第1話-1 イノダコーヒーは京都の味
■春馬(主人公)視点
京都は自分にとっての生まれ故郷だ。
生まれ育ったのはこの自然と文化が入り交じる街。場所ごとに、季節ごとに表情を変える街並みを見て僕は育ってきた――そんな僕の傍にいたのは、従妹の奈々だ。
彼女は僕の六つ年下だ。叔父の家が近いこともあって、よく幼い頃は一緒に遊んでいた。叔父叔母夫婦が共働きで、奈々がよく僕の家に預かられていたのも一因だ。彼女は昔から活発に遊び回り、僕を引っ張るように京都中を探検した。
一人っ子で、弟妹に憧れていた僕は何だかんだで、奈々と遊ぶのが嫌いじゃなかった。幼い彼女の見せる笑顔が微笑ましくて、振り回されるのも悪くないと思っていた。
そんな日々が終わりを告げたのは、僕が東京に進学することを決めたとき。それを話したとき、え、と奈々が目を見開き、表情を強張らせたことをよく覚えている。
次の瞬間、彼女は笑って応援してくれた。だけどその無理をしたような笑顔に僕は胸を締め付けられたのをよく覚えている。
やがて僕は東京に行って勉学に励み、四年後にはそこで就職した。けど、東京での暮らしの合間で、ふと思い出すのは京都のこと――奈々のこと。たびたび帰省していても、慣れ親しんだ街が恋しい。東京では物足りないのだ。
それを知ってか知らずか――会社で上司に呼び出され、ある提案がされたのだ。
『京都の支社へ行ってみないか?』
それはつまり、異動――転勤の是非を問うてきたのだ。
無理強いはしない、と気遣う上司の言葉に気づけば、僕はその場ですぐに答えていた。
『僕が行きます――行かせてください』
---◇---
「で、本当にすぐに転勤が決まったな」
「へえぇ、夏にも軽く聞いたけど、本当に急だったんだね」
京都駅にあるアスティロード――老舗菓子屋や土産物などの支点が軒を連ねる京都駅建物内にある通り道。そこの一角にあるイノダコーヒーで僕と奈々は向かい合って席についていた。
注文したコーヒーが来るまで、奈々と他愛もない会話を楽しむ。頬杖をついた奈々も緩んだ笑みをこぼし、僕の仕事の話に耳を傾けてくれる。
「ま、僕の場合は実家があるから、仕事に引き継ぎだけで済んだし」
「確かに。それならすぐ異動できるかー。なんか兄さんを都合よく扱われている気がしなくもないけど。ちゃんと手当とかもらっている?」
「それはもちろん。ウチはホワイト企業だし、それに一応、これは栄転だからさ」
「あ、そっか、昇進おめでと、兄さん」
「取ってつけたようなお祝いをどうも、奈々」
小気味いいやり取りに思わず表情が緩んでしまう。喫茶店の居心地のいい雰囲気も相まって、精神的な疲れが解けていくようだ。
そこで丁度、店員さんがやってくるのを見て、二人は会話を止める。上品な所作を見せるイノダの店員さんは丁寧な手つきで二人の前にコーヒーを置いてくれた。
ふわりと漂った香りに胸が躍る。ああ、この香りがイノダだ。
「ごゆっくりどうぞ」
店員さんが立ち去ると、奈々は目を細めて、どうぞ、とコーヒーを掌で示す。
(……本当、分かっているな、こいつ)
気心の知れた仲。僕がこのコーヒーをどれだけ楽しみにしていたかも知っているのだ。僕は一つ吐息をこぼすと、カップを持ち上げてコーヒーを口に運ぶ。
唇から口の中に広がっていくコーヒーの香り、芳醇な味わい。
ああ、と吐息と共に声がこぼれてしまう――最高の一杯だ。
「――これだ……これだよな、イノダは」
「……兄さん、本当に好きだねぇ、コーヒー」
「ああ……いや、マジで美味い、本当に」
国内に喫茶店は多くあり、ブレンドコーヒーといえばその店によって味わいは異なる。その中でも僕が気に入っているブレンドの一つを、このイノダで味わえる。
正直、この一杯は一言では言い表せない旨さなのだ。苦みや酸味だけでなく、まろやかさやコクがあり、絶妙なハーモニーを奏でている。旨味という深みに呑まれているような感覚さえ覚えてしまう。
久々のイノダコーヒーの味わいに、思わず感極まって目を閉じてしまうくらいだ。
「ああ……帰ってきたな……京都に」
「うん、おかえりなさい。兄さん」
大袈裟な反応かもしれない。だけど、奈々は笑うことなく優しく穏やかに言葉を返してくれる。やがて目を開けると、奈々もゆっくりとカップを持ち上げてコーヒーを口にする。
「ん。確かに美味しい。イノダの味だ」
奈々も味わうようにコーヒーを飲み、落ち着いた吐息をこぼす。無邪気な彼女が見せた穏やかな表情に少しだけ目を奪われ――ふと、それに気づいた奈々が大きな目をぱちくりさせて首を傾げる。
ああ、いや、と僕は手を振ると、曖昧に笑ってごまかした。
「本当にイノダはいいよな、と思って。店の雰囲気もいい」
「だよね。古めかしいけど、上品で落ち着いていて」
イノダコーヒーはどこかレトロな雰囲気を漂わせる、高級感のある喫茶店。京都を中心に展開しており、京都に戻ったときは必ず足を運ぶ店舗だ。深みのある木をベースにした調度品の数々や瀟洒なコーヒーカップなど、まさに純喫茶、という雰囲気を味わえる。
(京都じゃなくても、東京駅にもあるんだが――違うんだよな、やはり)
東京駅のイノダコーヒーはいつも混んでおり、なかなか足を運べないのだ。
「失礼します。お冷のお代わりをお持ちしました」
そして水を切らすとすぐさま店員さんがやってきて、グラスごとお冷を取り換えてくれる。接客も行き届いたお店なのだ。もちろん、その分喫茶店にしては良いお値段設定だが、それだけ払っても惜しくない時間を味わえる。
(……本当に京都に戻った、気がするな……)
ゆったりとした時間の過ごし方ができるのも魅力の一つだ。
じっくりとコーヒーを飲んでその味を確かめていると、ふと奈々が首を傾げる。
「そういえば、兄さん、仕事はいつから? 今は、異動期間、なんだよね?」
「ん、そうだな、一応三日間、期間はもらっている」
異動となれば引っ越しなどで手間がかかるのが常だ。
引っ越しをすれば住民票を移したり、電気、ガスの手続きが必要になっている。とはいえ、僕は実家へ出戻りなので、そんな手間もない。
「じゃあ、お仕事は三日後?」
こてん、と反対側に首を傾げる奈々。いや、と僕は苦笑い交じりに首を振る。
「実は再来週。折角だから有休を取った」
東京での暮らしでは全く有休を取ることはなかった。休みの日は特別やることがなく、奈々や大学の同期と連絡を取っていたくらいである。
だから、あまりに余った休暇をここで使うことにした。
「久々に過ごす京都をゆっくり見て回りたくてな――ってなわけで、奈々」
目をぱちくりさせた奈々に僕は笑いかけながら訊ねる。
「また、いろんな場所に連れていってくれるか? 奈々一押しの京都に」
「あ――」
その声に彼女は目を見開くと、次第にその表情が笑みこぼれた。えへへ、と口元を緩ませながら、奈々は軽く身を捩る。
「もう、仕方ないな、兄さんは。そうだよね、東京に行っている間に大分街並みが変わったもの」
「……たとえば?」
「四条通の歩道が広くなったり?」
「え、マジかよ。河原町から烏丸の?」
「うん、そこ」
思わずただでさえ車道が狭い四条通を思い浮かべる。ただでさえ、バスやタクシーでごった返していた車線。それが減ったと考えると――。
「――見てみたいような、見たくないような」
「ちなみにアーケードの庇の長さは元のまま」
「雨の日しんどいな、おい」
つまり拡張した歩道は雨ざらし、ということだ。いろいろと都市計画として抜けがなかろうか。思わず呆れる僕に奈々は、んー、と頬に指を当てて少し考える。
「まぁ、それは極端な例だけど、いろんな寺院に改修が入ったり、観光整備が進んで変わったところが多いかな。京都駅も地味に変わったし」
「確かに。そう考えるといろいろ見どころがありそうだな」
「そこはお任せあれ、だよ」
ぽん、と奈々は自身の胸を叩き、自信ありげに笑う。僕も目を細めて頷いた。
奈々は京都についてとても詳しい。何せ探検好きで、散々幼い頃から僕を引っ張り回し、僕の知らない道を次々と見つけてきた。きっとまたいろんな場所を見せてくれるだろう。
それは高校の旧友に合うよりも、家でごろごろするよりも、きっと楽しいはず。
そう思いながら口に運ぶコーヒーは今までよりも芳醇な味わいがして、どこか胸が躍った。