No.5 思考の腐敗
へっへーん
背中から感じるコンクリートの硬く冷たい感触。僕は小一時間自分の家の前で立ち往生をした。そのアパートはいくらかボロく古臭いもので住居者も少なかったため、待っている間にも人がやってくる気配はなかった。僕はお得意の現実逃避に徹することにした。
僕がまず思考を始めたのは、金子についてである。かの衝撃的な出来事からまだ半日も経っていなかったのだから、彼のことを考えてしまうのは自然なことに思われた。僕は彼がひどく傲慢であることや、隆々と漲る筋肉には到底逆らえそうにもないこと、人間の醜さ、性欲の罪深さについて何万字もの論文が書けるのではないかと思われるほど考えた。レイプ、強制性交……いや、それは女が自分の心的外傷を世間に訴える為の特権的な名称であって、男の僕は恐らく使えないのではないか。性交の定義は?子孫を残すために行われるものが性交であるならば、あいつが行なったのは単なるマスターベーションで僕は生きたオナホに過ぎないだろう。性欲を満たすために行われるものが性交であるならば、あの行為は一応性交の形を成すが、僕は全く性欲云々を求めて参加したのではない。この場合も、あいつのマスターベーションで僕は生きたオナホ……同じ結果になってしまうことに滑稽さを感じつつ、一種の虚無感に囚われた。どういう結果であれそんなことをグツグツと脳内で論じることは価値のないことで、非常にくだらないなと思った。つまり僕は良いように使われたのだ。僕はあいつの思いつきで良いように使われてしまうほど弱者的立場にあるということが証明されたのだ。つまり僕は見下されている。僕はねじ伏せることができる相手としてあいつの目に映ってしまった。あいつは僕を好きだなんだと言っていたが、それは全くの虚言であるということも婉曲的に証明されたと感じた。僕の頭の中での証明は完遂された。次は実際に金子に、僕の成し遂げた証明を突き付けてやろうじゃないか、そして「自分の軽薄で露骨な見下しに、僕が気づいている」という事実を知った時のお前の情けない顔を拝んでやる。目論見が次々と湧き上がり、僕は興奮した。あいつをやっつける手立てが次から次へと思いつくのだ。僕はこれは決して復讐などでは無いと思った。これは処刑だ。彼は罪人で、僕は被害者だが、被害者である僕以外に彼の罪を知るものはいない。僕は罪人と被害者との間に仲介人を挟もうとは思わなかった。僕は人を信頼できないタチで、きっと仲介人を設けたとしても、仲介人は僕の味方はしないだろう。なぜなら、僕よりも金子の方が頭が良い……。手を下せるのは僕だけだと強く感じた。強気な心が出てくると、反対に酷く自分が落ち込んでることに気がついた。今までの自分の心持ちが落ち込んだものだと理解した、の方が適切かもしれない。興奮で肩が震えているのか、涙が出そうでそうなっているのか分からなかった。胸が空っぽで、しかも空気が全て吸い出された真空で、側面ががビリビリと剥がれ落ちそうな穴が、ぽっかりと空いている感覚だった。僕は少しだけ泣いた。誰にも聞かれないように、蚊の鳴くような嗚咽を漏らした。ようやく本当に吐き気を催してきたので、僕はボロいマンションの裏の林に吐いた。
一通りの黙考が済んだ後、再びスマホの電話帳を開く。肩のあたりがふわふわして、非常に寂しい。誰か今の不安定な僕に構ってくれる人間はいないかと、勢いよく画面をスワイプする。ふと表示された「後藤先生」の文字。後藤先生は、僕のクラスの物理を担当する教師で、大きなメガネで短く切り揃えた清潔感のある髪型、丁寧な物腰が好印象の人間だ。僕が唯一心から好意的に接することができる人間だった。僕の物理の成績が良いからか、僕に対して非常に良くしてくれるのだった。僕は後藤先生が好きだった。尊敬できた。先生が見ているのが僕の成績だけだったとしても、僕は先生を嫌いにはならないだろう。細くて骨張った指が白いチョークを掴み、緩やかな発音で繰り広げられる授業を聞いているのが、僕にとっては至福の時間だった。度々質問に行くので、僕は先生の電話番号を教えてもらっていたのだ。「分からないところは直ぐに聞いた方がいい」というのが彼の口癖だった。
「プルルルル、プルルルル、ガチャッ」
「はいもしもし、後藤ですけど」
いつもの調子で先生は電話に出た。僕は少し緊張した声で切り出した。
「こんばんは、琴野です」
「ああ琴野くんかい、こんばんは。何か質問?」
「い、いえ、質問では無いんですが…」
僕はハッとした。何をしているんだ僕は。要件もないのに教師に連絡するなんて僕らしくない。万が一、後藤先生に嫌われたら……急に平静に戻ったためか不安が過ぎったが、時すでに遅し、である。
「……す、すみません、間違えました、なんでもないです失礼します」
「琴野くん?大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「泣いているようだね」
「いえ、風邪気味で……」
「何か悩み事があるならなんでも言ってくれていいよ、これも一応教員の役割であるから」
「いえ……あ……あの」
口から思ってもいない言葉がぼろぼろ出そうになるのを抑えて日常生活を送っていたためか、僕は何から言えばいいのか分からなかった。衝動的に要らないことまで言ってしまうのを恐れた。
「家に帰りたくなくて」
今思えば気を引きたかっただけだったのかもしれない。不安定な精神状態で考えついた要求など、最早僕がほんの数秒前まで忌み嫌っていた某欲に類似している感情だということは分かっていた。ただ認めたくないだけだった。貪欲な人間である醜い自分など、内側だけで充分だ。僕の欲が表面化したのは、おそらくその瞬間が最初で最後であった。
「そうかい……
僕ができることは、君を鼓舞という名目で家に帰るよう説得するか、保健所に連絡するかしかないんだが……そんなことで解決するとは思っていない」
僕が好きなのは先生のこういうところである。彼は非常に教員向きの人間であった。生徒に敬意を払い、人間に敬意を払い、生命に敬意を払う振る舞いを、形だけでも示すことのできる思慮深き心は僕にとって最高級の演技であった。
「友達の家にでも泊まらせてもらったらどうだい?」
「友達、いないんです」
「そうか……隣の席の金子くんはどうなんだ、良く話しているだろう」
「彼の番号知りません」
僕は虚偽の発言をしてしまった。
「そうだよね……校舎の宿泊所も許可がいる…やはり僕ができるのは君を説得する以外選択肢がない」
「先生の家にでも泊まらせてくれれば良いじゃないですか」
勢い余って、その醜い下心が老婆の嵌める入れ歯のように飛び出たが、僕は不思議と自己嫌悪に陥ることはなかった。その時ばかりは僕の頭の中は空っぽで、何も考えていなかった。先生と電話をしているという事実だけで、僕は胸がいっぱいだった。
「何を言っているんです、私を失職させるつもりですか。」
「先生、先生は読書会の顧問でありますよね?最近は古本の修理で忙しいと聞きました。僕も一応図書委員ですので、同好会の方のお手伝いは良くいたします。それに僕の祖父は国際図書館に歴史的な文献の修復に携わったことのある人で、僕も幼い頃、簡単な修理は良く手伝わされました。読書会の会長さんが、先生は度々自宅に幾らか本を持ち帰ってシールや表紙の直しをしてくださるとおっしゃっていましたし、先生は授業準備等もあるのに大変でしょう。僕がお手伝いいたします」
「今日はやけに饒舌なんだな」
「はい、逃げたくて必死なのです」
「そうかい……分かった、その代わりこのことは決して口外するなよ」
「勿論です」
僕は安堵の吐息を漏らすとともに、心から敬愛する先生のご自宅に伺えることを喜ばしく思った。まだ、携帯を持つ手が小刻みに震えていた。
ふっふーん




