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 一九八一年の夏について、俊哉は覚えていることと忘れてしまっていることが半々ではないかと、今になってたまに考える。例えば、政治のことや天気のこと、それから学校で何を習っていたのか、ほとんど忘れてしまっている。友達の名前も、覚えている数の方が少ない。逆に忘れられないのは、家族の微妙なバランスと居心地の悪さ、狭い社宅の部屋の茹だるような暑さ、夏休みのプールの帰り道にいつも死にたくなること。それらはすべて他人にとっては取るに足らないことだろう。しかし、俊哉は、その夏の肉体の変化と精神の変調を何らかの形で記憶しておきたいと、ずっと考えていた。


 まずは肉体の変化。俊哉は友人の基樹に誘われ、六年生になって初めて地域の草野球チームに入った。下級生ばかりで主力の六年生が少ないから、助っ人のつもりで頼むと言われ、〈リトル・マスカット〉というチーム名は気に入らなかったものの挑戦してみることにした。その頃のどの少年とも同じように、巨人軍の王貞治や長嶋茂雄に憧れを抱いていたが、躊躇はあった。もともと大人しくて引き籠りがちだった俊哉にとって、集団スポーツは向いていなかったのだ。しかし、昨年末あたりから急激に身長が伸びてきたことが、背中を押したのかもしれない。


 砂利だらけの社宅の庭は、足場は悪いがそれなりの広さがあって、コンクリートの塀で囲まれていた。葛飾区という下町にあって、駅前の割には敷地が広かった。


「俊哉っ! ここだ、ここを目掛けて投げてみろ」

 基樹はキャッチャーミットを構え、俊哉に檄を飛ばした。

「思い切りだ。思い切り投げ込んでみろ」

 俊哉は小さく頷き、大きく振りかぶる。弟と軽い気持ちで遊んでいたキャッチボールとは、また違った緊張感が走った。視線は基樹を捉えていたが、力の限りを尽くして白い軟球を投げた。


 自分でも信じられないようなスピードで、白球は空を切った。しかし、力み過ぎたせいか球はマトの基樹を大きく外れ、コンクリート塀に大きな音を立て、明後日の方向に跳ね返って行った。俊哉は基樹の期待を裏切ることになるな、と恐縮したが、基樹の態度は違っていた。


「す、すげえよ、俊哉っ! 何だよ、今の? あんな速い球、俺、受ける自信がないくらいだ」

 今思えば、俊哉をチームに呼び込むための方便だったのかも知れないが、基樹の目はそこに留まらないほどの輝きを帯びていた。

「基樹、やってみるよ、野球」


 そうして、その次の日曜日には早速、監督に挨拶することになった。監督は基樹の父親だった。町工場の労働者で、色は浅黒く逞しい。俊哉を見るなり、ほとんど無表情で彼は言った。

「抑えのピッチャーは一人いるから、君は先発だ。宜しく頼むよ」

 抑えというのは、霧島翔のことだった。霧島は遠くから俊哉を睨みつけていた。

 俊哉は自分の不安の色を悟られないよう、力強く、はい、と答えた。


 母の視線を背後に感じながら、少し乱暴にランドセルを部屋の隅に放った。それから俊哉は、弟に「キャッチボールをしないか」と訊いたが、「やらない」とにべもなく断られたので、机の上に置いてあったグローブと軟球を持って部屋を出ることにした。


 夕方でも暑い。汗がこめかみから顎まで伝わってくるのが分かる。コンクリート塀には特にストライクゾーンを示す印を付けていなかったが、そこだけ表面が白く変色しているので、マトは明確だった。夕日を背にして大きく振りかぶる。さっき自分を突き飛ばした霧島たちのことを思い出し、湧き上がる憎しみを込めてボールを投げた。しかし、それはすっぽ抜け、アウトコースに外れていった。


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