楽浄奏の秘め事
土曜日。
天音響は勉強することにした。
夢魔という生き物についてだ。
苦学生の天音響はパソコンを持っていない。スマホも一人暮らしを始めると同時に、電話とメッセージアプリのみ使える格安プランに乗り換えた。
Wi-Fiさえあればウェブサイトの閲覧は可能だが、ちょうど一か月前に画面がバキバキに割れてしまった天音響のスマホは、ウェブサイトの閲覧に適していない。
そんな高難易度縛りプレイのような状態の天音響にも、図書館はその門戸を開いてくれる癒しの空間だった。
カウンターでタブレットをレンタルすれば、ウェブサイトも閲覧できる。
天音響はさっそく夢魔について検索し、やたらと出てくる女性の裸体画像にひとしきり慌てつつも、なんとか目的の情報を見つけ出す事ができた。
夢魔――性的な夢を見せる悪魔。
男性型の夢魔をインキュバスといい、女性型の夢魔をサキュバスという。
異性にとって理想的な姿で現れ、その誘惑にはあらがえない。
サキュバスとインキュバスは同一の存在であり、女の姿で男の精液を搾り取り、集めた精液で女を妊娠させるという説もある。
「聞いた話とだいぶ違うな……」
「よくあることだよ、天音君。物語には常にアレンジが加わるものだからね」
「はっ……! 楽浄さん!?」
天音響は慌ててタブレット画面を閉じた。
振り向くと、学校では決して見られないパンツスタイルの楽浄奏が、本を小脇に抱えて天音響のすぐ背後に立っていた。
「人の作業を後ろから盗み見るとは、感心しないな楽浄さん……!」
「見てないよ。天音君の独り言を聞いただけ」
「なんだそうか……早とちりしてすまなかっ」
「夢魔のこと調べてるの?」
「感心しないな楽浄さん!!」
思わず大きな声を出してしまい、周りからの鋭い視線が天音響に突き刺さる。
「学習室に移動する?」
「いい考えだよ楽浄さん」
※
書架
↓
学習室
※
休日にも関わらず、学習室は無人だった。
「じゃじゃーん」
天音響が学習室に腰を据えるなり、楽浄奏は突然口で効果音をつけながら、小脇に抱えていた本を差し出す。
神話や宗教関連の本だ。
「これは?」
「ネットの情報網は凄いけど、ネットに書いてある情報の一次資料は紙媒体であることが多いんだよ、天音君。ネットの情報にも参考文献が表記されている場合があるから、より深い知識が欲しかったらネットより紙が強い――と、私は思う」
「そしてこれが、楽浄さんのおすすめ資料……ということだね、楽浄さん」
「私、ちょっと夢魔には詳しいよ」
「なんで楽浄さんが?」
楽浄奏はさっと顔を赤らめる。
「……秘密」
デジャヴュ。すなわち覚えのあるやり取り。
そうか、楽浄奏にも秘密はあるのだと、天音響は思い出した。
「天音君こそ、どうして夢魔のことなんて調べてるの?」
天音響はさっと顔を赤らめる。
「……秘密」
「マネしないで天音君」
「悪かったよ楽浄さん」
とはいえ、天音響にだって秘密はあるのだ。
楽浄奏は、天音響が夢魔について調べる理由を答える気がないと知るや、ふいと興味をなくしたように天音響に背を向けた。
「ごめん、怒った?」
「ううん。でも長居すると詮索しそうだから。秘密は暴きたくなるけれど、私の秘密も暴かれたくないから」
けれど、天音響はもう少し、楽浄奏と話がしたい。
「楽浄奏さんは、図書館によく来るの?」
思わず、質問で引き留めてしまった。
高校二年の春に同じクラスになった二人は、夏になったばかりの今、学校外でのお互いをよく知らない。
しかし詮索を拒否しておきながら、詮索するような質問をしてしまったことに、天音響はいささかの居心地の悪さを覚える。
楽浄奏は天音響に背を向けたまま答えた。
「来るよ。青空文庫もいいけど、やっぱり紙の本が好きだから」
「分かるよ。紙とインクの匂いって落ち着く気がする」
「天音君は本を読む派?」
「映画の原作小説なら」
楽浄奏は半分だけ天音響に向き直る。
「『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』」
SF小説のタイトルだ。
天音響は即座に答えた。
「『ブレードランナー』」
前述のSF小説を原作とした映画のタイトルだ。
楽浄奏はまた、少し天音響に向き直る。
「『魔法使いハウルと火の悪魔』」
「『ハウルの動く城』」
「『火星の人』」
「『オデッセイ』」
楽浄奏は完全に、天音響に振り向いた。
その表情には柔らかな笑みがある。
「読んでるんだね、天音君」
「読んでるんだよ、楽浄さん」
知ったかぶりではないことをアピールできて、天音響は少しだけ鼻が高くなる。
「天音君は映画好きなんだね」
「新作を見に行くお金がないから、旧作ばっかりだけどね。……そういえば、インキュバスやサキュバスに触れている映画って見た事ないな」
「ないわけじゃないけど、少ないね。映倫的な意味で」
「そうか……! 俺達はまだ十六歳……! エログロスプラッター映画は禁断の領域!」
「その割に、テレビで流れてくるけどね。ホラー」
「禁じておきながら放映する……! これぞダブルスタンダード……!」
「そして寛容のパラドクス」
二人は頷きあった。
「まあ、地上波放送はきわどいシーンをカットしてたりするけどね」
楽浄奏の言葉に、天音響は頷く。
「あれは本当にどうかと思うんだよね……時々意味が分からない感じになってるし」
「天音君、深夜アニメみたことある?」
「ないけど」
「今度見てみて。すごいから。光が」
光とは? と天音響は顔中を疑問符にしたが、楽浄奏は答えない。
楽浄奏はふと図書館の時計を見上げ、「それじゃあ」と会話を切り上げる。
「また月曜日にね、天音君」
「え、もう帰るの?」
「うん、ちょっと買い物。――付き合う? 下着屋だけど」
「やめておくよ楽浄さん」
天音響はそっと申し出を辞した。
「楽浄さんと話してると、いつも時間があっという間だな。話し終わったあとは、なんだか賢くなった気がするし」
天音響がそう言うと、楽浄奏はふと微笑む。
「一人で会話はできないんだよ、天音君」
「うん? そりゃ会話だしね」
言うだけ言って、楽浄奏は学習室を出て行った。