
「別にそれだもいいが……お前、大分寒いんだろ」
「……う」
視線を逸らす奈々――その唇は化粧で隠されているものの、若干血色が悪い。僕は手を取って立ち上がると、彼女は不承不承立ち上がる。
「……折角のロマンチックだったのに」
「悪いが、恋人に風邪を引かせる趣味はないんでね」
「……なら許す」
恋人、という単語に機嫌を良くしたのか、奈々は表情を緩めると僕の腕に抱きつくように寄り添ってくる。山歩きでこういう歩き方はよろしくないが――。
(ま、吉田山は整備された場所だからな)
いざとなれば支えてやればいい。僕はそう思いながら山を下りる方向に足を向ける。
「じゃあ温かいところに入って身体を温めるか」
「ん、そうだね……でもそうなると、この辺は居酒屋かなぁ」
確かに百万遍で夜、暖を取れる場所といえば、居酒屋だ。奈々は腕に抱きつくようにしながら残念そうにため息をこぼす。
「二人きりにはなれそうにないね」
「ところが、実はいいところがある」
「え、うそ」
「本当。というか、これは大人のずるいところなんだが」
と、その前に。
「奈々、明日の用事は?」
「え、兄さんと恋人の初デートするくらい? 大学も講義ないし」
「つまり、特別な予定はない、と」
「兄さんとのデートはいつでも特別だけど……まぁ、そうなるね」
「嬉しいことを言ってくれるが、その予定はなしにしよう」
「え……」
がびん、と奈々は表情を固まらせる。その反応を楽しみながら、僕は口角を吊り上げる。
「初デートはこれから。大人のデートと洒落込もうか」
「あ……え、大人のデート……っ」
固まった表情が一瞬で花咲き、かと思ったら恥じらうようにもじもじする。想像以上の百面相で面白い。その次の瞬間には、奈々は慌てた表情になった。
「に、兄さん、嬉しいけど、今日は、その下着が……」
「……下着が、どうした? 関係ある?」
「も、もうっ、言わせないでよ、兄さんのえっちっ」
「勝手に想像を膨らませて誤爆するのは止めてくれないか……」
なんとなく想像がつき、こっちも恥ずかしくなってくる。咳払いを一つして努めて冷静な口調で言葉を返した。
「悪いが、そういう大人のデートじゃない……語弊のある言い方だったな」
「ゔ……じゃあどういうデート?」
顔を赤くしながら奈々は僕の腕に額をぐりぐり押し当てて訊ねてくる。僕は苦笑いをこぼしながら、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「こういうデートだ」
取り出したのは一本の鍵。意表を突かれたのか、彼女は赤い顔を隠すことも忘れ、不思議そうな顔でそれを見つめている。僕はそれをポケットに戻しながら笑った。
「子供にはできないデートを教えるよ。奈々」