No.1. 雁字搦めの人間
BLを書きたかったんですが、なんだかBLとは程遠い話になりそうなのでホラーにしてみました。
人は皆貪欲である。
難しい方程式やら証明やら頭の良いお偉いさんがこねくり回した文章など初めから不必要なほど分かりきった事実である。人類が生まれ落ちてまず犯した罪が欲である。某有名な初代人類様は食うなと言われた林檎を食べた。食欲、探究心、知りたいと望むことも、知見を求める欲である。認められたい、褒められたい、優遇されたい、お金が、美しさが、あの人が欲しい。一瞬でも何かしら願ったことのない人なんてほぼ皆無だろう。僕は人より少しだけ早く、得たいものを得るという快楽を味わってしまった哀れな男である。どうかこの哀れな男の吐瀉物ともいうべき独白を慈悲を持った眼差しで持って受け入れて欲しい。あれは僕は高等学校の頃だった。
五月蝿い鐘が今日もまた鳴っている。スピーカーから流れ出る薄っぺらい鐘の音が、ノートを映す視界を邪魔するように脳裏にこべりついた。僕は、懸命に意識を視界に注目させ集中を試みる。
堅いフォントで書かれた数学の問題を睨め付けるように読み、(その間ほんの4秒にも満たないが)急いで頭の裏をぐるぐると回転させる。しかし僕が対峙するソレは予想していた難易度よりもかなり簡単なモノであったので、僕はほんの数行ノートに文字と数字を羅列させると、ザッと音を立てるように赤いボールペンで円を描きノートを閉じた。
「おい琴野、今の問題解けた?」
馴れ馴れしく話しかけてくるこいつは出席番号で隣になっただけのしがない隣人、友人ではない。
「うーん、あんまり…」
僕は当たり障りのない口調で言った。本当は解けている。が、敢えてである。解けない方がおかしいのではないか、発展問題として教科書にも載っていたし先生の解説を聞いていれば難なく解けるはずだ。頭の中で悪態を吐く。僕はこの男を見下していた。常に声がでかく図々しい振る舞い。出会ってすぐに僕とコミュニケーションを取ろうとしてきたこいつは、やたらと僕に話しかけてくる。僕があからさまに興味のない体裁を保っているのにも関わらずだ。正直言って、こいつと喋るのは苦痛だった。お互いに波長が違うというか、興味のある話題も喋るテンポも間もことごとく逆である。僕がこいつのテンポに合わせるのにどれだけの労力を費やしたか分からなかった。まあ、自分で言うのもなんだが、静かに落ち着いて生活したい僕とは真逆だった。所謂、陽キャ、というやつである。
「だよなーwでもまぁ俺は解けたけど?」
チッ。僕は予習してきたんだぞ。お前が簡単に解けるはずがないじゃないか。授業の数分の間に衝動的に解いた乱雑な自分のノートと、隣の席の上に乗った簡潔かつ美しい数式の羅列を見比べる。僕はくらりと目眩がした。脳に血液がうまく循環していないらしく、肩にのしかかる錘のようなものが僕を地中へと押し込もうとしている。
胸部から上が、鬱血したように苦しかった。まるで水槽の中に入れられ窒息寸前で、しかも首筋から長い針が刺され動脈に塩酸が注入された感じがした。脳漿で弾ける古い塩酸の泡がパチパチと弾けては僕の脳を形成する筋肉をドロドロに溶かしていく。その苦しみは脳を破壊するが記憶は破壊せず、刺青のごとくその死神の囁きに近い「俺は解けた」の5文字を脳裏に刻み込む。
「へ、へぇ、頭いいんだね」
頭いいんだね、の6文字が僕の閉め切った喉から絞り出されたとき、僕は強く敗北を感じた。どうしようもない敗北。全人類が僕よりも優れていて、もっとも劣っているのが僕であるという錯覚。理性を保っている僕はその錯覚を錯覚であると認識できたが、一方で野生的な僕はドリームボックスに入れられた野良犬の如くのたれ苦しんだ。勿論空想世界の中でだが。それは拭いようのない錯覚で、僕はその妄想に囚われて自らのクビに麻縄の感触を感じるまでに発展した。頬の肉が引きつっているのが分かった。今までのこの無礼な男に対する苛立ちが嘘のように、恐怖へと変貌していき、そしてそのどす黒い恐怖は、途方も無い不安へと変わっていった。
「で?琴野はどこまで解けたの?教えてやるよ」
「あーうんありがとう、ちょっとトイレ」
僕はそのどす黒い船の錨のような不安を胸にぶら下げながら、懸命に席を立った。その教室にいた生徒の全員が、僕の去りゆく背中を非難するような目で見てはいないかという妄想が忽ち巻き起こり、ずっと背中の表皮は緊張していた。
死にものぐるいで(見た目は至って平然を保っていたが)トイレに到着し、ガチャンと勢いよく戸を閉めると、僕は下唇を思い切り噛んで乱れた心情を落ち付けようと努めた。幸運にもトイレには誰もおらず、ガランとした空間が僕のやせ細った体を飲みこむ。トイレの個室はまるで僕を待ち受けていたかのようにポッカリと口を開け、暗い闇が渦巻いていた。その闇が思った以上に心地よく、トイレのあまり清潔ではない匂いも、敗北者であった僕にとっては非常に居心地のよい空間を作る手助けになっていたように思う。まるで憎々しい胎児に戻ったように、僕は個室の中でうずくまった。だから教室にはいたくないんだ。あいつらは僕のわずかな自尊心と自信を嗅ぎつけ、嘲笑い、ぐちゃぐちゃに引きちぎっていくのだ。そして滴る僕の血を舐めては自らの自尊心を高めていく。僕はハイエナのような人間が大嫌いだ。まあ僕もその1人なのだけれど。僕はしばらくその場で妄想に囚われた。愛すべき人々の幸福、僕自身の幸福、神への冒涜をこれまでも何百回と妄想してその場をやり過ごす。次第にさっきまでの鬱々とした気が紛れてきたら、再び戦場とも呼べるであろう教室に戻って行くのだ。こんなことをしていたら僕の寿命はおそらくあと10年くらいだろう。僕はふと気がついて、ズボンのポケットに入っていたスマホに手を伸ばす。そして、白い鳥のマークが目印の某スマホアプリを起動した。
そういえば皆さんは知っているだろうか、今僕が夢中になっているこのアプリ内での一大ムーブメント、「ミコトさん界隈」というのを。ミコトさんというのは、今期のアニメで最も注目を浴びたと言っても過言ではない作品である「オーシャンズネモ」の作中に登場するキャラクターの1人である。その作品は笑いあり涙あり、作画もテンポも素晴らしく、OPを知らない人はいないというほどのビッグジャンルに駆け上がった奇特の1作で、勉強熱心でテレビを殆ど見ない僕も、全てではないが見たことがあった。そして、「ミコトさん」は可愛くおっちょこちょいだが自信有り気な語り口調で、語尾に「〜だりん!」をつけるという特徴のある子だ。僕も、最推しではないが好きなキャラの部類に入る。
では、「ミコトさん界隈」がどういうものかを説明していきたい。ネット史に残る大ムーブメントになるのではないかと僕は思っているのだが、はじめは小さなものだった。ある1人のユーザーが、「幸福なミコトさん」という名前で、「〜だりん!」という口調を真似して日常を投稿しはじめたのがきっかけである。しだいに「〜なミコトさん」というアカウントが増えていき、その「ミコトさん人口は3000人を突破、今現在も増え続けているという現象だ。ミコトさん同士は仲良く交流するも良し、議論するも良し、日常のことを垂れ流すのも良し、極めて自由ではあったものの一定のルールとも呼べる暗黙の了解があり「語尾にリンをつける」「出会い系はしない」「誹謗中傷はしない」などは割と守られていたように思う。次第に人口が増えるとともに彼らの投稿にも傾向があることが分かってきて、「病み垢ではないものの、日々の愚痴や思いを書き、それを励まし合う」ものが多く見受けられた。僕がこの界隈に目をつけたのは、こういう励まし合いの文化がある治安の良い界隈だと思ったからだ。僕はすでに沢山の「ミコトさん」がいる中、1週間ほど前に「コミュ障インキャのミコトさん」という名前で活動を始めていた。
プロフィールはこうである。
「コミュ障でインキャなミコトさんだりん!毎日ネグレクト気味な母とDV男で蒸発した父の尻拭いをしながら高校に通っているメスのミコトさんだりん!人生つらたんだりん〜!」
初めてこの文を読んだ一般市民の皆さんはきっと、ゲッと思うだろう。でも勘違いしないでほしいのは、僕だけがこういうプロフィールなのではなく、似たような内容のプロフィールがごまんと存在するのだ。こんな感じの、普通では堂々と言えないような個人の問題を書くことができ、それが受け入れられる環境なのである。一種のキチガイ集団と呼ばれてもおかしくはない。が、僕はこの異様な界隈を好ましく思っていた。なぜなら、ここならいくら嘘方便で自分を固めても気づかれず、しかも場合によっては慰めてもらえるのである。プロフィールに書かれていた、「ネグレクト気味の母親」「メス」は嘘だった。所謂ネカマ、かまちょをしても気づかれるどころか、人を憐れみ憐れまれたい者たちの中で、傷を舐め合うことができるのは最高ではないか。ここは、僕の楽園だった。
勢いよく指を動かし、文字を入力していく。
「うわーん!友達に馬鹿にされたりんー!!私の頭が悪いのがいけないんだりん……もう嫌だりん……」
即座に投稿。
数分後、何度も更新してチェックしていた通知のところに「①」と表示される。一件の通知を急いで開封すると、「借金が1000万あるミコトさん@療養中さんがいいねしました」と示された。僕は、ホッと息を吐いた。やっと体の力が抜けて、踏みしめていた足が砕けるように座り込む。普段は潔癖のため決して床に腰を下ろすことをしなかった僕が、トイレに、腰を下ろした。そんなことどうでもいいくらい、借金トさんの1いいねが嬉しかった。そのいいねが、僕の心の苦しみを全て理解してくれているような気がした。そして言いようもない万能感、自分が大勢いるミコトさんの1人、一員であることによる幸福感を感じた。数分前の苦しみなんぞ、はるか昔のことのような錯覚に陥っていた。ああ、何と素晴らしい界隈だろうか!因みに「借金トさん」とは「借金が1000万あるミコトさん」の略称である。言い忘れていたが、名前が長いミコトさんは名前が略され、僕は「コミュトさん」となるのだ(コミュ障インキャのミコトさんだから)。僕は落ち着きを取り戻した精神を何とか現実世界に引き戻すと、静かに立ち上がり、教室に戻った。
続きます