第4話-5 登山道の足元にはご用心
ふと兄さんが足を止めたのは、大分鞍馬山を進んだ辺りだった。
「ここからの眺めがすごく綺麗だな」
「あ、本当だ。これは写真に撮ろうかな」
言われて見てみると、登山道と登山道と紅葉が良いバランスで入りそうだ。
感覚的にそれを感じて頭の中で構図を組み立てる。スマホを取り出し、身体を手すりに預けて姿勢を安定させた。
(明かりも充分。これなら自動補正任せでいい写真が撮れるかも)
本当はマニュアルの設定で細かく調整して撮影するのだが、兄さんを待たせている以上、あまり時間はかけられない。今回は手早く撮る手段を選ぶ。
ピントを紅葉に合わせて何枚か撮る。若干アングルを変えて何枚か。
撮れた写真を確認し、出来栄えを確認すると、兄さんが横からのぞき込んで少し目を細めた。
「いい写真だな。紅葉の鮮やかさが分かりやすい」
「ん、木漏れ日が良い感じに紅葉に当たってくれたからだね」
写真の紅葉は見事に鮮烈な赤だ。ソフトで加工すればさらにいい写真になりそうだ。一つ頷いて視線を上げると、紅葉を眺めていた兄さんが視線を合わせてくれる。
「ん、大丈夫か?」
「うん、ありがと。行こっか」
二人は再び歩き出す。もうすぐ夕暮れを迎える日差しは徐々に茜色に染まりつつあった。他にもいい紅葉があるか視線を巡らせていると、兄さんがふと訊ねる。
「これまで撮った写真だとどういうのがあるんだ?」
「ん? いろいろだよ。もちろん、京都の写真ばかりだけど」
学校で写真を志す子は、いろんな被写体を撮る。人もいれば物もあるし、動物や植物を被写体にする子もいる。だけど、私は基本的に風景しか撮らない。
兄さんに折角見せるなら、彼の好きな京都を見せたいからだ。
「そういえば、兄さんに見せたことなかったね」
「ああ、見てみたいとは思うけど」
「んー、なら私のパソコンが必要かも」
「パソコンに写真を保存しているのか?」
「一応、クラウドにも保存しているけど、それは元データだからね」
つまり、加工前のデータだ。スマホで写真を撮った後は露出や色味などを調整する必要がある。無論、そのまま見せてもいいが折角兄さんに見せるなら、素敵な写真がいい。
「レタッチした後の写真、今度、見せたげる」
「それは光栄だ。楽しみにしておこう」
兄さんは嬉しそうに笑うので、釣られて笑みをこぼしてしまう。
(兄さんに見せるためにいろんな写真を撮ってきたからなー)
春夏秋冬、いろんな風景を撮ってきた。いろんな京都の写真が私の家のデスクトップの中に保管されている。ハードディスクに詰まった写真のどれを見せようか、想像を膨らませ――はた、と思い至る。
(あれ、ってことは)
それはつまり、兄さんを家に招く、ということである。兄さんの家に押しかけ、部屋にあがることは正直多々ある。だが考えてみると、兄さんを部屋に招くのは。
ひょっとして、小学生以来なのでは?
(……う、なんだか兄さんを自分の部屋に招くだけなのに、変な気分になる)
兄さんと部屋で二人っきり。きっと何も起こらないけど。
もしかしたら。ひょっとして。
想像するだけでなんだか生々しく、なんだか顔が熱くなってきてしまう。。兄さんをちらちら見ていると、彼はその視線に気づき、ん、と首を傾げた。
「奈々、少し顔が赤い気がするぞ?」
「え、あ……っ、気にせい、じゃない?」
「そうか?」
「そうそう。夕日も強く照ってるし――そろそろ魔王殿だからそこで休もうよ」
笑ってごまかしながら早足に進む。兄さんの先に出て、ぴょん、と木の根を飛び越える。私を追いかけるように兄さんは足を速めながら苦笑をこぼした。
「急ぐのはいいが、転ぶなよ。この辺は地面がよく濡れているから」
「大丈夫、大丈夫」
なんだかんだで結構、鞍馬山は登っているのだ。しっかりと足場を見て行けば大丈夫だ。軽快に進んでいき、危ない場所は避けて進む。
軽く進んでから振り返ると、兄さんも早足でついてきてくれる。大股で木の根っこを跨ぎ越し――だが、その足が軽くつまずいた。
「お、っと」
「あ、兄さん」
私の方へ軽くたたらを踏んだ兄さんを支えるべく手を伸ばし、肩に触れる――だが、その勢いは想像より少しだけ強かった。支えきれず押されるように私も二歩後ずさり、木に背がぶつかる。その木に兄さんは片手をつくと、間近な距離で小さく吐息をこぼした。
「……悪い、少し躓いた。大丈夫か? 奈々」
「あ、うん、大丈夫――」
そう言いかけながら視線を上げ――思わず口を噤んで目を見開く。
(……ぇ、この体勢、は)
目の前で兄さんが迫り、木に添えられた手が逃げ場を塞いでいる。
つまり、これは壁ドン。少女漫画でよくある構図で。
兄さんから目を逸らすことができない体勢だ。
気遣ってくれているのか、兄さんは真面目な眼差しで目を見てくる。その真っ直ぐな視線から逃れることができず、私は息が詰まりそうになる。
凛々しい顔つきに心拍数が上がる。
熱が込み上げ、頬が熱くなってくる。
だけど、彼から目が離せない。大好きな兄さんを見ていたい。
「――奈々」
低い声が耳朶を打ち、兄さんが手を伸ばした。壊れ物に触れるかのような手つきで、私の頬がそっと撫でられる。あ、と声をこぼした瞬間、彼はわずかに目を細めた。
そして、その手が顎に添えられ、彼の顔がわずかに近づき――。
むに、と頬を両側から挟まれた。
「ぅえ」
「……そんなに、太っている感触ではないと思うが」
むに、むに。顔の下から兄さんの指が頬を挟み込み、感触を確かめられるように触れられる。私は思わず呆気に取られていたが、一瞬で我に返る。
「に、に、にににに、兄さんっ!」
思わず声を荒げると、悪い、と彼は笑いながらぱっと後ずさった。そのままひらりと手を振り、悪戯っぽく片目を閉じる。
「さっき、素直に見せてくれなかったからな」
「うぅ、だからってぇ……」
思わず恨めしくなって唇を尖らせると、ふと兄さんは目を細めた。どこか優しい表情になって穏やかな口調で告げる。
「大丈夫だ。奈々はかわいい。少なくとも、僕が見惚れるくらい、綺麗になった」
「…………っ」
不意打ちの誉め言葉。それにどきっと胸が高鳴り、言葉が詰まる。
(え、うそ、兄さんが、見惚れた……?)
都合の良すぎるような台詞に耳を疑う。そんな中、兄さんは視線を道の先に向けて登山道を再び歩き始めていた。
「よし、じゃあ行くぞ、奈々。もうすぐ奥の院魔王殿だ」
「ま、待ってよ、兄さん。今、なんて……っ」
「ん? もうすぐ奥の院だろう?」
「そうじゃなくて、その前……」
「そんな前のことは覚えていないなー」
「うそつきっ」
私の恥ずかしい記憶は些細なことさえ覚えているくせに。私が兄さんの隣に早足で並んで横目で睨むが、兄さんは少し口元に笑みをこぼす。
少し腹が立って肘鉄で軽くどつくと、悪い、と彼は頭に手を載せてくれる。
髪をさらさらと梳かれると気持ちいい。思わず目を細めると、彼は低い声で告げた。
「貴船に降りたら、甘い物を奢るから」
「そんなので懐柔されると思ったら大間違いだから」
「そうか? 昨日調べたんだが、貴船には美味しい湯葉スイーツがあるそうだ」
「……ゆば」
ちょっと想像しなかった単語に興味が惹かれる。うむ、と彼は頷きながら言葉を続けた。
「貴船は豊富な湧水で有名だろう? だからそれを使った湯葉も名産だが、それを利用したスイーツがあるらしい。ヘルシーでカロリーも低く、女の子に人気とか」
ヘルシー、低カロリー。確かに体重に悩む女の子に魅惑の単語の数々だ。
問い詰めたい気持ちと、目先のスイーツ。ぐらぐらと天秤に揺れる心を見透かしたように、兄さんは表情を緩めて告げる。
「話はそこでゆっくり聞くから、機嫌を直してくれ。奈々。お願い」
その一言で天秤が大きく傾いた。視線を逸らし、あくまで仕方なさそうな口ぶりを装って告げる。
「……あとでたっぷり話を聞くからね?」
といっても、私のことをよく知っている兄さんのことだ。お店でも私の意識を逸らしてのらりくらりと躱してくるに違いない。
(ま、兄さんの本音の一端を見られただけで、良しとするかな)
それに、と私はひっそりと兄さんに見えないように笑みをこぼす。
私にはまだ奥の手がある。鞍馬山のハイキングはほんの座興――本命は日が暮れた後に見られるある光景。それで兄さんの心を揺さぶるつもりだ。
圧倒的な絶景で、兄さんをあっと言わせてやるんだ。