第6話-2 御多福珈琲は幸せの味
■奈々視点
京都は歴史の街として知られる一方で、喫茶店が多くある街でもある。
全国チェーンのカフェはもちろん、兄さんが京都に戻った初日に立ち寄ったイノダコーヒーなど、京都内をメインでチェーン展開している喫茶店もある。個人経営の店も含めたらどれくらいあるだろうか。
その中でも兄さんがイノダの同じくらい愛する喫茶店が、この花遊小路の近くにある。四条寺町の南側。交差点の一角にある建物の地下にある隠れ家的な喫茶店――。
その名も、御多福珈琲――ドリップコーヒーの美味しい店だ。
「……ああ、美味い」
ため息のような兄さんの低く落ち着いた声は、この喫茶店にぴったりだった。
使い込まれた色合いの木を基調とした内装に、赤いソファーとランタンのような照明。レトロな雰囲気を漂わせる店内を楽しみながら、私もコーヒーを口に運んだ。
空調も程よく歩き回った疲れが解れてくるようだ。
(……あれから結構歩いたからね……)
花遊小路を満喫した私と兄さんは裏道から裏寺町通に抜けて散歩していた。
裏寺町通は新京極商店街のすぐ横を並行して走る細道であり、喧騒から逃れるには丁度いい。そこを通りながら気になる店だけ軽くチェックしつつ、兄さんと二人でお喋りし続けていた。だから、この落ち着いた雰囲気が尚更心地いい。
(御多福はスイーツも美味しいし)
併せて注文したプリンを口に運ぶ。ふわ、と舌先に広がる優しい甘味と濃厚なキャラメル――それを楽しんだ後に飲むコーヒーもまたたまらない。
疲れた体に染みる甘味に思わず頬に手を当てると、兄さんの視線がふっと緩んだ。視線を合わせて私は軽く眉を吊り上げる。
(なにかしら、兄さん)
彼はその視線に大袈裟に肩を竦める――何でもないよ、奈々。
おかしくなって同時に笑みをこぼすと、二人は自然と一緒のタイミングでカップに手を伸ばす。コーヒーをじっくりと飲み、店の雰囲気に耳を澄ませるようにして。
兄さんが何気なしに口を開いたのは、プリンを食べ終わる頃だった。
「……なんだか、贅沢な時間だな」
「……この時間が、ってこと?」
問い返してから、プリンの最後の一口を味わう。ああ、と兄さんは一つ頷き、背もたれに背を預けて深く吐息をこぼす。どこか疲れたような眼差しで上の方を見上げながら、彼はゆっくりと続けた。
「社会人になってから、何だか仕事のことばかりを考えていた気がする。たとえ休日でもその先にある仕事を意識して――みたいな感じに」
その言葉には社会人として生きてきた兄さんの苦労が滲んでいるようだった。私はスプーンを器に置きながら、ふと思い出す。
(そういえば、テレビ通話していたときの兄さんの顔、こんな感じだったな……)
顔色も悪くなくいつも通りなのに、何故かやつれているような、不健康に感じるときがあった。大丈夫?と聞くと、必ず笑って、何がだ?と聞き返してくるのだが。
「……疲れていたんだね、兄さん」
「ん……そうかもな、こういう時間が過ごせる場所を東京では見つけられなかったし」
それに、と彼は言いながら視線を私に向けて小さく微笑みを見せる。
「僕を連れ回してくれる女の子も、東京にはいなかったからな」
「連れ回して悪かったわね」
からりと笑い返してからふと、あれ、と思う。
(今、私のこと、女の子って言った?)
いつもは『やんちゃな従妹』とかそんな言い方をするのに。その変化に少しだけ胸を高鳴らせる一方で、兄さんはいつも通りにゆったりとした笑みを浮かべる。
「悪くない。気晴らしになって助かっているよ。今日のアクセもちょっとしたお礼だ」
「あ……えへへ、ありがとね、兄さん」
首にかかったシルバーのアクセサリーに視線を落とし、思わず表情を緩める。これは兄さんが私に買ってくれたアクセサリーだ。指輪型のアクセにチェーンが通されたお洒落なデザインでちょっとお高めの商品。遠慮したものの、お守り代わりだ、と言って半ば強引に兄さんが買ってくれた。
「でも珍しいね、兄さんがこういうのをくれるの」
「ん……まぁ確かにな。というより、買う機会がなかった、というのが真実だが」
「……確かに、こういうアクセって贈るタイミング難しいよね」
ふと思い返すと、兄さんからもらったものといえば、食べ物を除けば実用品ばかりだ。兄さんのおさがりの文房具や本とか……あと、誕生日に時計をもらったこともあるくらいか。
その腕時計は今も大事に私の腕で時を刻んでいるわけだが。
「それに、僕が京都にいた頃はまだ奈々は子供だっただろう。アクセサリーは少し早い気もしてな。けど、今ならちゃんとつけこなせるだろう?」
「……確かに」
今なら首に下げるものだけでなく、イアリングや指輪もつけこなせるだろう。
(相変わらず兄さんはちゃんと私を見てくれるな……)
また胸がときめく。気配りに関してはやはり兄さんは天才的だ。胸の前のアクセサリーを指で転がしながら、その感触に満足し――ただ、違和感は残る。
「でも、兄さん、『お守り代わり』って言ったよね。なんで?」
「ん……まぁ、そうだな」
彼は珍しく言いづらそうに口ごもる。だがすぐに一つ咳払いすると、淡々と告げる。
「奈々、さっき言い寄られることもある、と言っただろう」
「ん、言ったね」
「そういう男たちに対して牽制になると思ってな」
(あ……)
ちら、と指輪型のアクセを見る。確かに、これなら『彼氏から贈られたもの』と強弁できなくはない。いや、そう言わずともそう察することができる。
「心配してくれたんだ」
「当たり前だろう……自分の器の小ささに嫌になるがな」
「ふぇ? なんでそういうことになるの?」
小声で付け足された言葉に私は思わず目を丸くした。
兄さんは私を心配してアクセを贈ってくれた。気配りと優しさこそ感じるものの、器の小ささなど感じない。むしろ、そんなことを考えたこともない。
うっかりこぼしてしまった呟きだったのか、彼はふと目を見開くと曖昧に笑った。
「ああ、いや何でもない」
「……すごく何でもなさそうだけど」
ぐっと身を乗り出し、テーブル越しに兄さんの目を見つめる。兄さんが曖昧に笑うときは何か隠し事、もしくは何か悩んでいることをごまかそうとしているときだ。
ただでさえ、兄さんは抱え込む傾向にある。ビデオ通話のときはごまかし通されることが多かったが、京都ではそうもいかない。じっと兄さんの目を見つめながら、じゃあ、と私は揺さぶりの一手を放つ。
「隠し事するなら、伯母さん伯父さんに相談しようかな。兄さんが私に隠し事をしているみたい……って」
「お、おいおい……すごく取るに足らないことだぞ?」
「取るに足らないことなら話してくれるよね?」
「いや……その……」
兄さんがここまで口ごもるのも珍しい。何となく楽しくなってくるが、困らせてしまうのは本意ではない。真っ直ぐに彼を見ながら、逃げ道を作るように言葉を続けた。
「……別に、言いたくないなら構わないけどね?」
とはいえ兄さんは、真っ直ぐな人だ。少なくとも私には隠し事せずに誠実にあろうとしてくれる。だからこそ、兄さんは迷うように視線を彷徨わせ。
仕方なさそうな笑みを浮かべ、小さく言葉を続ける。
「……笑ってくれるなよ、奈々」
「どうだろうね、少なくとも兄さんは嫌いにならないけど」
「ん……実は、奈々が他の男に言い寄られている、と聞いたときに、その男たちに嫌な感情を抱いてな。奈々をそんな目で見て欲しくない、と思ったんだ」
「……ふぇ」
思わず変な声がこぼれてしまった。目をぱちくりさせ、その言葉の意味を考える。
(もしかしなくても、兄さん――)
私に、独占欲を抱いている?
それに気づいた瞬間、胸の奥から突き上げるような感情が迸り、胸が高鳴った。表情が緩みそうになり、それをごまかすようにコーヒーを飲む。
その一方で兄さんは深くため息をつき、首を振っていた。
「みっともないよな、奈々の交友関係に口を挟みたくはないが、そういう男たちとは話さないで欲しいとも思ってしまって。そんな個人的な感情でアクセサリーを買い与えている。まさか、ここまで器が小さいとはな」
(……兄さん、本当に真っ直ぐだな……)
なんだかそんなところにきゅんとしてしまう。その気持ちを押しとどめるようにコーヒーをゆっくり飲み終えてから――そっと兄さんに笑いかける。
大丈夫だよ、と柔らかく伝えるように。
「兄さん、別に器が小さいとは思わないよ。むしろ、兄さんらしいな、と思う」
「そうか?」
「そうそう。だから、兄さん、これ大事にするね」
そっと胸の前にあるペンダントを掌に収めながら、週明けの大学の授業を思い浮かべる。きっと目ざとい友人はこれに気づいて訊ねてくる。
そんな彼女に、周りの男たちに聞こえるように、笑いながら言うんだ。
「大事な人からもらったアクセサリーです、って自慢するよ」
「……っ、そう、か」
一瞬、彼は言葉に詰まったが、すぐに安心したように笑ってからコーヒーカップを持ち上げる。それで隠される寸前、彼の口元がわずかに緩んでいるのを奈々は見逃さなかった。
だから彼がコーヒーを飲み終わってから、身を乗り出して冗談半分に言う。
「ね、兄さん、折角ならもっとお守りになるアクセサリーをくれない?」
「おねだりか? 別に構わないが、何がいいんだ?」
「指輪。ペアリング」
「……それはさすがに、まだ早いだろう」
兄さんは呆れたように言うと、伝票を取り上げてそれでぺし、と軽く私の頭を叩いてくる。むぅ、と唇を尖らせながら会計に席を立つ兄さんの後ろ姿を見やり。
ふっと思わず表情を緩ませ、頬に手を当てた。
(……まだ、か)
それはいつか贈ってくれることを検討している、ということで。
その事実に頬が熱くなるのを隠し切れなかった。