No.9. 蛍雪の功
最近寒いです
目覚めると、そこに先生の姿はなかった。僕は長年座られて柔らかくなったのであろう革製ソファーの上に寝転がっていた。無造作に僕の体に掛けられた毛布は、僕自身の体温で大層温められていたようで、足を少し出すとその外気の冷たさに体が無意識のうちに震える。そして床に敷いてあった布団には少しだが人型の跡が残っていた。時計の針は既に9:00を指している。ギリギリ朝日と呼べるであろうその光が窓から差し込んで、白いシーツの上に盛り上がり人型を作り出している小さな山々の影をより鮮明にした。近くに置いてあるテーブルには一枚の紙切れが置かれていて、ボールペンで書かれたと思われる走り書きの文字が視界に飛び込んだとき、僕の脳みそが一抹の不安に犯された。
「この家を出るときは鍵がポストに入っているので、閉めていってください。」
僕は自分の安全地帯から追い出される様な寂しさを感じた。先生からの拒絶は幾度となく受けたつもりだったが、やはり文字に表されるとその文字が頭の中に刺青されて離れず辛い。勢いよくその紙切れを握りしめ自分の口の中に放り込むと、僕はガムを噛むごとく噛みしだき、ゴクリと飲み込んだ。先生の書く文字は大変美味であった。
それから僕は一寸の迷いもなく家に向かった。勿論先生の家を出るときは細心の注意を払った。誰もいないであろう通りをあちこち行って僕の目撃情報を拡散させた。先生の名誉を誇りのためなら、僕の低脳の頭で考えつくことの全てをやってのけようと思った。僕は先生の家にいたのではない。まるで死にかけの犬の様に、彼方此方のコンクリ製の家の壁にぶつかり血潮を上げながら、この息の詰まる様な田舎町を彷徨っていたのだ。じわりと汗の染みてきた下着に、先生の感触を感じながら僕は駅のタイルの上を歩いた。
やっとの事で僕自身の家、マンションに辿り着き、僕はガチャリと鍵を開けた。母はどこかへ行ってしまったらしく、部屋の中から物音1つしなかった。だから、鍵穴に挿した鍵を回すのに一瞬の躊躇いも無かった。僕は足音高くずんずんと部屋の中へ入っていくや否やそれまでの元気などまるで萎んでゆく風船の様に、しゅうしゅうと盛大な音を立てて消え去っていく様に感じた。僕はその部屋の空気を嗅いだ。外気とは断絶された、密閉空間の気体はどこかこもり気味で、白い粒子がわずかに宙を舞っていた。その粒子が肺に入り込んだ途端、僕は窒息しかける様だった。臭いがした。奴らの臭いである。ほんの十数時間前に理科室で嗅いだあの臭いである。生々しいアルビノのオタマジャクシがうようよと空中を舞っているのだった。まだ生きているそれらは、何処へ行こうとするでもなく僕の肺に入り込み、グリグリと肺の中の粘膜を押した。僕は肺から血が出る思いだった。海底に沈められ、真珠を取る様命じられた貧乏人がやっと海面に出れたとき吐き出す血の痰が、気道を無理やり押し広げ上がってくるのを感じた。僕は口を塞いでしばらくその場にうずくまった。僕は自らの出自を呪った。そして、この部屋に住み着く女を憎んだ。
「換気しなきゃ」
僕は急いで窓にへばりつき、その錆びついた金具をギリギリと動かすと思い切り全開にした。まるで流れ込む濁流の様に部屋に入ってくる外気は一気に室内の温度を下げたが、僕はそれが心地よかった。みるみるうちに消えていく白いオタマジャクシの幻想は、僕を喜ばせた。全員死んで仕舞えばいいと思った。その蠢く尻尾の1つ1つが空気に溶け千切れていく様はとても喜ばしいものだった。所詮幻想であるが、その生命の消滅の幻想と共に流れ続ける滑稽な音楽は、僕の気分の高揚を意味した。清々しい気分に浸っていると次第に体が冷えてきたのか震えが指先に出たので、少々惜しく思いつつも窓を閉めてしまった。やっと、部屋にいるのが僕だけになった。その静寂が心地よくも気色悪くもあった。
「勉強しなくては」
早速鞄を広げ、角のふやけたノートと問題集を取り出した。プラスチックの表面が黒鉛で黒ずんでいるシャーペンを筆箱から取り出し、ペラペラとページをめくる。今日授業でやるはずの所は既に予習済みであるので、明日の分をやろうか。教科は数学であった。初めはサラサラと解けていたが、途端に解けなくなる。回答を見る。分からない。分からない。戻る。分かった、公式をコンマ001秒のうちに記憶、自力でやってみる。出来ない。もう一度戻る。分かる。自力で。解けた。やった。一瞬僕は気持ちが良い。ザッザッと二直線を出た値の下に引く。鋭敏な二直線で、その問いを殺す。もうお前は僕の支配下で、お前の事を忘れぬ為に僕は苦しんだ。お前に突き刺す二直線は、お前の為に苦しんだ僕からの呪詛であり証である。分かったか。醜く唾を吐く。勉強は憎しみと復讐の繰り返しである。理解できず憎い、排斥すべき対象を尽く分析して、最善の殺害方法を計画する。実行、そして成功。後に僕の脳内に放たれる快楽物質はきっと測り知れないものであり、僕は幸福に満たされる筈である。僕は毎日計画と実行をこの安っぽいノートの上で繰り返した。黒鉛が擦り切れる音はまるで腕のいい職人が作った切れ味の良い包丁を研いでいる様だった。僕は問いに苦心しつつも、そのシャーペンの音を楽しんだ。僕は床に突っ伏したまま問題を解き続けた。僕には勉強机など無かった。いつも僕の勉強場所は床の上であった。カーペットなどが敷かれているほど、礼儀正しい家では無かった。冷たい床の上で痙攣にも似た震えを起こしている自分の足の指を、別の生き物の様に感じた。そして恐る恐るその震える指先に触ってみると、今まで感覚の無かった足が急に現れ、わずかな手の温かみを吸収していく。僕自身に認識されず、端っこで震え上がっていた僕の足が、僕の手が触れることにより元気を取り戻したというか現象が不思議に思えてならなかった。小動物とも呼べる僕の足を滑稽に思った。
「Love me I say ♪ Love me I say♪」
鼻歌を歌った。昔聞いたことのある曲だった。僕の持っている最古の記憶だった。歌を歌うのが久しぶりなせいか震える声帯から溢れる雑音が気になったが、僕は満足だった。僕は気分が良く、肩が上がっていた。そして極めて幸福な気分の時に空想をしてみたらどうだろうかと思った。試しにやってみようと思った。僕は部屋の電気をつけることもせず、部屋中の窓から滲み出る光だけを頼りに勉強していた。これぞ蛍雪であると納得した。そして、その短い間だけは、普段クズで間抜けで腰抜けで男の風上にも置けないような陳腐な僕自身に、底無しの自信を持つことができた。僕はその薄明るい部屋の空中に空想の絵を描いた。神話に出てくる醜い神々を描いた壮大な絵画の如く、金色の額縁に入れられた絵である。僕は1人で草原に立っている。その草原を形成する短い草は、黄緑と赤に交互に色を変えている。赤い色は、この草原を通る者が葉で足首を切りつけた時に付着した赤だ。その草原は恐らく人が逃げた後であった。天気は快晴である。澄み渡る青色の空である。僕が立っている真っ正面に、人が1人いる。服装、体格はいたって普通、シャツと黒だかグレーだかのズボンである。顔はまだ分からない。手には僕のポケットに入っていた筈のカッターが握られている。彼の肌は異様に白光りし、神の後光の様である。僕は彼の手を握ろうとするが、拒まれる。僕の表情が歪む。歪むのと同時に、その草原の葉の色は一斉に黄緑色になる。時が戻ったと僕は直感した。僕の前には誰もいない。僕の後にはきっと誰かがいるのだろう。黒い影が、僕の輪郭をなぞるように湧き出ていた。僕は少しだけ悲しくなった。
勉強