一
口の中がざらついていた。
多分、転んだ拍子に砂が入り込んだのだろう。俊哉は次第に口内に広がる血の味と砂のざらつきを感じながら、ふらりと立ち上がり、振り返った。背中を蹴った連中はもう、突き当りの角を曲がっていて、笑い声の微かな響きだけがそこに留まっていた。虐め、というのではないが、復讐というには大げさ過ぎて、どう表現すればいいか分からなかった。手の甲で唇の血を拭いながら、ようやく思いついた言葉は、腹いせ、だった。そうだ、あの連中は腹いせで僕の背中を蹴り、砂利の道に突き倒したのだ。しかし、それも仕方のないことだと思った。何故なら、彼らの遊びを俊哉が取ってしまったのだから。鄙びた駄菓子屋の前に、十円玉一枚でできる粗末なパチンコゲームが置かれていた。
無一文で傍を通ろうとした俊哉は、何故か玉を発射させるレバーを引いてしまった。玉は勢いよく弾かれ、中心の赤い花弁に吸い込まれると、「大当たり」の表示が出て、新しい玉が出てきた。ちょうどその時、駄菓子屋の中からクラスメートの霧島翔とその取り巻きが出てきたところだった。
霧島は俊哉が罠に掛かったことに気づき、薄笑みを浮かべ、十円玉を返せと言った。取り巻きの連中も口を揃えて返せと囃し立てた。俊哉は無一文だったので、何も言わずに彼らに背を向けた。おい、待てよ、謝ることもできねえのかよ! 霧島の声が背後で響いたのと同時に、背中に鈍痛が走った。不意打ちだったせいか、上手く手をついて顔を保護することに失敗した。
一瞬の出来事に、俊哉の中にどんな感情も生まれなかった。ただ、太陽に灼かれたアスファルトの熱と口の中のざらつきだけが感じられた。感情ではなく、皮膚の感覚。悔しいとか悲しいといった感情が湧いてくるまでの時間が、皮膚の感覚だけで満たされる。それは、大人になった今でも、俊哉の特性として残っていた。感情のない奴だ、と周りから罵られたり揶揄われたりすることもあったが、そんな筈はなかった。いつも人より遅れて感情がやってくるだけだ。ただ、それだけの違いだった。だから俊哉は、感情がゆっくりと心を満たしたあと、一人の時に泣いた。小学校六年生の当時、住んでいた社宅の屋上で、膝を抱えて泣いた。
「あら、何? 俊ちゃん、その顔」
母の美榮子が驚いて俊哉の顔を見た。
「転んだ」と俊哉が言ったのを信じられない様子で、美榮子は問い詰める。家に帰る前に、また屋上に行っていたのだろう。涙の跡が、目の下に汚れのように残っているのを、母は見逃さなかった。
「そんな筈、ないでしょ。ほら、こっちおいで」
そう言って美榮子は、救急箱から軟膏を取り出した。茶色の蓋を回し取り、高さの低い円柱形の器に薬指を入れる。指先の白い軟膏が、口の端にちょっと触れただけで、俊哉はプイと奥の部屋に入ってしまった。
「俊ちゃん……」
部屋に入ると、弟の哲太が寝転がって漫画を読んでいた。「お帰り」と言ったきり、弟は漫画に集中していた。俊哉は弟の横に座り、柱に凭れた。どういうわけか、もう悲しいという感情は消えていた。
そこは、2DKの狭くて古い、コンクリート造りの社宅だった。父親は銀座の紳士靴専門店で働いていたので、その会社の社宅に親子四人が暮らしていた。二十四世帯は入る社宅だったが、今は二世帯しか住んでいない。一戸建てを買ったり退職したりで、一人また一人と姿を消していった。仲良しだった子どもたちが、どんどんバラバラになっていった。俊哉は特にそれを淋しいとは思わなかったけれど、時々、心に穴が開いたような感覚を味わった。それが、〈淋しい〉という感情だと理解できるまでに、もう少し時間が必要だった。