No.3 悪夢と静寂
BL要素ちょいありです〜
僕は今日もまた、特段変わった様子無く自分の席についた。他の人から見れば僕は極めて落ち着きのある勤勉な学生、何の害もない1人の人間らしかったので、僕もそのイメージを死守すべくそう振る舞った。そのような、可もなく不可もない生き物であると思われているうちが一番楽である。誰に特段構われるわけでもなく注意される訳でもなく、空気のようにそこにいるだけで全てが上手くいくと僕はこの短い16年の人生の中で学んでいた。僕は日々、演技をしているにも等しかった。そうすることによって、一定の満足を得ていた。他者に自分を知られていないという状況は僕自身の優越感や払底しかけた自己肯定感を高め、ナルシスト的自己愛に浸ることができた。また一方で、僕の煮えたぎる心情を誰かに吐露しようものなら一瞬で僕の平穏な人生は幕を閉じ色んな集団の無礼者にこねくり回され、元から捻じ曲がっている精神をさらに湾曲させることになるのだからそう演技をすることが当然だとも思っていた。しかし、最近の僕はどうも苛立ち過ぎていて、平穏を送るための努力ともいうべき振る舞いをとるのに酷く苦しんでいるらしい。グツグツと煮え立ち熱くなった鍋蓋を必死に抑え込んで、その熱々の鍋蓋に触れることで手が火傷してしまっているようだった。僕は火傷した手を元の冷たい手に戻す術を知らなかった。常に爆破してしまいそうな破壊的衝動を抑え込む為に、僕は口を開くことを辞めた。口はまるで水道の蛇口のようで、一度ひねると何が吹き出てしまうか分からないため極力害のあるものが吹き出て来ないよう、僕は暫く寡黙に徹した。が、皮肉なことに僕の傍若無人な隣人にはそんな僕の努力などつゆ知らず、執拗に僕の口を動かそうとありとあらゆる質問を投げかけてくるのだった。
「琴野ー、次の授業なに?」
「現代文じゃないかな」
「まじか教科書忘れたわ、見せてくんね」
「…いいよ」
「てかさ、現国すすむの遅くね?」
「ああ、確かに」
お前はいつも寝てるんだから関係ないだろう。
「俺現代文10番以内になったことあるぜ?」
「金子君はすごいね」
「国語はマジで勉強しなくてもできるわー」
「羨ましいなー」
今僕がジェイソンだったら鋭いチェーンソーを振り回してコイツの頭蓋骨をグチャグチャに砕いてやるのになぁ。そんな適当なことをグルグル考えていると、いつのまにか現代文の「斎藤先生」が教卓の前に立っていた。「斎藤先生」は長身の男の先生でやや肥満気味の中年、短く角刈りにしてある頭に分厚いレンズの入った古臭い眼鏡でザ・おじさんといった感じである。そのでっぷりと太った腹部は脂肪と臓物でパンパンに膨れ、やや重心を後ろにして立っているせいか腹がさらに突き出ており、女だったら確実に妊婦に間違えられるだろうなと皆思うだろう。僕もそう思う。あの張った薄皮の内側に詰まっている腑(腹綿とはよく言ったものだ)はきっと鋭い布裁ちハサミの先で突いただけでプツンと音を立て裂けるだろう。まるで膨らませた風船のように弾けるだろうか、重力に逆らえずドシャリと教室の床を赤黒い液体と白い管で汚すだろうか。そして肋骨の奥から垂れ下がった肺と心臓は、突然の大気との接触によりビクビクと震えるだろうか。鮮やかなヤツの臓器の弾みが今にも僕の脳を掻き乱して、狂乱の言葉を吐き出させようとした瞬間だった。
「えー、テストを返します」
僕は瞬間冷凍されたように、その愉快な思考を辞めた。
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「ねえ、テストどうだった?」
今この瞬間に僕に話しかけたやつのことを、僕は一生忘れないと誓った直後だった。
「うん、まあまあかな」
「琴野はいつもまあまあじゃんね」
やけに嬉しそうに声を弾ませる。ぱふ、と僕の左肩を叩いてきたので、僕は弱々しい笑顔を浮かべた。
「金子君はいい結果だったんでしょ?」
「勿論」
お前の頬に僕のシャーペンが刺さる瞬間を楽しみにしてるよ。今すぐではないけど。僕はぎゅっと右手のシャーペンを握る。
「いいなぁ」
僕は皮肉のつもりで言ったが彼はそうには受け取らなかったらしく、さらに上機嫌に鼻歌を歌いながら正面を向いた。
「なあ琴野、今日一緒に帰らね?」
僕は即座に答えた。
「いいよ」
その脊髄反射ともいうべき返答により、僕は1つの虫の知らせを得た。悪寒とも武者震いとも言える横隔膜のヒクつきが、僕の精神を逆だてる唯一の事象だった。僕はその不愉快な約束を心待ちにした。
そして夕方はあっという間に訪れる。五月蝿い学校の鐘の音は相変わらず僕の神経を引っ掻き回すが、今日は少しだけマシな気がしていた。
「琴野ー」
僕は一足先に下駄箱に向かおうと階段を降りていた。
「ちょっと理科室に用事あるから一緒に着てくんね?」
「いいけど……先生に用事?」
「いいや、ちょっと借り物があってな」
少し表紙の剥がれている古い図録が金子君の右腕に収まっているのを見て僕は納得した。こいつは嘘を付いていないようだ。もしかしたら僕を理科室に連れて行く動機付けかもしれないが。もしこいつが僕を殺そうとするなら、僕もそれ相応の対応をしよう。大丈夫、こいつよりは何万回もシュミレートしているし勝つなら僕だ。大丈夫。
「早く行こうぜ、暗くなる」
「う、うん」
僕は少し緊張した。廊下に佇む僕など気にする様子もなく歩き始める金子君の後ろ姿は、いつもよりどこか飄々としていた。
床がギシギシしている。第二校舎にある理科室は、人で溢れかえる第一校舎とは違いシンとしていた。カビと埃の鼻孔に張り付く湿った空気が僕の心を新鮮にした。あの汗と人の肉の臭いとは違い、ここは妙に無心を誘った。第一校舎では秒単位で視界の興味が移り変わり、僕は居るだけでも疲れてしまうのだが、第二校舎だと廊下にいても教室にいても僕の内側と外側は一様に静かである。僕は安堵した。理科室の小さい木製の椅子に腰掛ける。金子が書物の整理をしている間、僕はぼんやり薄暗い教室を見渡した。ガス栓、ビーカー、蒸留水。人体に危険のある薬品は全て倉庫にしまわれているので、机の上にあるのは当たり障りのない実験用具だった。
「なあ琴野、お前ってさ」
物陰で隠れて姿の見えない金子君の声も、理科室だと妙に落ち着いて聞こえる。僕は10分前の廊下での緊張など嘘のようにリラックスしていた。
「美人だよな」
僕の意識は上の空で、その埃臭い空気を愛おしくさえ感じてしまっていたので、ヤツの言葉の意味を瞬時には理解できなかった。
「…あ、ごめん聞いてなかった、なに?」
「だーかーら、お前が美人だって話
他の奴らも言ってたぜ、華奢だし色白だし、性格も良いし」
ほう、さすが男子校。こういうことも言われるのか。僕は埃臭い空気で異様なまでに落ち着いてしまった脳で考える。女に飢えた雄供はその性欲の矛先を男に向け始めるらしい。惨めなものだ。もし僕がこの場所ではなく第二校舎外でそう言われていたら、僕は怒っていただろう。そしてその悪夢のような記憶を大切に脳に刻んだはずだ。僕はこの神聖な理科室に感謝した。
「へぇ、よく分からないや」
「分からない?」
「分からないよ、僕は金子君みたいに頭良くないから」
「よしじゃあ分からせてあげよう」
殺される、そう思った。
僕は瞬時に自分のズボンのポケットに入れておいた百均のカッターに手を伸ばすが、運動部で若々しい筋肉を思うままに発達させたその悪魔に、僕は逆らえなかった。酷く握られた手首は、中の骨がボキボキに折れてしまうのではないかというほどの圧力だった。血管が圧迫され、指先が薄い紫色になった。僕は理科室のやけに広いテーブルに押し付けられて、その性欲のはけ口がやっと見つかり歓喜する獣人に腹部を食い千切られるような衝撃が走った。自らの腹部が抉り出される感覚だった。僕は体から出せる全ての液体を出し、泣いた。このまま自分の舌を噛み千切り死んでしまいたかった。僕は吸い込んだ空気の静寂さと、今目の前で巻き起こる大虐殺ともいうべき行為とのギャップを感じた。やけに頭の裏がジンジンと痛んだ。僕の身体中の細胞全てがぶちぶちと死んでいくのを感じた。
短くてすんません