後編
「シャノン様、お疲れではありませんか?」
ごとごと揺れる荷台の上。
遠くを見ていたシャノンは声をかけてきた侍女に微笑んだ。
「私は大丈夫。快適よ、アンナ。
でも《様》はいらないわ。シャノンって呼んで」
「いいえ、シャノン様はシャノン様です」
「いらないんだけどなあ。平民服を着た意味がないんじゃない?」
「人前では気をつけます」
シャノンが着ているのは平民の着る簡素なワンピースだ。
平民に扮している。
だから乗っているのも粗末な荷台だ。
屋敷の下働きの者が私用で使っていた物。
簡単な屋根がついている木の荷台。
荷物はいくつかの麻袋と、
質素な毛布をクッション代わりにして座るシャノンと侍女のアンナ。
柱はあっても壁はない。
そのため景色が良く見渡せるその荷台を、シャノンは気に入っていた。
だが供をする者には心苦しいのだろう。
前の御者台――と言うより板に座っていた女性護衛もシャノンに声をかけた。
「シャノン様。
荷台は揺れるでしょう。気分が悪くなられたりしていませんか?」
「ありがとう、エマ。私は平気よ。アンナ、貴女は?」
「私も平気です」
侍女のアンナの返事を聞き頷くと、シャノンは次に女性護衛とその横に座る御者に声をかけた。
「エマ、リック。貴方たちは大丈夫?疲れない?」
リックと呼ばれた御者は手を振って大丈夫だと伝え、エマと呼ばれた女性護衛は言った。
「平気ですが、休憩はしましょうか。そろそろ昼食の時間ですので」
「え、もう?さっき朝ご飯を食べたところな気がするけど」
「はい。少し先の平原で、先に行ったオスカーと落ち合うので少し早めです。
今日はシャノン様のお好きなフルーツも買って来ているはずですよ」
「ありがとう。……でも、ごめんなさいね。
他国で暮らしたい、なんて私が我儘を言ったばかりにこんな……。
名ばかりの奥様なんて、ただ屋敷から放り出してくれて良かったのに」
「何を言われるのです。シャノン様にそんな真似できません」
と、女性護衛のエマが言えば侍女のアンナも同意した。
「そうですよ。お気になさらず。
私たちはシャノン様といたくて同行を申し出たのですから」
「でも……」と、なおも肩を落としているシャノンに御者のリックも言った。
「俺たちはむしろ嬉しいんですよ、シャノン様」
「リック」
「俺たちは運が良いんです。
希望者多数の激戦を勝ち抜いてここにいるのですから」
シャノンはきょとんとして、それから小さく噴き出し笑った。
「激戦?ふふ、またそんな冗談言って。気を遣ってくれるのね。ありがとう。
本当は心細かったの。知り合いもいない他国に一人で行くなんて」
「冗談じゃなかったんだけどなあ……」
そう言ったリックの声はシャノンに届かなかったようだ。
ちょうどアンナがおずおずと聞いていた。
「あの……シャノン様。本当に良かったんですか?他国へ行くことにして」
「アンナ。……勿論よ。
それが旦那様にとっても、私にとっても幸せなことだもの。
王命で仕方なく結婚させられた妻が屋敷にいるなんて。
それでは、いつまで経っても旦那様は屋敷に戻ることができないわ。
戻れば旦那様は《夫》としての務めを果たさなければならないんですもの。
私がいなくなれば、旦那様は屋敷に戻ることができる。
旦那様は本当に好きな方と、堂々と一緒にいられるようになる。
私は、好きな方といる旦那様の姿を見ずに済む。
……そうよ。
むしろ、もっと早くにこうするべきだったんだわ。
……駄目ね、私。
三ヶ月も旦那様を苦しめてしまったわ。
ずっと憧れていた方だったから。
お優しい方だったから。
勘違いしてしまったの」
「……シャノン様……」
寂しそうに微笑み目を伏せたシャノンを見て、アンナは泣きそうな顔になっている。
一方、御者台では
「あの●●野郎」
ぎり、と音が聞こえそうなほど歯を噛み締めて女性護衛のエマが呟けば、
御者のリックが隣からその肩をぽん、と軽くたたいた。
「落ち着けエマ。主人だろう。一応は」
「それにしても、空気が美味しいわね。気持ちいいわ。鳥の声も聞こえるし」
シャノンが明るく言えば、泣き出しそうだった侍女のアンナも笑顔を見せた。
「そうですね。王都とは違いますね」
「旅は良いわね。長旅になりそうだけど。
《牛車》って思った以上にゆっくりなのね」
んもーと牛がないた。
御者のリックが言う。
「すみません。馬車はすぐに着……いえ、人目につきますので」
「え?馬車としかすれ違わない気がするけど」
「いえ、その。
《馬車》だと入っている紋章で、どこの貴族の者だかわかってしまいますので」
「ああ。それは困るわね。国を出るまで見つかりたくないわ。
旦那様にご迷惑をかけてしまうかもしれないもの」
「でしょう?だから《牛》なのです」
あはは、と御者のリックが笑った。
「牛はお気に召しませんか?」
侍女のアンナが心配そうに聞く。
彼女の親戚は隣国で広大な牧場を経営しているのだ。
シャノンは首を左右に振った。
「とんでもない!可愛いわ。それに、ゆっくりと進む方がいいの。
ゆっくりなら、他国に着くまでに未練を捨てられそうだもの。
アーネストさんの判断はいつも的確ね」
「シャノン様……」
再び侍女のアンナは泣きそうな顔になる。
一方、御者台では
「あの●●●野郎……っ!」
ぎりぎり、と音が聞こえそうなほど手綱を握り締めて御者のリックが呟けば、
女性護衛のエマが隣からその肩をぽん、と軽くたたいた。
「落ち着いて、リック。やるのは今じゃないわ」
御者台にいる二人の会話はシャノンには届いていない。
彼女は泣き出しそうな侍女のアンナの顔を見て、再び努めて明るく言った。
「不安もあるけど楽しみだわ。言葉がちゃんと通じると良いんだけど」
「隣国は通じますよ。牛も沢山います」
と、侍女のアンナがぱっと顔を明るくして答えれば
御者台の女性護衛エマも嬉々として振り返った。
「大丈夫ですよ。私たちは皆、他国に親族がいるものばかり。
すぐにシャノン様に合う国が見つかります。
でもきっと特に、私の兄がいる国が―――」
御者のリックが慌ててエマの言葉を遮った。
「――あっ!こら、狡いぞエマ!
シャノン様、俺の爺さんのいる国の方が―――」
「引っ込んでろ弱虫リック」
「なんだと脳筋女」
御者のリックと女性護衛のエマは睨み合う。
シャノンはにこにこと笑いながら言った。
「仲が良いのねえ」
一人そんな様子をおろおろと見ていた侍女のアンナだったが、前方に人影を見つけて指を差した。
「―――あ。いましたよ。オスカーです」
「あら、本当。無事に落ち合えたわね。オスカー!」
シャノンも人影を認めて手を振ったが、すぐに手を止め代わりに目を丸くした。
「……え?オスカーだけじゃ、ない?
ジミーにウィル、エドガーにキースに……マルコもいるじゃないの!
ええっ?どうして何人もいるの?お屋敷の方はどうなっているの?」
荷台から身を乗り出すように人影を見ながら、誰ともなしに聞くシャノン。
御者のリックが代表して「大丈夫です」と答える。
「何かあるといけませんから、男手を増やしました。
お屋敷の方はこのくらいの人数が抜けたくらいで潰れやしません。平気ですよ」
そう言われても、納得できなかったのだろう。
シャノンは口に手を当て、心配そうに喋り出した。
「でもオスカーとジミーがいなければ厨房は誰が仕切るの?
ゲイリーは五日前に怪我をしたばかりだし、サニーはまだ見習いだし。
ダエラさんはまだ腰が痛いのよ?無理はさせられないわ。
湿布足りてるかしら。
あまり辛かったら飲むようにお薬は渡して来たけど、でも……。
ああ、マッサージしてあげられたら……。きっと楽になるのに」
「「「シャノン様」」」
と、他の三人が声を揃えてシャノンを呼んだ。
しかし言葉にするほど頭の中は心配でいっぱいになるのだろう。
シャノンには全く聞こえていないようだ。
一人喋り続けている。
「ウィルがいない、なんて馬たちはどうしてるのかしら。
他の馬はともかく、セドリックとフレッドであの気難しいサンダー号の世話ができるかしら。
あの子、ウィルにしか慣れていないのよ?」
「「「シャノン様」」」
「エマもここにいるのに、エドガーとキースまで来たらお屋敷の警備が。
それはニールたちがいるけど、でも屋敷内でも特に腕がたつと皆が認める二人が抜けたら。
それにマルコまで!
新人ボーイの教育は誰がしているの?ベンとトッドは来たばかりよ?
マルコがいない、なんてまだ子どものあの子たちがどんなに心細いか……。
アーネストさんは知っているの?
屋敷のみんなは困っているんじゃない?
ああ、どうしよう。どうしよう、どうしよう。
アンナを連れて来てしまったからソニアさんの仕事が増えているだろうし、リックが抜けたからジョイやデリックは大忙しね……。
他には……イレーヌとエイダは手荒れは治ったかしら。
私がいなければ、お洗濯する物も減るから楽になっていると良いんだけど。
ステイシーとシンディーはどうしてるかしら。
もうお掃除の後に、一緒にお菓子を食べることができなくなってしまったわ。
デイビッドとラスとビクターは、ちゃんと花の名前覚えたかしら。
ヘンリーさんにまた《それでも庭師か》って叱られてないかしら。
あとアビに、ケニーに、サンディに、コリンに、ライラに、ケインは……」
「「「シャノン様!」」」
「え?」
ようやく呼ばれたことに気づいたシャノン。
侍女のアンナは、そんな彼女の手を取ると涙声で言った。
「お屋敷の方は平気です。大丈夫ですから、もうやめましょう。ね?
でないとハンカチが何枚あっても足りません」
「……ハンカチ?」
と、首を傾げたシャノン。
侍女のアンナは潤んだ目をそっと手で隠し、
女性護衛のエマと御者のリックは目頭を押さえ天を仰ぎ、言った。
「「「何でもありません」」」
屋敷の者たちは知らない。
数日前。
気分転換にとお忍びで街に連れ出したシャノンが、そこでルカスと王太子殿下の噂話を耳にしてしまったことを。
そしてそれを信じ、二人の邪魔をしないよう他国に行くことにしたことを。
そしてシャノンは知らない。
ついてきた屋敷の者たち全員が、自分と所縁のある他国へ一番最初にシャノンを連れて行くのだと譲らないので、どの国に行くのか全く決まらずにいることを。
屋敷を出て三日が過ぎている。
もう、屋敷どころか王宮も王都も見えない。
だが牛車で、しかも休憩を多く取っているため距離はさほど進んではいない。
どの国に行くか決まらずにいるので、進む道も決まらない。
よって現在、牛車はのらりくらりと王都の周りをウロウロしているだけだ。
荷を運んでいるわけではない、人を乗せゆっくり進む牛車。
人の記憶に残らない方がおかしい。
供のアーネストたちが何も言わずとも
ただ闇雲に、馬で追いかけて来たルカスに見つかるのも時間の問題と言えよう。
ルカスがシャノンを見つけ転がるように駆け寄るまで
大泣きしながらシャノンを抱きしめて離さなくなるまで
シャノンの誤解が解けるまで
そしてシャノンが大変な評判になるほどルカスに溺愛されるまではあと少し。
ルカスが屋敷の者たちからおよそ主人を見るものではない目を向けられなくなるのだけは、まだまだ先。