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 夕方、俊哉の家に二本の電話が鳴った。


 一本目は、霧島の母親からの抗議(クレーム)の電話だった。息子が顔を腫らして帰ってきたのに驚いて、俊哉に一方的にやられた、と怒りの矛先を向けてきたのだ。誰だって自分の息子が一番可愛くて正しいものだ、と一般的に言われるが、後から俊哉が確認したところ、霧島は自分の不利になりそうな点を一切母親に伝えていなかったらしい。母の美榮子は冷静に対応し、学校での状況を確認した上で、謝罪することなく毅然と対応した。


「子どもの喧嘩に親が口を出すなんて、まったく野暮なことですね」


 かーっと頭に血が上った霧島の母親は、それを聞いて何かわけの分からないことを喚き散らし、一方的に通話を切ってしまった。横で俊哉が不安そうにしていると、美榮子ははあーっ、と溜息をついてからクルリと振り返り、舌を出して笑った。


「俊ちゃ……、俊哉は自分の正しいと思ったことをしたんでしょ?」

「うん、まあ」

「それなら、そんな顔しないの。堂々としていればいい。俊哉は大丈夫」

 美榮子は微笑んで、エプロンを着け、台所に向かった。


 二本目は、水口幹夫の母からのお礼の電話だった。幹夫が霧島たちからいつも虐められていたことや、俊哉が助けてくれたことにひどく感謝しているようだった。俊哉の良心は少し痛んだ。たんに、抑えられない内なる衝動に従っただけなのだから。


 窓の外を見ると、急に陰り始めてきたように感じた。隣のビルが壁になって、空を見ることはできないが、厚い雲が立ち込めているのかも知れない。


 子ども部屋に入ると、弟の哲太が、いつものように漫画を読んでいた。三歳下だから、まだ三年生で、ふっくらした頰が艶やかだ。俊哉からはとても小さく見える。でも、その時の哲太の左まぶたの上に絆創膏が貼ってあったので、俊哉は奇異に思った。


「どうした哲太、その左目」

「何でもないよ。母さんが、絆創膏貼っておけば、すぐに治るって」

「いや、そんなことを聞いているんじゃなくてさ」

「別にいいじゃん、プロレスごっこが流行ってるんだよ。僕は猪木みたいに強くないだけだ」

「そうか。じゃあ、たまには屋上でも行くか」

「いいね」

 目に涙を溜めていた哲太の表情はすぐに明るくなり、兄の背中に付いていった。


 階段を登り切って扉を開けると、生温い夕方の空気が内側に入り込んできた。


 三階建の社宅の屋上は殺風景で、手摺りは赤錆だらけだった。灰色のコンクリートはザラザラしていて、素足ではとても歩けない。今出てきた扉を振り返ると、そこは立方体の塔屋になっていて、さらにその上には大きな貯水タンクが設置されていた。二人は塔屋のコンクリート壁に突き刺した鉄の梯子を登り、びゅうびゅうと風に煽られた。塔屋の屋上には柵がないので、落ちてしまわないよう細心の注意が必要だった。

 貯水タンクも錆だらけで、黄緑色に塗装されていたが、触れると指の腹も同じ黄緑色に染まった。俊哉と哲太は二人並んで体育座りをする。正面には銭湯の煙突が見え、煙がうっすらと立ち上っている。銭湯の上の窓がいくつか開いているが、中は見えない。しかし、カコーン、カコーンと桶が床を打つ音が響いてくる。


「哲太、兄ちゃんさ、今日喧嘩したんだよ」

「え? 誰と?」

 急に哲太の瞳が輝くのが分かった。

「霧島っていう、悪いやつとその子分」

「それで、やっつけたの? 兄ちゃん」

「うん、まあね。あんな奴ら、簡単にノックアウトさ」

「へえ、すごい!」


 俊哉は得意になって、座ったままシュッシュッと、シャドウボクシングの真似事をやってみせた。


「だからさ、何かあったら兄ちゃんに言え。いつでも助けてやる」

「うん」

 哲太はまた少し涙ぐむ。


 黒く重たい雲が空を覆っていく。遠くで光り、雷鳴が轟くと、ポツリポツリと雨粒が落ちてきた。コンクリートに黒い斑点ができる。するとそれは、すぐに大きな夕立となった。貯水タンクの下に体を入れて、雨を凌いだ。波のような音とともに、銭湯の煙突が霞んでいく。漸く、心のどこかで待ち侘びていた雨が降る。小さな兄弟を慈しむようにして降る天の恵は、やがて冷涼な夜を連れてくるだろう。街が慈雨に(けぶ)るのを、二人はしばらく黙って眺めていた。


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