第4話-4 秋を感じる鞍馬山
■奈々視点
本殿の参拝を終え、登山道に入っていく。そこからは一層森が深まり、秋の香りが立ち込めてくる。緑に入り交じり、鮮やかな赤と黄色が彩る森を私と兄さんはのんびりと歩いていた。久々の鞍馬に兄さんは懐かしそうに目を細める。
「そうだ、こんな森だったな。道も最低限の整備だけで」
「そうそう。あ、兄さん、根っこ滑るから気をつけて」
「了解。ほら、奈々」
兄さんは大きな歩幅で地面に隆起した根を飛び越えると、私に手を差し伸べてくれる。その手を取ると、私はその根っこを踏み越えた。
(兄さんの手、大きいな……)
子供の頃から感じていた、頼もしい掌。私の手なんかすっぽりと覆ってしまいそうで、少しごつごつした掌。いつも子どもみたいに頭を撫でてくれる掌。
子ども扱いは不本意だけど、そうして撫でられると嬉しくなってしまう。幼い頃からの刷り込みのせいかもしれない。その手を握られるとどきどきしてしまうが、彼はあっさりと手を離してしまう――少しだけ、残念。
(そうだよね、いつまでも子供じゃないから)
幼い頃にも兄さんとお父さんと一緒に来たこともある鞍馬の森。そのときは帰り道で疲れて兄さんに負ぶってもらったけど、今は違う。
こうして兄さんの隣でしっかり歩いていける――とはいえ。
「……地味に険しいよね、鞍馬山って」
「本当にな、なんでこう根っこが隆起しているのだか」
大きく波打つような根は地面に露出している。それを眺める兄さんの横で斜面を登りながら、えっと、と私は記憶を手繰った。
「ざっくり言えば、地面が固いせいなんだけど」
「本当にざっくりだな」
「まぁね、とはいえ、京都ってそういう街だから」
京都市内――もっと言うと平安京のあたりは大昔、湖だったという。その水が引く際に、山の土が流されてきて底に積もってできたのが京都の盆地である。イメージとしては石のお茶碗の中に土が敷き詰められている感じだろうか。鞍馬山は石のお茶碗の縁にあたる。
「――って、それは兄さんも知っているか」
「ああ、もちろん……なるほど、ノートだな」
「正解」
兄さんの日本史のノートには当時の先生の雑談なのか、時々、そういう豆知識が余白にメモしてある。それを拾い読みしているだけでも、いろいろと勉強になった。
私が思わず笑みをこぼすと、兄さんは少し感慨深そうにつぶやいた。
「あのノートが奈々の役に立ったとは……もう少し真面目に書くべきだったかな」
「大分、真面目に書かれていたと思うけど?」
兄さんのノートは基本几帳面で、後から見直しても分かりやすいように書いてあった。私の通っていた高校は、兄さんと同じシリーズの教科書を使っていたこともあり、副読本として最適だった。それに、と私は続けて言う。
「分からないところはやっぱり、自分で調べるべきだと思うし」
「奈々はしっかりしているな」
「兄さんの薫陶のおかげだよ」
「それなら嬉しいが――おっと、気をつけて」
「うん、分かっている」
大きな根っこは兄さんなら跨げるが、私の歩幅だと厳しい。また手を繋いで踏み越え、先へと進んでいく。森はさらに深まり、木々の密度も増していく。
洛中は日差しが温かく汗ばむくらいだったが、ここはひんやりしている。心地よく思っていると、兄さんは軽くこちらを見て訊ねる。
「寒くないか?」
「大丈夫、丁度いいくらい」
「ん……こっちは結構冷えるな。紅葉も鮮やかだ」
「うん。紅葉は昼と夜の温度差で色づくからね」
その落差が激しければ激しいほど、赤く色づく。だからこそ夜が底冷えする京都は紅葉が鮮やかだ。鞍馬の森も彩られた紅葉で生き生きとしている。
ひらり、と舞い降りた一枚の落ち葉。それを兄さんは器用に捕まえ、光に透かす。
「あきらかなあきにあきみちる、か」
「……なにそれ、兄さん」
「秋の語源だよ」
兄さんはそう告げると歌うように言葉を続ける。
「あきらかな、は清らかで明るく空が透き通っている様。
あき、はつまり赤き、紅葉に彩られている様。
あきみちる、は穀物が飽きるほど満ちる様をそれぞれ意味している」
――清明な赤に飽き満ちる。
そう締めくくる彼の横顔はとても穏やかで静かだった。凛々しい彼の顔つきに思わず見惚れていると、彼はそっと落ち葉を手放す。風に乗った落ち葉が飛ぶのを視線で追いかけ、小さく私はつぶやいた。
「――素敵な語源。だから、あき、なんだ」
「多分な」
曖昧な言葉に、え、と振り返ると、兄さんは悪戯っぽく口角を吊り上げた。
「今挙げた三つのどれかが語源だろう、と言われているんだ。これではない可能性も充分にあり得る」
「えー、それっぽく聞こえたのに」
「日本語なんてそんなものだよ。何気ない言葉が日常に定着することは往々にある」
「……まぁ、それもそうだね」
言葉はつまるところ、積み重ねなのだ。
それが例え些細なきっかけでも、自然と積み重なることで習慣になり、文化となる。その流れは歴史を勉強していれば、しみじみと分かることだ。
そして、その何気ない日常を積み重ねて――気持ちも培われていく。
(……兄さんのこういうところ、好きだな……」
胸に宿る温もりを噛みしめながら彼の横顔を見る。彼はいつもよりもゆっくりとした足取りで歩きながら、紅葉を眺める。その横顔は穏やかで楽しそうだった。