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拝啓、狂人だった僕へ  作者: 雑魚 六二
11/11

No.11 ターニング

お久しぶりの更新

移動教室の後、耳が裂けそうなほど五月蝿い喧騒をくぐり抜けていち早く自らの教室に戻ろうと歩みを進める。ひやりとした空気が充満する廊下は少し床が結露し、他の生徒が歩いた跡がべったりこべりついていた。僕はゆっくり背後から近づいてくる男衆に追いつかれないよう、早足になる。湿った床のせいで、足を振り下ろし床を力一杯踏みしめるとキュッと音が鳴った。幼児が履く音の鳴る靴を未だに履いているかのように、体が前に進むたびにキュッキュッと音が鳴る。僕は恥ずかしく思った。早く教室に着いて仕舞えばいいと思った。胸に教科書やらノートやら、小さい筆箱やらを強く押し付けて、背骨を思い切り弓なりに曲げ前屈みになって、前進した。廊下を歩く時間が僕は恐ろしかった。あの男衆に追われているような感覚。実際に追われているのではないのだけれど、追いつかれてはいけないと焦る感覚。ジワリと出る冷や汗。力がこもる僕の両足。口を半開きにして、新鮮な空気を吸い込む吸い込む。ハァとわざとらしく息を吐いて、さらに全身を緊張させる。


ガラッと勢いよく教室のドアを開けると、そこにはすでに人が1人席に着いていた。1番後ろの、仮設の席である。電気はつけておらず、薄暗かった。今日は曇りで、雨の気配がややしていた。


「……渡辺くん?は、早いね」


僕は口を無理やり釣り上げぎこちなく笑顔を作ると、僕にしては積極的に彼に話しかけていた。


「ああ、みんなが通る廊下の逆の経路を通ってみたんだ。あそこは混みそうだった」


「へぇ、そうなんだ、頭いいねさすが…」


渡辺くんは、先週の朝他の男衆に向けていた笑顔と全く同じ表情を僕に向けた。わざとらしく目を細め、口角をあげる。すぐに会話は途絶え、暗い教室の中僕も静かに席に着いた。しばしの休息だった。お互いの呼吸の音も聞こえることなく、張り詰めている穏やかさがそこにはあった。僕はなんともう言えない落ち着きのなさを感じた一方で、少し安堵した。曇りで灰色と水色の混ざったようなパッとしない色が、窓から溢れていた。黒い影を作るのは、窓の外に申し訳ない程度に植えられた針葉樹である。パッと電気がついた時にはもう大勢が教室になだれ込み、あっという間に喧騒が幕を開ける。そこはもう落ち着きのない獣、しかも知性を持ってしまった哀れな獣達の檻で、お互いの縄張りにうまく入り込み、互いに思考を乱し乱されては離れていく。唯一その獣達の恒例行事に参加していないのは、僕と渡辺くんだけだった。僕はまだ一度しか口を交わしていないにも関わらず、図々しくも優越感を感じた。突如現れた秀才転校生と同じ行動を今僕はとっている。この教室に蔓延る獣どもには目もくれず、ただ黙々と机に向かう。奴らには目もくれず。まるで世界に僕と彼しかいないような、パラレルワールド的解離感を感じた。僕と彼だけの世界!


「よっまた分かんないとこあんの?」


僕の頭上から降ってくるその声は、僕の優越感をギリギリと引き裂き、ギリギリととぐろを巻く。僕の聖域に入り込み、傍若無人に僕の心象を引っ掻き回すこいつは、忘れもしないあの日の悪魔であった。僕を永遠に呪い罪を被せた重罪人、僕が無力な人間でなければ、一瞬でこいつは単なる肉塊と化し、無力に血みどろの泉を作り、その整合性に満ちた腐敗肉を食うらうのは僕では無く、僕よりもずっと無力で惨い蛆である。僕が人間でなければ…何故僕は人間なんだろう。自らの生命を恥じた。あの蛆達の一匹に生まれていれば気を病むことなく生命を全うできたはずであった。蛆に強姦も劣等もあるものか。こいつと会話すれば、これまで保ってきた渡辺くんとの繋がりが消え去る。というかこいつが喋りかけてきた時点ですでに僕は外野となってしまったのは明確だった。


「別に無いよ、今のところ分からないとこは」


「…ふーん」


つまらないとでも言いたげな態度で金子は言った。僕の意識はずっと渡辺くんにあった。


7時間の授業が終わりを告げ、僕は1人で図書館へと向かった。薄暗い道をただひたすら歩いた。視線は時々遠くの木やビル群の窓を捉え、まるでその小さい点に吸い寄せられるかのように歩いた。足はふらふらとしていたが、決して道を誤ることはしなかった。古い建物である駅前の図書館の薄い自動ドアの前に立つと、少しの間の後ウイーンと音を立てて開き、汚れた罪深き僕の体を飲み込もうとする。僕はそそくさとその色あせた血色のカーペットを横切ると、足音を立てないようにして自主室まで向かった。ギシ、と椅子の音が鳴った後、僕の意識は机の上の紙束に吸い寄せられ、あっという間に数時間が経った。1ページの問題量が多い問題集であったためにページ数はあまり進まなかったが、今日の数学の復習と明日の予習を済ませて合計5、6ページは進んだと思う。そのほかにも化学、物理の今日進んだ分を一通り復習し、残り時間は英語の長文を読んだ。耳にあてがったイヤフォンから仕切りに流れてくる流暢な英文を読みあげる男声は、僕の鼓動をなぞるようにして脳に入り込んでくる。時計を確認すると既に閉館時間の五分前だったので、かちゃかちゃ音を立てて筆箱にペンをしまい席を立った。


「…あれ、君は同じクラスの……」


耳に流れ込む英単語の隙間から、明らかに僕に向けて放たれるバリトンボイスの日本語が流れてきた。僕は自動ドア付近の赤いカーペットを通り過ぎようとしたが途中で足を止め、その赤い色のど真ん中に立ちすくんでいる。その声の主は相変わらず僕に向かって発声した。


「確か、琴……野、くん、だよね?」


「あ……」


僕は幸運な巡り合わせに驚きを隠せず唇を震わせる。


「そうです!琴野です!同じクラスの!この前転校してきた渡辺くんだよね?」


口から出た白い息が、埃っぽい空気の中に溶けていく。


「……どうして僕の名前知ってるんですか?」


「やだなぁタメでいいよ、今日ちょっと話したよね?あと前から俺のことよく見てるなーと思って座席表見た」


「そ、そんなに見てたっけ」


「絶対見てた!めっちゃ視線感じたもん」


彼のその一言で、僕は自分の客観性のなさを恥じることになったが、案外悪い気分ではなかった。


「…不快にさせてしまったんならごめんなさい」


「え!いや全然。不思議なやつだな〜って思ったけどw」


あはは、と唇を吊り上げて笑ったが、自動ドアに映る自分の不気味な笑顔に気付きすぐにその不気味な筋肉の動きをとめる。


「ここの図書館はよく来るの?」


「ああ近所だから。静かだし結構良いよ」


「へぇ……俺今日初めて来たんだけど、今度からここで勉強しようかな」


「うん」


僕たちは流れるように足を揃えて、夜の街を歩き始めた。時間は10:30頃だった。星も月もない真っ暗な空からは、ただ虚無が降り注ぐだけだった。


「君の学校、結構いいね」


「え?」


「いや、噂だと勉強しかしてないとか生徒による先生いびりがキツイとか聞いてたけど案外平和じゃん」


「え、そんな噂があるの?」


「あるよ。進学校、しかも偏差値75越えの男子校だぜ?性格キツい奴いんのかなーとか考えたり」


「そうなんだ……知らなかった」


「みんないい奴そうだし」


自分の耳がビクッと震えた。


「そうだね」


僕は現実世界で3度目の嘘をついた。


渡辺くんがピタリと歩みを止める。軽い足音が止み、僕の耳に入り込む音は何もなく、暗い夜空に全ての雑音が吸い込まれてしまっているようだった。コンクリの道路は街灯に照れされ白光りしている。


「本当にそう思ってる?」


「え?」


じっと僕の顔を凝視する渡辺くんの目が、ギリギリと僕の意識を奪っていった。彼の曲がりくねる黒髪は風に吹かれて全て後ろに持っていかれていた。ざわりと近くの林の葉が音を立てて、鳥たちが嘴をぎゅっと結び飛び立っていく。鋭く切れた目尻からは今にも血が出そうなくらいつり上がっていた。口元や頬は相変わらず優しそうな笑みをたたえているが、光の一筋も入ることを許さない真っ黒の瞳が僕を睨んでいる。


「本当に、みんないい奴だって思ってる?」


僕はツバを飲んだ。血管の音が間近にあった。


「……なんで?」


勇気を振り絞っての発声も、彼の漆黒の瞳と漆黒の夜空に吸収されてしまった。僕の耳には、か細い震えに混じった、悲鳴のような音しか届かなかった。それが自分の声だと理解するのに、数秒を要した。


「なんでって、そりゃあ、嘘っぽいな〜って」


「そっか」


俯いて気道を押しつぶしていたため僕の返事は鈍い唸りにしかならなかったが、彼にはきちんと伝わっているようだった。冬なのに、顔がやたらと火照って汗が止まらない。


「どうしたの?具合悪い?」


「い、いや……」


「それとも俺に見破られて焦ってる?」


心拍数が跳ね上がり、頭の中がガンガンと鳴った。トンカチで頭蓋骨に釘を打ち込まれているみたいだった。無意識に目の下の筋肉が引きつる。


「面白いね、琴野くん、君みたいな奴初めてだ。そんなに焦らなくても良いよ誰にも言わないし。っていうか普通言い訳とか言わない?めっちゃ饒舌になったりさ。そんな顔すんなよ」


「ごめん……」


「いや謝罪の意味わからんw

みんなつくっしょ愛想混じりの嘘くらい。逆にそんな焦んなくても笑っとけばなんとかなるくない?」


「そうだね…あんまり上手くなくて」


「君、めっちゃ自分のこと隠して生きてるでしょ。そんな感じする」


「うーん……」


「俺勘良いからなんとなくわかるんだよね」


「へぇ…」


鼓膜がペコペコと膨らんでは萎む。


「もしかして、何かとても重要なことを隠してるとか、ない?」


「え」


「重要なことだよ、わかんない?」


「ごめんわかんない……」


「そっかそっか、耳貸して」


耳に触れた彼の乾いた唇が、カサカサと揺れた。


「ま、まさか、そんなことあるわけない!」


「はははは君みたいな奴ほど意外にあるんだよ」


「僕は絶対にない。絶対」


「どうかな〜」


「絶対!」


僕らの足音だけが街に響いていた。街灯がチカチカとなる音も今や遥か遠くで、辺りは住宅街に差し掛かる。背後に何やら僕ら2人以外の気配がした。ただの歩行者だろうと思った。ざっざっと、不気味な足音がついてくる。


「初めて話したのに、なんか緊張しない」


「いつもは緊張するの?」


「うん」


「きっとそれは俺の勘が良かったからだ」


「そうかな」


「でなければずっとあの作り笑いしてただろ」


「そうかも」


「そうだよ」


「じゃ、俺んちここ曲がったとこだから」


「う、うん、僕は駅までもうちょっと歩く」


「そっか。気をつけて」


「ありがとう」


真っ直ぐに彼の目を見た。暗いから、彼の黒い瞳とうねる黒髪が背景と同化していた。そこに彼がいるのかいないのか、少し目を離すと分からなくなってしまいそううだった。


「……なあ」


「なに?」


「はじめましてで琴野くんの弱点を知ったところだし、俺の秘密も教えてあげるよ」


強風が吹き、何もなくただ暗黒が広がるだけだった空に灰色の雲がかかり始めた。轟々と屋根をなぞっていく空気の塊が、僕のシャツの裾をバタバタと震わせる。


「ねぇ、後ろを向いて。そのまま駅まで向かって。真っ直ぐ。」


「わ、分かった。じゃあね」


僕は振り返ると、しっかりとした足取りで歩き始めた。後ろの不気味な足音はまだしている。


ざっざっざっざ


風はまだ吹き止まない。


ざっざっざっざ


コンクリートと砂利が擦れ合う音だ。


ざっ……


カラン、と、乾いた音がした。


「琴野くーん!!おーい!!!」


後ろから大声で僕を呼ぶ声はやけに弾んでいた。


「見てよこれ!!アリクイみたいな顔してんの!!」


僕は、ゆっくりと振り返る。


「ハァッ!ハァッ!琴野!!」


高揚した息遣いが、静かな住宅街に響いた。周りの家には誰一人として人がいる気配はなく、電気がついている家は一つもなかった。そして僕の目に飛び込むその光景は、極めて不思議なものだった。


「なあ!!」


無邪気な笑顔で喉笛を高らかに鳴らす青年の足元に転がる肉塊。血のついたナイフ。街灯のわずかな光に照らされ光る真っ赤な絵の具を零したような両の手。その全てが、まるで僕の幻想のように脳裏にこべりついて、僕の脳内に柔らかな快楽物質の分泌を促す。僕は吐き出した白い息を纏い、その初めての風景について考えた。


「……渡辺くん!」


肺に満ちる清らかな空気が、僕の血液に新鮮な酸素を供給し、素晴らしい人生の開幕を祝う。


「僕も手伝うよ…」


ハァと息を吐くのと同時に、自然と言葉が出た。そしてすぐに進行方向を変えた。僕の足音は、重く固い意志が擦れるような音だった。だが、案外悪くはない音だなとも思った。

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