No.8. 酔狂な論拠
へへん
「おかしな言い回しをするから直ぐに分からなかったですよ」
「おかしいですか」
「罪だとかなんとか言ってたじゃないか」
「そう思ったんです。僕は誰かに渡さなければ」
「まだそう思いますか」
「思います。先生に渡せなかった」
「私に渡してどうするんですか」
「僕は許される」
「何を」
「罪をです。僕の罪が消えます」
「性交で?」
「僕はされたことを仕返すだけです」
「レイプ仕返すという訳ですね。じゃあ私でなくてもいい、金子君にやり返せばいい」
「それは無理です」
「なんでですか…君、言っていることに一貫性がないですよ」
「僕からしたら一貫性はあります。僕は金子君には勝てません。彼は頭がいい。彼は人気がある。彼は他の大勢を連れて世界を何周も出来るでしょう。つまり彼より僕の方が劣っている。劣っている人間が優れている人間に罪を与えることができると思いますか」
「…金子君に対して優劣感情が君の中にあるということですね。君のその論で言うと、“先生は自分より劣っている”と君が思ってるから君は私を犯そうとし、君は私を見下している故に私にその罪とやらを与えようとした、というわけですか」
「いいえ。僕の憧憬は先生です。それ以上でもそれ以下でもありませんし僕は先生を尊敬しています。」
「それじゃあなんですか。さっきの説明と食い違いますよ。私を襲おうとした理由が情愛でも軽蔑でもなければ一体なんなんだ」
「先生、貴方なら許してくれると思っていました。僕は貴方に対して一種の信仰心を持っています。貴方はきっと全て許してくれるだろうと信じていました。根拠もなく信じていました。申し訳ありません」
「君の言う所の許すというのは……うん、長くなりそうだから追及早めておきます。まあとりあえず君は結果的に私を襲ってはいないのだから謝罪の必要は無いのだけれど、私も驚いた。君は極めて礼儀正しい子だったからね」
「がっかりしましたか」
「いいや、君の性的趣向は犯罪にならない限り尊重します。話がズレましたな、君、体は大丈夫かい」
「平気です」
「場所はどこだったんだ」
「理科準備室です」
「他にも誰かいたかい」
「いいえ」
「これからどうしたい」
「どうって、なんですか」
「法的手段までは難しいかもしれないが、転校とかカウンセリングなら公共機関で対処できます。今後彼と同じ環境で生活するのは良くないと私も思う。君の気持ちを聞きたい」
「平気です」
「平気じゃないように見えるけどな」
「本当です。実を言うと慣れているので」
僕は虚言を吐いた。
「慣れているって……今までもあったんですか、それは他に知っている人は…」
「いません。僕も了承してやっていたので」
「そうか……」
先生は声量を下げた。肩に乗っていた手が離れていった。
「さっきの様子だと、君はかなり参っているようだね。そんな中で多く尋ねごとをしてしまってすまなかった」
「いえ。僕は参っていますか」
「ああ、極めて精神的に不安定な様に感じる」
「僕は僕自身を極めて冷静な様に思っていますが」
「よし、こういう時のためにアンケートがあるんだ。やってみてくれたまえ」
先生は電気をパッとつけると、服の乱れもそのままに作業机から一枚のプリントを取り出した。そして鉛筆とそれを手渡すと、20ほどある質問に堪える様に指示した。僕は黙々と空欄を埋めた。先生はどこからともなく布団を一式持ってきた。僕からその記入済みのプリントを受け取ると、何か分厚いファイルにせっせとしまい込んだ。
「1人は心細いだろうから近くで寝なさい。勿論変な気は起こさぬように。私も君を家に招き入れている身なので告発は出来そうもないが、腕力は君よりあるだろう。少しは脅しになるといいが」
「別に心細くはないですし、もうこれ以上何かする気力もありません」
「それは良かった。明日は学校へは行くのかい」
「休みます」
「そうか。仕方ないだろう」
「先生の家に居ても良いですか」
「…なんでそうなるんだ、だめです。近所に知られたらお終いだよ。きちんと家に帰りなさい」
「外には出ません」
「私の倫理観が煩いんだ、明日はいったん家に帰って…」
「帰れませんよ。僕の家の事情は先生もよくご存知でしょう」
「…帰宅した方が君のためにも私のためにもなると思うんだが」
「では、先生は僕に雌の母を見ろということですか」
先生はキッと黙った。息を呑んで僕を見ていた。
「貴方は私の母を知っている筈です。彼女の醜態を知っているでしょう。彼女がどれだけ醜く汚れた人間かと言うことを貴方は知っているでしょう。僕はその汚れをこれ以上吸いたくはない。僕はなるべくあの家には近づきたくない。だから僕は毎日図書館で夜遅くまで勉強しているんです。先生は雌の醜さを知っていますか」
「……女性の全員が全員醜いというわけではありません」
「醜いですよ。先生は無知なだけだ」
「この場に女がいなくてよかったですね」
「はっ」
笑った。そして僕は先生を少し軽蔑した。心底失望した。だが、まだ彼に対する憧憬は残っていた。彼の位が2、3段下がったと思った。
「先生は女が好きですか」
「ええ、好きですよ。兎に角明日は家に帰りなさい。分かりましたね」
「…先生」
部屋の中はまるで苺ジャムのぎっしり詰まった瓶の中の様で、鬱屈したゲル状の甘ったるい匂いが僕の鼻腔を塞いでいた。その甘ったるい匂いの出所は果たして先生なのか、飾ってある大量の書物なのか、壁にかかっている誰とも分からない娘の写真なのか僕は知ることができなかった。それは「ハッピー」とカムフラージュの名のついた心地よい媚薬の様であり、胃の中を全てひっくり返し僕の臓物を搔きまわす腐乱臭の様でもあった。僕はその絶妙な薫りを腹いっぱいに吸い込んである種の勇気を得た。
「明日帰りますから、1つだけ僕の願いを聞いていただけますか」
僕は自分の鼓膜に張り付くゲル状の空気の中で、自分の声が響いているのを感じた。
「抱擁してください。実の子を抱く様にです。僕を慰めてください」
返答を待った。ジャムの瓶の中の僕はひとりで窒息しかけた。喉の奥まで汚らしい桃色の実が詰まり、指の隙間から溢れ出るゼリー状の粘着質な個体は僕の体を硬直させている様だった。
「良いですよ」
体を包み込んでいた硬く柔らかいジャムの幻想なんぞは一瞬にして消え去り、目前に広がる黒と藍色の部屋の中で僕はきつく締め付けられる感覚を上半身に感じた。僕はとうに先生の腕の中に居た。力強い腕は僕の肩を離さなかった。僕は先生のうなじやもみあげの黒く太い髪の、毛穴の付け根を懸命に見極めようとした。市販の安いシャンプーやら石鹸やらとわずかな埃臭さが入り混じった彼の皮膚に、僕は頬擦りをする。その複雑な香の中に先生を見出すのに暫く時間がかかった。見出したのは、先生の授業の後質問に行った時嗅いだことのある香だった。古い本の燃えるような、お香を焚くような匂いである。すれ違った時にもわずかに嗅いだ匂いだとも思った。わずかに見つけ出したそれを見失わぬよう、先生に齧りつくように自分の腕を広い背に回した。背中の寝間着の布をきつく握りしめる。僕の頭に浮かんでいた景色は、白い教室の窓辺に佇む先生の、草臥れて肩の部分が下がった半袖のシャツの背中であった。まるで 聖人の放つ光明に包まれている様に清く美しい先生の背に僕、は幾度となく見惚れたのだった。そしてそれが僕の記憶の中だけの幻想であったとしても、僕は夢を見続けることを辞めようとはしなかった。じかで嗅いだ所為だと思った。じかで嗅いでいるのだ。僕はその晩中、先生との清らかな妄信的情景に呑まれていた。その時ゔぁかりは、自分という制御不能の媒体が、今僕のことを熱い度胸と勇気でもって受け止める者を極めて好いているのだと否応無く認識した。僕は極めて温まった体を伸ばし、横になる様促した。自らの意思で信仰する相手の温かな腕の中で眠る幸福を、二度と忘れまいとして味わっていた。
ほほん