No.7 白状
はあ
喉を絞ってひねり出した贖罪の意は極めて不気味なものだった。先生の横たわっている草臥れたソファの上に腰を下ろしその美しい額を眺める。時計の針はもう14時を過ぎたところを指し、部屋の中は真っ暗であった。わずかに窓から入る月明かりがカーテンの裏に辺り、窓際をぼんやりと明るませている。僕はその漆黒の中で静かに手を動かした。僕は頭の中でしきりに今僕の行おうとしている行為について言葉を紡いだ。心臓が暴走したモーターポンプのように伸びたり縮んだりして、動脈をビクつかせているのも気にならなかった。静かに僕は彼の寝間着のズボンと下着を下ろし、視覚的暗黒の中に生々しい自らの心を見出すことに努めた。水彩絵具を溶かした汚水のような暗闇から得られる情報はほぼ皆無だったが、手から伝わる生暖かい感触は僕の妄想をはるかに上回る艶かしさとして脳を直撃していた。簡潔に言うと、先生は紳士でもあった。と同時に僕は自分のものの貧相さを良く知った。それでもまだ僕の頭を犯す熱は冷めることはなかった。むしろ逆であった。指先の毛細血管までもが2倍に膨れ上がりどくどくと鳴っているほどだった。思考を巡らすための理性などどこかへ行ってしまった。音1つしない漆黒の中で、僕は1人だった。
「……何をしてるんだ」
低い声が、ほんの数秒前まで静寂だったはずの虚無ともいうべき空間に響き渡る。目を覚ました先生は僕なんぞ見ていなかった。それに僕も先生なんぞ見ていなかった。
「起こしてしまいましたか」
「一体どうしたんですか」
「別にどうもしていません」
「どうかしているでしょう」
先生は叱ると思った。声を荒げると思った。実際はそうではなかった。僕は即座に体を動かし先生の両腕を押さえつけた。僕は幾らか質問をしたいだけだったのだが、先生は何か勘違いをしたらしい。激しく体を捻り、僕の骨と皮だけの体を突き飛ばした。僕は床に尻餅をついて、じりじりと後ろへ下がった。首には麻縄が掛かっていた。僕は沸々と蘇る希死念慮を振り払うこともせず、その馴染みある願望を自らの脳裏に深くしまい込んだ。
「何をするつもりだったんです」
先生の荒々しい呼吸と布の擦れる音が静寂の中でただ聞こえていた。段々と頭の冷えてきた僕は、先生を全くの別の人間として見ていた。もうそれまでの憧憬としての先生のイメージは、僕の中で一切消え去っていた。僕は彼が、僕が憎くてたまらないその他の人間と同等かそれ以下のように思えて堪らなかった。それと同時に僕自身も、欲にまみれた醜い人間から元の人間嫌いへと変態した。彼に対する憎悪は、脳裏にへばりついて離れない罪人と同等にさえなった。そしてその青く燃える憎悪の熱は、一瞬にして表面化し、僕はポケットに入ったカッターに手をかけた。
「僕が何をするつもりだったかを問うていますか」
「そうです。呂律が回ってませんよ、具合でも悪いかい」
「僕は何をしようとしていたと思いますか」
「私に聞くんですか」
「はい、貴方が僕の行動をどう捉えるか、知りたく存じます」
「私が予想するに」
僕は彼の異常とも思える冷静さに、非常に驚いた。こんな時に顎に手を当てて物思いに浸れるなんて、大層肝の座った人間だと思った。だが、僕を突き飛ばした時彼は確かに混乱したはずで、僕と同じだったはずだ。僕は何の証拠もなくそう思った。
「……恐らく夜這いでは?どうです、当たっていますか」
「驚きました、先生、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」
「私を乱したかったのですか?」
「違います」
「じゃあ何です」
「僕は……」
細く華奢な美しい針で縫い物が織られていくように、僕の脳内のシナプスの端々がグリグリと揺らされていた。そしてその針は同時に脳筋を切断し混ぜるなどを繰り返した。僕は完全に唖然として、その暗闇の中でぼんやりと捉えられる先生の影を見つめた。僕の首にはまだ麻縄が掛かっていた。そしてゆっくりとその縄は引かれていた。僕は目を瞑りたかった。
「罪を償いたかったのです」
「罪?」
「そうです、罪です」
「何の罪ですか」
「生まれ出でて生き、話し、食い、貰った罪です」
「誰から貰ったのですか」
「さまざまな人から貰います」
「誰です」
「側近では金子くんに」
「どういうことですか」
「欲は罪です、先生。僕は彼自身の欲を発散させるために使われたんです。良いように使われた。そして僕は彼から罪を貰いました。手渡されました。だから今度は先生に手渡すのです。手渡したかった」
「熱でもあるんですか」
「僕は平常です、先生こそおかしいですよどうして罪の受け渡しを前にそれほど冷静でいられるのですか」
「罪?受け渡し?抽象的すぎて良く分かりません。兎に角落ち着きなさい」
「僕は落ち着いています」
「落ち着いていないでしょう。」
僕は口をあんぐりと開けて、その先生の口から流れ出る言葉を頭に入れては吐き出した。彼の穏やかな低音が鼓膜を心地よく震わせる感覚に身を委ねて、僕はしばらく思考を停止した。一瞬で辺りは静寂に包まれた。先生の瞳には何も映っていないように思われた。
「何年男子校に勤めていると思ってるんです。生徒に言い寄られる経験はありますから簡単に動揺などしませんよ」
「……」
「何か飲み物でも飲みますか」
「…要りません」
「これでも一応心理学をかじっています。カウンセラーとしての経験も少しですがありますから」
先生は暗闇の中で静かに諭した。そして僕の両肩に手を置いた。そして僕の正面にひざまづき、まだ床の上で項垂れる僕を軽く揺さぶった。僕の意識は次第に彼の眼鏡の煌めきに集中した。僕はぼんやりと、これまで先生と築きあげてきた信頼関係の崩壊を感じた。懸命に取り繕い、笑い、勉学に励んだ日々を全て無駄にしてしまったと思った。先生は今後僕に、これまでと同じような態度はとらないだろうと思った。絶望であった。僕は先生を失った。永遠に僕の中の先生は死んだ。無性に、虚しくも目頭が熱くなる。首に掛かった麻縄が強く引かれていた。
「僕を基地外だと思いますか」
「いいえ」
「基地外だと思ってください。いっときのキグルイだと信じてください。僕は普段からこんな人間ではない」
「どうでしょう」
「本当です。忘れてください」
「懇願しますか」
「懇願します」
「それは君自身のためですか、それとも私のためですか」
「先生のためです」
「私のためですか。」
「はい」
先生は納得できないような態度でため息をついた。
「保身ではないんですか。仮にも琴野くん、君は優等生だ。自分の将来のために私に忘れろというのではないですか」
「違います」
「どう違うんです」
「先生にずっと憧れていました」
「それはどうもありがとう、でも説明にはなっていませんね」
「これ以上ないくらいの憧憬です。でも説明したって先生には分かってもらえないと僕は分かっている。だから何も話せません。貴方に失望されるのが怖い」
「私は失望も何もしませんよ、貴方に期待したことなんぞ何もないのだから」
僕はその時、麻縄が首元にきつく結びつくのを感じた。気口と脳へと続く動脈が締められ、苦しい。目眩がした。
「僕は罪を犯されました。罪を貰いました。なのでそれを誰かに渡さなければ、本当に頭がおかしくなってしまいそうなのです。僕は先生に渡したかった。先生にしか渡せないと思いました。でも出来なかった。僕は失敗しました。なので今罪を持っているのは僕です。僕が処刑されるんです。わかりますか」
「……もう一度」
「だから、僕は罪を貰ったんです、金子君に」
「それは具体的にはどういうことですか、金子君に何か命令されたんですか?それとも麻薬か何かを貰ったんですか?それを私に渡しに来たと?」
「違います、違います。僕は罪を犯されたんです。わかってください。わかってください」
「だからそれが分かりません、罪とはなんですか、君は金子君に何をされたんですか」
僕はそれ以上言う気になれなかった。僕は自分を恥だと思った。今すぐ消えてしまいたいと思った。先生は僕の肩を両手でしっかりと掴んでいた。指先が関節の間にのめり込むのが痛い。先生の指の震えが、骨を伝って感ぜられた。
「……もしかして、痛みますか」
「はい、酷く」
「腹ですか、尻ですか」
「どちらもです」
先生はハァ、と喉仏の奥から乾いた二酸化炭素を吐き出し、その風が僕の鼻を掠めた。先生の質問が滑稽に思えてならなかったので、口角を少し歪めて笑った。
へぇ