四
「きたぜ」
翔の子分が教室の入り口から首を出して、親分に知らせていた。容疑者を張っている警察みたいだと思う。俊哉は身構えて、その子分を睨みつけたが、どうやら奴らの関心は他にあったらしい。俊哉のすぐ後ろを歩いていた水口幹夫という小柄なクラスメートが今日の標的らしかった。
俊哉が警戒しながら教室に入ると、霧島たちがニヤニヤして早く奥へ行けと促す。そして、後から水口が入ってきた時だった。戸の陰に潜んでいた霧島が、横からさっと足を出したのだ。運動神経の鈍い水口は、ひゃっという驚きの声を上げ、教室の床に転がった。すると、霧島たちだけでなく、教室全体から笑い声が起こった。
俊哉は笑えなかった。それどころか、昨日のことを思い出して、腹の底から怒りが湧いてきた。場合によっては殺してやりたい。そのくらいの憎しみにまで、気持ちが変化しつつあった。その日、ターゲットとなった水口幹夫は、執拗に虐められた。恐らくそれは、俊哉への当てつけだったのだろう、と今にして思う。何故なら、水口の嫌がることをする度に、霧島は俊哉の顔色を伺っていたのだから。
「やだやだ、男の子は」
そう言って、隣の席の礒谷双葉は辟易したという表情をした。
「それに比べて俊哉くんは大人しいね。ちょっと、カッコいい」
双葉は顔を赤らめて、ちらっと俊哉を見た。黒いショートカットの双葉はすぐに目を逸らした。小さな目だったが、全体的に小柄なので、それほど違和感はなかった。
「カッコいい? 僕が?」
「う、うん。だって、男の子みたいに見えないから」
「……」
俊哉はこれまで何度か、女の子みたいだ、とからかわれた。男子たちの格闘ごっこなどにも加わらず、教室の隅で本を読んでいるような子どもだったし、何よりその外見も少女のようだったからだ。スカートを履いてみろ、とからかわれた時には、さすがに頭にきたのをよく覚えている。ただ、その怒りは今、霧島に抱いているものとは質が違っていた。言葉で言い表すことはできないが、明らかに違った質。それは、内面の攻撃性という一点において大きく異なっていた。
昼休みになっても、霧島とその子分たちによる水口幹夫への嫌がらせは、執拗に続いた。もはや虐めの領域にあると言ってもいいほどの陰湿さだった。まずは、言葉の暴力。水口の家が貧乏だということをあげつらい、事あるごとにからかった。水口はそれでも、初めのうちは少しニヤニヤしながら、反抗もせず耐えていた。
それから、給食の時間には、水口の配膳から、瓶の牛乳を取り上げ、霧島が一気飲みしては子分らに拍手喝采を浴びていた。もちろん、担任の教師には分からないように、巧妙にやった。そして、何かの用事で教師が席を空けた時、虐めは限界に達する。子分が水口の髪を後ろから引っ張り始めたのだ。さすがに水口は厭がる態度を見せる。すると彼らは面白がって、行為をさらににエスカレートさせたのだ。
最後に、霧島が席を立ち、思い切り髪を引っ張ると、水口は椅子ごと後ろに倒れこんだ。教室内に、大きな音が響き渡ると、ざわざわしていた部屋が一気に鎮まった。当たりどころが悪ければ大怪我したところだが、水口はそそくさと椅子を直し、目に涙を溜めながら、食事を再開した。霧島たちは大声をあげて笑った。周りは見て見ぬ振りだ。
俊哉の頭は真っ白になっていた。
切れる、という言葉はこういう時に使うのが適切なのだと後から知ったが、その時はただただ思考が停止している感覚だった。肉体だけが、制御不能の怪獣のようだった。右肩から指先までの筋肉が勝手に震える。それは軟球を投げる時に似ていた。思い切り、力を振り絞ろうとしている。
斜め隣のグループにいた俊哉は席を立ち、霧島に向かって駆け出した。そして何も言わずに、左手で襟首を掴み、右の拳を霧島の左頬に打ちすえた。何が起こったのか分からない霧島は半回転して倒れこんだ。拳を覆う皮膚が痺れる。子分二人がそれを見て、何かを喚いていたが、手を出してくる様子はない。しかし、ブレーキの外れた列車のように、俊哉の体は暴走を続け、子分二人を何度も殴りつけた。子分の顔の形が変わり、動かなくなると、起き上がってきた霧島にもさらに暴力を加えた。殴る、蹴る、殴る、蹴る。ほとんどダンスのようなその暴力のリズムは、とてもではないが、平和な教室には似つかわしくなかった。
「もうやめろっ!」
背後から担任教師の叫び声が聞こえ、次に羽交い締めにされているのが分かった。
床には食器からこぼれたシチューの具や、割れた牛乳瓶などが散乱していた。一瞬でそこが地獄のようになってしまったのを見て、ようやく俊哉は落ち着きを取り戻していた。右腕だけが、ブルブルと震えていた。
「お前ら、何をやってるんだ。事情を話せ、事情を!」
俊哉は何も喋らなかったし、喋るつもりもなかった。
霧島たちはメソメソと泣いていたが、俊哉に罪悪感などなかった。昨日の恨みを晴らせたことに、むしろせいせいした気持ちになっていた。別に水口を哀れんでやった訳ではない。周りからは正義の鉄槌に見えたかもしれないが、そんな意図は毛頭なかった。霧島たちの暴力が、単に俊哉の暴力を誘発するスイッチになった。それだけだった。
朝、俊哉のことをカッコいいと言って赤くなっていた礒谷双葉と目が合う。しかし、化け物でも見たというような顔で、双葉はすぐに目を逸らした。それから卒業まで、二度と俊哉に話しかけてくることはなかった。




