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拝啓、狂人だった僕へ  作者: 雑魚 六二
2/11

No.2 甘い妄想の淵

美味しいもの、食べたいです


ざわざわと騒々しい廊下を抜け校舎の外へ出た。細い影たちが校舎の彼方此方で動き回っている中、僕だけが時間軸の異なる世界にいるように重々しい歩みを進める。日はもう沈みかけ、血が油で薄まったようなオレンジと赤のマーブル模様が空に描かれていた。やっとのことで校門までたどり着いた時、僕は苦しみにあふれた1日の終焉をささやかに祝う。すぐさまスマホに手を伸ばし、白い鳥が目印のアプリを起動した。


「今日もお疲れ様だりん!私はこれからバイトだりん!!頑張るりん〜!応援欲しいりん!」


頭の悪そうな女子高生を装った文章を書く。もちろんこれからバイトだなんて嘘だ。いいね稼ぎである。このミコトさん界隈では、ちょっとのことでも報告をすると「心優しいメンヘラ女性」「性欲溢れたおじさん」「頭はいいが精神を病んだ紳士」のいずれかが何かしらメッセージをくれたりいいねをしてくれたりするのだ。全く、僕にとって都合のいい世界である。ポコポコと通知の音がして、僕は慣れた手つきで確認する。「借金トさん」「男娘トさん」「中学トさん」の3人がいいねをしてくれたらしく、最近仲良くしてくれている「借金トさん」が返信をくれた。


「コミュトさんはバイトしてるりん?えらいりんー!!私は働きたくなさすぎて毎日家でゴロゴロしてるりんーww」


はっ自宅警備員か。借金1000万あるくせにまだ親の脛かじって生きているやつがこの世にいるなんて、世も末だな。僕はすぐさまスマホのキーボードを叩き、送信する。


「わーい!褒められたりん!家でゴロゴロ羨ましいりんー!!」


当たり障りのない文を書いててきとうにあしらっておけば、また絡んでくれるだろう。こんなクソ野郎に構ってもらってわずかな満足感を感じている自分にも嫌気がさした。まるで目の前に人参を括り付けられ疾走する馬鹿な馬ではないか。僕は駅に向かって歩みを進めていたが、目はずっとスマホの四角い画面に張り付いていた。田舎であるのが幸いしてか人にぶつかることはない。暗くなりつつある周囲には目もくれず通知の欄を見つめる。いい暇つぶしになるにはなるのだが、まだ刺激が足りないように思った。何かもっと気分が高揚することができないものか。


ふと、視界に入る影。

だんだんとはっきりとした輪郭を帯びてくる彼は、そうだ隣の席の……


その時フラッシュバック的に思い起こされた記憶の断片がすぐさま僕の脳をジャックした。俺は解けた、という意地悪そうな、僕を見下した悪魔のような言葉が耳に何重にも重なって聞こえてくる。金属を思い切り引っ掻いて空気を震わせる不快な耳鳴りもキーンと僕の頭を貫通していき、僕の上半身は再び鬱血してしまったようだった。いつもは無いようにさえ感じてしまう心臓が、ここぞとばかりに存在感を発揮しドクドクといいはじめる。はち切れんばかりに膨らんでは圧縮機で潰されるように血液を送り出す左側の肉の塊は、記憶の束に縛られギチギチになっている頭に液体を押し込み流そうとする。その圧力に耐えられなくなった脳がいずれ破裂するのでは無いか、という1種の幸福な妄想が浮かんでは消えてしまった。僕はなるべくその悪魔のような男に近づかないよう、最新の注意を払った。この時ばかりはあまり自分の身長が伸びなかったことに感謝申し上げる。


「あ、琴野じゃん」


神はどうやら死んでしまったようだ。その数メートル先で発せられた音を瞬時に察知した僕は、これまで生きてきた中で最高級の自然な笑顔を作った。僕はこの荒野に吹き荒れる嵐の如くさざめき立った心をさとられまいと気持ちを固める。


「琴野、やっぱ琴野だよな?なんで反応しないんだよ」


「ああごめんごめん」


小走りで駆け寄ってきたその男は、相変わらず何も気づいていない様子で近ずいてくる。僕に嫌われていることなど考え付きもしないのだろう。


「金子くんがこの時間の電車って珍しいね、部活は?」


「あー今日休んだ、歯医者だから」


「へぇ……」


人がざわめく駅のホームで、僕の体は特に緊張していた。早く電車が来ないものかと遠く消えている線路の末端を探すように見渡し、気を紛らわせる。彼の口から次の瞬間発せられる言葉が自分を傷つけはしないかと怯えた。彼の近くにいると、自分が敗北者であるということを強く感じてしまうのだ。どうしようもないその感覚に囚われたまま、束の間の沈黙を過ごした。


「琴野ってさ、どこ駅で降りんの?」


「うん?ああ、凪沢で降りるよ」


「へぇ意外と遠いんだ。俺は岡本」


へぇと気の抜けた返事を返した後、僕は苦し紛れにその悪魔の目を見た。僕はなんて気の弱い人間なのだろう。こいつの前では僕は、押しつぶされたカエルの死骸、内臓を空気に晒し横たわる鳥の死骸、その他諸々の餓鬼道に堕ちた醜い魂の成れの果てであった。もういっそこの駅のホームから飛び降りてしまおうか、そうすればこの文武両刀スーパーマンに扮した悪魔に束の間の悪夢を見せられるかもしれない。僕の脳内で一瞬の閃きの如く起こる妄想は、瞬く間にその枝を伸ばし立派な神木となった。僕の腐敗した精神を救いうる木である。そしてその木の枝にぶら下がる脂肪と果汁たっぷりの実に詰まっているのは、この愚かな負け犬である僕の血肉であるのだ。千切れた筋肉、垂れる血液、鋼の車輪でねじ切られた肋骨を目の前で披露する軽い立食パーティーである。僕の、脳波を流すことのなくなった美しい神経の束、ジワリと溶ける脂肪と共に剥がれ落ちた表皮、新鮮な空気をほんの数秒前には吸い込んでいたであろう白い肺胞。なんて耽美ななん空想だろう!幸福で妖艶な魅力を持つ世界!僕は惚けて引きつった頬が緩んだ。


「なに笑ってるん」


「あ、いや別に…」


ふと足元を見ると、小さな蟻が大きな蟻の筋肉にまみれた顎に挟まれ運ばれている。その胴体の潰れて液が出ている小さい蟻は、わずかに上半身から伸びる細い糸のような手をピクつかせていた。触覚が痙攣し、今にも死にそうである。僕は軽く右足を上げるとまるで軽やかなステップを踏むように振り下ろした。音もせず、彼らは潰れた。3ミリにも満たない染みが駅のホームのコンクリの地面に出来上がる。僕はその悪魔との面接中のその刹那の瞬間に、哀れな生物に対して1つ借しをつくった。あの哀れな小さい蟻は喜んでいるに違いない。憎っくき相手の目の前で死ぬことができ、しかもほぼ同時に、その憎っくき相手の死を目の当たりにできたのだから。僕は不思議な歓喜を味わった。と同時に、自らの思考の奇怪さに酔いしれた。その時ばかりは悪魔の商取引、魂の受け渡しとも思えるヤツとの会話などすっかり忘れていた。


やっと電車がやってきたと思ったらあっという間にその悪魔は降りていき、安らかな1人の時間が舞い戻ってきた。あいつが去っていった後の1人分の空間が空虚に佇んでいる。と思ったら1人の髪の長い女性がその空間にピタリとハマるようにやってきて、その空虚をかき消してしまった。やけに綺麗な女性で、赤い唇が白い肌に映え艶のある髪はゴトゴトと揺れる車体に合わせて靡く。ふうっと息ついて、僕は再び深い妄想の世界へと旅立った。それは口には決して出せない僕の欲望と綿密に絡みついた、本当に耽美な妄想だ。それはこんなものだった。


僕は「松本先生」に化学を教わっている。「松本先生」は非常に性格の悪い先生で、僕を入念に虐めるのである。授業中に何度も僕を指名し、僕が答えられないのをいいことに教室内を気まずい空気で満たすのだ。僕は真面目に授業を受けているにもかかわらずだ。しかも隣の金子、ああ先ほどの悪魔の名前だが、は見事にお昼寝中だ。汚らしい粘着質のヨダレを垂らしている真横で僕は垂直に、まるで屋根から堕ちた氷柱が子供の憎らしい悪戯によって折られ地面に突き刺さったように立っている。「松本先生」は、ギロリと大きな目とピクリとも動かない頬を僕に向けこう放った。


「琴野くん、君は予習してこなかったのかい」


クソが。クソが。クソが。僕が予習をしていない、だって?そんなことあるものか。入念にしてきたはずの予習とまとめられたノートは、見事にその汚らしいヨダレの受け皿となっていた。透明なその汁に滲むシャープペンシルの芯の黒い粒子。グツグツと煮えたぎる僕の腹に溜まった消化液が今にも口から飛び出そうだった。先生のその大きな目玉にシャープペンシルを突き刺してやりたかった。パン、と弾けるその玉の破片は左の悪魔の口から垂れるヨダレと混ざり合い、さわやかなソーダに浮かぶ白玉となる。その懐かしい甘さを口に含むことを想像し僕の脳に麻薬物質が放たれた。まるで高級なホテルで一流のシェフが作り上げたデザートを味わっているような快感であった。



美味しさの快楽は計り知れないですよね

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