魔女と呼ばれた水使い
四方を険しい山に囲まれた、小さな村と美しい湖がありました。
村に住む人々は、湖の恵みを得て、昔ながらの慎ましやかな暮らしを営んでいました。
湖のそばには『水使い』と呼ばれる人たちが居を構えていました。
水使いの仕事は、湖が干上がったり、逆に水かさが増して村が水没したりしないように、湖の女神に祈りをささげる事でした。
村に生きる人々にとって、湖の存在は欠くことが出来ないものです。
ヒトや家畜が飲む水も、畑の作物を育てるための水も、赤ん坊の産湯に使う水も、死んだ者の身体を清めるための水も、すべては湖の女神からの恵みだと考えられていました。
そのため、湖の女神に祈りをささげ、水を操る事が出来る水使いたちは、村人たちの尊敬を集める存在でした。
ある時、水使いの中で最も年をとった老女が、村の孤児を引き取りました。
老女は、この子が水使いの素質を持っていることを見抜いたのです。
だれに教わったわけでもないのに、孤児は念じるだけで杯に満たされた水をあふれさせたり、渦を生じさせたりすることが出来るのです。
こうした事は、ある程度の経験を積んだ水使いであれば当たり前のように行えるのですが、生まれながらにそのような事が出来る子どもはとても珍しい存在でした。
老女に引き取られてから、孤児は水使いになるための修行を積み、その力を徐々に高めていきました。
来る日も来る日も、真面目に修行に取り組んでいました。
そんな彼女は、老女からいつもこのように言い聞かされていました。
「湖の女神様のお姿は決して目に見える事はないが、女神様はいつも私たちを見て下さっているのだ。だから、私たちはいつも湖の恵みに感謝して過ごさなければいけないよ」
実は、この孤児には秘密がありました。
決して目に見える事が無いという女神の姿が、彼女にははっきりと見えるのです。
こちらを見ながら話している老女の、まさにその横に、女神が立っているのが分かりました。
よく磨かれた石のようなつややかな肌をした、美しい女神です。
――私の姿が見えるという事は、決して他の人に話してはいけませんよ――
孤児の頭の中に、女神の声がひびきます。
女神の言いつけを守り、彼女はいつも女神の姿が見えないふりをしていました。
まだ幼かった彼女の前には、よく女神が姿を現わしていましたが、成長するにつれて、女神が現れる事は少なくなっていきました。
彼女は十年も経たないうちに、老女と同じくらいの力を得るに至りましたが、その頃には育ての親である老女はすっかり衰えていました。
そして、孤児が一人前の水使いとして認められた日から程無くして、眠るようにして息を引き取りました。
水使いとなった孤児は、困り果てていました。
水を操る力は、他のどの水使いたちよりも優れていました。
しかし、その事が原因で、彼女の存在を面白く思わない者も多くいました。
今までは、育ての親である老女がいる手前、そうした水使いたちも彼女に辛く当たる事はありませんでした。
ですが、老女が亡くなった今となっては、彼らがあからさまに不愉快そうな態度を取ることも珍しくなくなりました。
育ての親を失った悲しみと、他の水使いたちに冷たくあしらわれる辛さを抱えていた彼女の前に、女神が再び姿を現わしました。
女神は、戸惑っている水使いの額に、そっと口づけをしました。
その時、自分の身体の中に不思議な力が宿った事を、水使いは感じ取りました。
何が起きたのかと思い、女神の顔を見ると、頭の中に声がひびきました。
――私の姿を見る事が出来るあなたに、私の力を授けます。あなたが、私の大切な村人たちのために、その力を使ってくれることを願います――
そっと微笑みをうかべると、女神の姿は湖の中へと消えてしまいました。
やがて、この水使いは、他の水使いたちにはとても真似が出来ないような、奇跡とも言うべき力を使えるようになりました。
作物が育たない畑に行き、水を引っ張ってくると、畑は豊かな実りをもたらすようになりました。
今にも死にそうなほど弱り果てている牛に、自らの手ですくった水を飲ませると、牛はたちまち元気を取り戻しました。
村長が病気になったときには、祈りの歌を口ずさむと、村長の病が治ってしまいました。
この村の全てのヒトや動物、植物に至るまで、全ての命あるものが湖の恵みを受けています。
そして、湖の恵みを受けた全てのものに、女神の力は作用するのです。
あの時、この水使いは、女神の力の一部を分け与えられていたのでした。
すなわち、彼女はこの村のあらゆるものを癒したり、命を養ったりうばったりする力を授かっていたのでした。
彼女は、他のどの水使いよりも尊敬される存在になりました。
村人たちから支持されるようになった彼女に対して、他の水使いたちも態度を改めるようになりました。
しかし、水使いはそうした事に気を良くすることは決してありませんでした。
彼女は村人から感謝される度に、女神の言葉を思い出すようにしていました。
女神が大切に思っている村人たちのために、与えられた力を使う事が自らの役割であると、彼女は考えました。
自分だけが女神の姿を見る事が出来るのだから、女神に仕えて生きる事が自身の使命なのだと信じるようになりました。
そんな折、村長の息子が水使いに結婚を申し込んで来ました。
村人たちも、結婚の申し出に応じてはどうかと水使いに話します。
しかし、彼女がその申し出を受け入れる事はありませんでした。
「自分は一生を湖の女神様にささげると決めているのです」
それが、彼女が求婚を断った理由でした。
水使いの中には、生涯を独身で過ごす者も決して少なくはありません。
ましてや、彼女はとても優れた力と女神を敬う心を持ち、自らの力を人々の役に立てることに生きがいを感じていました。
しかし、村長の息子は彼女のそうした気持ちを十分に理解できませんでした。
それどころか、結婚の申し出を断った事を、自分に対する侮辱だと考えて、何とかしてこの水使いをひどい目にあわせてやろうと考えるようになりました。
手始めに、村長の息子は、他の水使いたちと話をしてみることにしました。
水使いの中には、優れた力を持つ彼女の存在を不愉快に感じている者もいる事を知っていたからです。
そして、そうした水使いたちの協力を得て、ある計画を実行に移すことにしました。
前にあの水使いが救った事のある牛に、こっそり毒を飲ませて殺したのです。
一体どういう事なのかと、村人たちは慌てふためきました。
水使いが命を助けたはずの牛が、急に苦しみだして死んだからです。
そんな時に、村長の息子の息がかかった水使いたちがこう言いました。
「あの水使いの正体は邪悪な魔女だ。病が治ったように見えたのは、まやかしの術のせいだ。私たちは、彼女の正体をはっきりさせなければいけない」
水使いは、村人たちに捕まって、きびしく問い詰められました。
死んだ牛の事ももちろんですが、彼女は病に冒されていた村長に対しても不思議な力を使っているのです。
もしかすると、村長もあの牛のようなおかしな死に方をするかもしれません。
村長の息子は、村人たちの前で激しくうろたえるふりをしました。
問い詰められても、水使いは自分が魔女であると言う事はありませんでした。
自分はあくまで湖の女神様に仕える一人の水使いであり、村の人々のために自分が出来る事をしただけだと答えました。
他の水使いたちは、そんな彼女をののしりました。
魔女のくせに、湖の女神に仕える身などと名乗るのは何事だ。
我々をだまそうとしてもそうはいかないぞ、と。
水使いは、ただひたすらに耐えていました。
実は、彼女がその気になれば、村長の息子や、村人たちや、他の水使いたちの命をうばう事も容易い事でした。
女神に与えられた力はそういうものであるという事は、彼女もちゃんと分かっていました。
しかし、彼女はそのような事をしませんでした。
女神に与えられた力は、女神が大切に思っている村人たちのために使うものであるはずです。
だから、どのような事があっても、その力を危害を加えるために使う事は、あってはならない事だと考えたからです。
村人たちによる取り調べは、夜まで続きました。
あくまで自分は魔女などではないと言い続けた水使いでしたが、休む間も与えられずにしつこく責め立てられたせいで、意識が途切れ途切れになってしまいました。
そして、他の水使いから『いったい自分に何の権利があって、あのような力を振るったのか』と言われた時に、うっかり口を滑らせてしまったのです。
「私には、女神様のお姿が見えるのです。女神様は、村の人たちのためになるようにと、私にこの力を授けて下さったのです」
彼女の言葉に、村人たちは凍り付きました。
他の水使いたちと、村長の息子は、これ幸いとばかりにまくし立てました。
「女神様が見えるだって!?」
「不心得者め! 女神様のお姿は人間には決して見る事が出来ないものなのだ!」
「女神様のお姿が見えるなどと言う事は、女神様をおとしめている事に他ならない!」
「そのような事をするのは魔女以外にあり得ない! もはやこの者をこれ以上生かしておくわけにはいかない!」
村人たちと水使いたちは怒り狂い、彼女を広場へと引っ張っていきました。
村長の息子は、その様子を何とも言えない笑顔で見ていました。
計画があまりにも上手く行きすぎたからです。
本当は彼女の面目を失わせる事が出来れば、それで良かったのです。
しかし、魔女の疑いをかけられた彼女が、女神が見えるなどと言ったおかげで、思った以上の大事になってしまいました。
もう彼女は無事では済まないでしょう。
ですが、それでも構わないと彼は考えていました。
どうせ自分のものにならないのなら、彼女がこの後どうなろうと自分には関係のない事に思えたからです。
広場に引き立てられると、水使いは地面に突き倒されました。
起き上がろうとする間も与えられないうちに、村人の一人が彼女に石を投げつけました。
「忌まわしい魔女め!」
他の村人たちや、水使いたちも、彼女に石を投げつけます。
「村に災いをもたらす魔女め!」
次から次へと、彼女の身体に様々な大きさの石が投げつけられます。
村人たちも、水使いたちも、石を投げつけるのを止めようとはしませんでした。
ようやく彼らが石を投げる手を休めた時、水使いはすでに事切れていました。
水使いが殺される様子を、湖の女神は遠くからずっと見ていました。
広場にだれもいなくなった後、女神は湖から地上へ上がりました。
そして、打ち捨てられていた水使いの亡骸をそっと抱き寄せました。
女神はうつむいたまま、静かに涙を流し始めました。
水使いの亡骸を抱えて、女神は涙を流したまま湖へと戻りました。
女神の頬から一滴、また一滴と涙がこぼれ落ちます。
涙が湖の水面に落ちる度、湖の水かさが増していきます。
やがて湖水は、あと少しで村を飲み込むところまであふれてきました。
夜更けの村は大騒ぎになりました。
このままでは、村が湖の底に沈んでしまいます。
水使いたちは、村じゅうの家を回って、寝ている人をたたき起こし、山の方へ逃げるようにと声をかけました。
女神への祈りの言葉を唱えたり、水を操る力を使ったりして湖水を押しとどめようとしました。
しかし、それらは全くのむだでした。
水かさは見る見るうちに増していき、水使いたちを、村人たちを、家々を飲み込んでいきます。
水の増える勢いは、強まっていくばかりでした。
豊かな実りをもたらす畑が、水に覆いつくされてしまいました。
家畜小屋も、中にいる牛や豚や鶏も、押し流されてしまいました。
村の広場も、村長の家も、水に飲み込まれてしまいました。
一人の水使いが、逃げ遅れた村人を引っ張って、山へと向かっていました。
「なあ、一体どうしてこんな事が起こっているんだ!?」
村人は、おびえた様子で水使いにたずねました。
「……きっとこれはあの魔女の呪いだ。そうとしか考えられぬ」
「だけど、湖には村を守ってくれる女神様が住んでるんだろ? おかしいじゃないか、魔女の力で女神様の湖があふれるだなんて! 魔女ごときの力が女神様よりも強いだなんて、あり得るのか!?」
水使いは言葉を詰まらせました。
そんな彼らの背後にも、水は迫ってきていました。
「役立たずの水使いどもめ!」
村長の息子は、一人で悪態をつきました。
彼は、村人たちや村長の事をほったらかしにして、一目散に逃げだしたのです。
逃げ遅れた者には目もくれず、険しい山道を前へ前へと進んでいます。
この時に彼は、他のどの村人よりも高いところまで逃げていました。
しかし、そんな彼の近くにも水が押し寄せてきます。
恐ろしくて後ろを振り向くことは出来ません。
しかし、ゴウゴウという水の音がすぐそばにまで近づいてきているのは分かりました。
まるで意志を持った生き物のように。
自分の事を水底に引きずり込もうとしているかのように。
「やめろ……来るな……来るな……!」
必死に逃げようとしたものの、彼の姿も水の中に消えてしまいました。
全てが水の中に沈んだ後、ようやく水が増えるのが止まりました。
湖の水面は、四方を囲む山々の中腹に届くほどの高さにまで達していました。
しばらくすると、東の空から太陽が昇りました。
空が明るくなるにつれて、水かさが見る見るうちに減っていきました。
そして、かなり低いところまで水面が下がったところで、水の動きが止まりました。
しかし、あの村は湖に沈んだままです。
辺りには、生き物の気配が全くありませんでした。
不気味なほどに静かな湖の水面を、朝日がきらきらと照らしていました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
内容としてはありがちなものかもしれないので、ここは他作品とかぶっていないか? とか、これはあの作品に似ているのでは? 等と思われた場合は、遠慮なくご指摘いただければと思います。