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拝啓、狂人だった僕へ  作者: 雑魚 六二
6/11

No.6. 計画

恋心

僕は先生の家へ上げもらった。田舎であるせいか一人暮らしのはずの先生も、平屋の一軒家に住んでいた。古い木造の建物だったが、学業に長けた先生らしいと言えばらしい家だった。立地はというと、丁度僕の家のあるマンションと学校がある街の中間であった。僕は乗り馴れた鈍行一本で先生の住む市へと行くことができた。内装は極めて単調で、決して散らかってはいなかった。きちんと整頓された本棚には難しそうな書物が所狭しと並んでいる。多くは物理学の専門書らしかったが、ちらほらと純文学や社会学の論文らしいものも見受けられた。本棚のはじに挟まっていた未翻訳の「罪と罰」なんとなく手に取り、ペラペラとページをめくってみる。


「先生、仕事帰りにすみませんでした」


僕はわざと申し訳なさそうな顔を作り、声を震わせて言った。彼の慈悲を受けやすくするとともに、彼自身に「人を助けている」という満足を得させるよう狙った長年の経験値からの所業だと思っていたが、どうもこの震えは自制が効かぬ。


「いや、良いんだ、君の家庭も随分と複雑な様だからね」


「ご理解感謝いたします」


わざとらしく僕は俯く。


「ところで琴野くん、夕食は取ったのかい?」


「いいえ」


「それじゃあ出前でも取ろうか」


「いえ、わざわざ申し訳ないです、一晩くらい我慢できます」


「そんなこと言わず…何か食べたいものは?」


「生憎食欲がありませんで…」


「そうかい」


先生は考えこんで手を顎にあてた。眼鏡の奥の美しい瞳は、部屋の角の暗がりをじっと見つめていた。


「ふむ、味噌汁くらいなら作れないこともないが、いっぺんやってみるか。

琴野くん、君も日本人なら味噌汁くらい食欲がなくとも啜れますね?」


その滑稽な言い回しに、僕はやや微笑む。


「はい、勿論です。ありがたく啜らせていただきます」


「宜しい!」


先生は、ツカツカと木造の台所へと歩いて行った。僕はそのままキチンと整理整頓のされたリビングで佇んでいた。先生の生活する空間の空気を肺に取り入れることである種のオーガズムを得るとともに、1つの下世話な疑問が脳裏に浮かんだ。先生もこの家で性行為に及んだりするのだろうか。女を連れ混んで馴れ馴れしく触ったり股を開かせたりするのだろうか。もしくは下手なエロ本などを買ってその粗末な一物を扱いたりするにだろうか。愚直な母はオスなら皆一度や二度そういう行動に出るものだと言っていたが、果たして本当だろうか。僕には分からない。だがもしそうだとしたら、僕は失望する。


「琴野くん、先に風呂にでも入ってしまったらどうですか、もうそろそろ沸きますよ」


台所の先生が珍しく声を張り上げている。


「ありがとうございます、じゃあ先に入らせてもらいます」


「どうぞ。下着は持ってきたかい?」


「いえ……」


「だと思いました」


悪戯っぽく笑い、先生はまるで純白の子猫を見ているかのように僕の顔を見ていた。僕はその瞬間、先生のためなら死んでもいいとさえ思った。それほど先生の僕に対する優しさというのは僕の引き裂かれた神経に効いた。


「新品なやつがまだあった気がする。そのうち持って行ってあげるから気にせず入りなさい」


「お手数おかけします」


「いいえ」


先生は再び持ち場へ戻っていく。その背中は華奢で、所謂知識人という言葉にぴったりという感じの緩いシャツ、きちんと剃られたうなじと丁寧に梳かれた黒い髪がよく映えている。僕はその景色を忘れまいと目に焼き付けて風呂場へと向かった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


すれすれまでお湯が貼られた湯船につかり、僕は自分の歪な足の指を見ていた。爪の形が随分と歪んでいる。熱いお湯で体が火照っているせいか、ぼんやりと眠気が襲ってうつらうつらしていた。毎日先生はここで体を洗っているのか…無意識のうちに気色の悪い思考が僕の頭を支配した。滴り落ち流雫は水蒸気立ち上る湯船にポタリと落ち込み、円状の波を作る。僕は意識を水蒸気で煙った空中へと飛ばした。


「下着、それから寝間着もここへ置いておくよ」


先生の艶のある声が聞こえる。僕は今ここでドアを思い切り開けて先生を押し倒してしまっても、どうにかなるんではないかと思った。先生の影がうっすら風呂場と脱衣所を遮る半透明のドアに写っている。ゆっくりと衣類を置き、何か雑用をしているのであろうその動いている影を僕は舐めるように見た。僕のだんだんとそそり勃つ下半身は、湯の熱でさらにはち切れんばかりであった。僕は痛みにも近い焦ったさをヒシと感じていた。


「琴野くん?大丈夫かい?」


僕を案ずる声がさらに僕をかき立てた。


「大丈夫です…少し逆上せてしまって」


「加減を見て風呂を上がるんだよ、風邪をひいてしまうから」


「は、はい…」


どうしてこの人は僕を気遣うんだという一抹の疑念と、彼は真っ当な人間であると信じたい哀れな子供心で僕は苦しかった。熱と膨らんだ汚らしい性器の所為で、体全身を細く鋭い針で刺されている痛みが襲っていた。僕が水蒸気中に飛ばした意識により湯船はみるみるうちに赤黒い液体と透明の湯のマーブルになっては、鉄の匂いをむわりと発する。僕は鈍い痛みを振り払うように冷たいシャワーを浴び、ほてりすぎた体を冷やした。しばらくの間、その歪な膨らみを消し去ろうと努めた。そして水蒸気中に浮かんでいる意識が産むその幻覚をかき消すため、急いで風呂場を後にして用意された柔らかいタオルで体の雫を拭き取った。


「先生、お風呂お先にいただきました」


衣類をきちんと身に纏い平静を装う。僕は自分の中で沸き起こる極めて不合理な感情をうまく扱えないでいた。そして困惑した。胸の奥がグツグツと煮立つ全身の毛穴が逆立つような怒りや、全ての骨に糸を括り付け後ろから思い切り引かれているような悲しみ、そしてぽっかりとドリルで腹に穴を開けられるような、失望。それらの悲痛な感情たちは嫌という程経験していたことはあったが、先生に対する生暖かい、極めて表現し難い感覚は初めてであった。先生の一挙手一投足に目を凝らす。唇の筋肉がわずかに動くのを僕は察知した。


「ちょうど良かった、出来は良くないですが食事ができましたよ」


少し古ぼけた木製のテーブルの上には、茶碗に入った白米、豆腐と大根の浮かんだ味噌汁、そして申し訳程度の焼き魚であった。


「なんの魚ですか」


「ホッケです、今旬でしょう」


11月だった。


「いただきます」


「召し上がれ、男飯だから期待はしないように」


「ん、美味しいです、充分」


「そうかい」


先生は満足そうに笑った。僕も笑った。自然に笑みがこぼれたのはいつぶりだろう。先生は自分の橋を持ち、器用に魚の身を摘んでは口に放り込んだ。先生の妙にきめの細かい肌と、黒いフレームのメガネの奥に隠れる仄かに茶色がかった瞳に見惚れた。先生は、家だからであろうか、学校で見せる礼儀正しい印象とは裏腹にテーブルに肘をついた。そして少し顎を引き、僕を上目遣いで見るのである。僕の心はもう平静ではなかった。嫌に興奮して心拍数が上がるのをゆっくりと感じた。


「どこを見ているんだい、さっさと食べてしまいなさい」


「はい、すみません」


僕は大袈裟に顔を伏せ、飯をつついた。そしてあっという間に食べきってしまうと食器を台所へもっていった。先生と同じ空間にいると僕はどうもダメで、普段どうりではいかなくなってしまうのを恥ずかしく思った。


「先生、食器を洗っておきますので食べ終わったら」


「ああ、持って行くよ」


先生は少しぶっきらぼうに声を上げた。そして僕は仕事に没頭した。頭を真っ白にするためには、何か雑用なりなんなりに集中するしかないのだ。僕は泡立つ手元の、気泡が出来ては割れていく諸行無常を永遠と眺めた。


「もし、琴野くん」


背中から声がする。


「寝床はソファーかベッド、どちらがいい」


直感的に潮時を感じた。僕の限界がきたということだ。それは極めて本能的に生み出される、僕には拒否権のない提案であった。僕は自分自身を理性と理論が行動の主権を握っている人間で、感情や衝動的な欲望に左右されない人間だと盲目に信じていた。そしてその潮時の感覚が、それまでの盲信から目を覚まさせたのである。つまり、僕は自分が極めて情動豊かであり、身体と行動をいとも容易く結びつけてしまう人間であると知ったのである。そしてそれは、あの憎っくき金子、いやレイプ犯、暴力魔、強引で強欲な悪魔と僕がほぼイコールで結び付けられることを意味していた

その邪悪な欲望と身勝手な計画を打ち消すようにグルルとのどをならした。


「ベッドがいいです」


「おお、遠慮しないのだね」


「はい、ソファで寝るのはもう飽きました」


「……そうかい」


先生は無言でその場を去った。そして遠くで「シーツは交換したから安心しなさい」という短い説明を付け加え、風呂場へと消えていった。僕はその時不思議な感覚を得た。理性がまだ僕の中に存在しているのだ。そしてその理性は、先ほど僕の中に産まれた身勝手な計画をより確実なものにするために働いていた。欲望と理性の共存は可能なものなんのだとその時僕は学んだ。その時の拙い計画を少しだけ吐露させていただく。


まず僕は極めて大人しいヤギのようにベッドに入り、先生を待つ。先生は恐らく風呂を出たらベッドが置いてある部屋(飯を食ったテーブルのある部屋とは別の部屋である)には来ないであろうから、聞き耳を立てて先生の寝静まるのを確認する。なぜ先生が来ないと確信を持てるのかというと、ベッドのある部屋は一軒家の1番奥にあり、テーブルのある部屋とは遠く離れていて、かつトイレや洗面台、台所などはテーブルのある部屋の近くに固まっていた。つまり、僕が寝て仕舞えばわざわざベッドの方まで来る理由など先生にはないし、僕は先生から絶対的な信頼を得ている自信があったので、僕の様子をみにくることもないだろうと予想したのだ。僕はドアに耳をつけ音を聞く。先生が電気を消す音を確認した後、静かに2時間待つ。大体の人は床に入って2時間で寝てしまうからだ。そして辺りが静まったとき、僕は先生の元へと向かうのだ。そこからはもう情動の働くままに。僕はこのような計画を企てる自らの思考や理性を醜く思うと同時に、少しスッキリしたような気もした。胸の奥にねじ込まれた鉄球が、すっぽりと抜かれた気分だ。


僕は実行の時が来るまでベッドに横になった。先生の寝ているであろう布と綿の塊は、僕の恋心と呼んでも可笑しくは思われないであろう心をくすぐった。そして、醜い下半身を再びピクつかせるのだった。外はもうすでに闇に包まれ、あの時と同じような静寂に包まれていた。ベッドの横に立っている本棚のせいだろうか、あの時と同じような埃臭さを感じた。僕は理科室の冷たく固いテーブルを想像しながら、ベッドのマットレスの下の鉄の部分をなぞった。少しだけ涙が出た。

実行に続きます

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