六
蝉の鳴き声が煩く響き、太陽の光に衰えが見えない。
プールのあった日。帰り道は、いつも通り、死にたい気分に押しやられた。
鼻の奥に残るカルキ臭、アルファルトから照り返される熱と蜃気楼、蝉時雨と数日前のぼんやりとした記憶が混ざり合い、絶望感が背中の方からせり上がっていく。
──死にたい。
しかしどうしてそんな気持ちになるのか、よく分からなかった。布団を被っている父の姿が浮かぶ。先週、父がおかしな倒れ方をしたのを思い出した。その日、母の帰りが遅くなるので、珍しく父は夕飯を作ると言いだした。夕飯と言っても簡単なもので、インスタントラーメンを作るだけだった。台所から湯を沸かす音が聞こえる。俊哉と弟の哲太は部屋で漫画を読んでいた。しかしすぐに、ドーンという重たい何かが床に落ちる音がしたので、二人は慌てて部屋を出た。狭いキッチンの床の上で、父が倒れていた。
背を丸くして横に倒れている父は、赤ちゃん返りしたような、意味不明な譫言を呟いていた。続いて、発狂したように高笑いを始めたのだ。ウキャキャキャキャキャキャー! という、それまで見たことのないような、狂れた人の高笑いだった。俊哉は心底恐怖した。どうして自分の目の前でそんなことが起こるのか、まったく理解できなかった。弟も凍りついたようになっている。しかし、俊哉はハッと我にかえり、すぐに隣の住人の部屋の戸を叩きに行った。
隣に住んでいた影山も夕飯準備の最中だったらしく、エプロンを着けていた。俊哉に連れられて飛び込んできた影山は、譫言を呟き続けている父の異変に気付き、適切な対処をした。父は、マンマ、マンマ、と赤ちゃんのような言葉を繰り返していた。
「俊ちゃん、電話借りるよ!」
「は、はい」
影山は黒電話のダイヤルを三回まわして、救急車を呼んだ。
救急車はサイレンを鳴らしながら、すぐに到着した。救急隊員は淡々とした動きで、父を担架に乗せて運んで行った。そして、父の症状に見覚えがあるらしく、残った一人が現場の様子を観察していた。何かに気づいた隊員は、上司に大きな声で報告していた。
「ガスだっ! ガス漏れです。すぐに換気してください!」
横で傍観していた影山は、急いで窓を開け放った。
元栓からガスレンジに繋がるゴムホースに穴が空いていたのが原因だった。
結局、父の異変は一過性のもので、大事には至らなかったので、すぐに退院できた。遅くに母が帰ってきて、隣家の影山から事情を聞いていた。何度も礼を言っているのが、寝床まで聞こえてきた。
次の日の午後、俊哉が帰ってくると、美榮子は誰かと電話をしながら泣いていた。
「組合への弾圧が、酷くてね、うん、そう、それで……、自律神経がやられてしまって」
小学校六年生の俊哉には、母の会話の半分も分からなかった。しかし、何となくだが、自分たち家族が置かれている状況について、感覚的に解釈できるような気がした。
雨が降る様子はなかった。俊哉は遠くの分厚い雲に目を向ける。暑い。
いつも死にたくなるわけではない。ただ、プールが終わった後の帰り道だけが死の欲動を誘発するのだ。そうだ。もうすぐ家に着く。そうすれば、何事もなかったように、母は自分を、いつものように迎え入れてくれるだろう。




