天音響の契約
天音響は今、蜜夢レンサマーライブの関係者席に座っていた。
右に社長、左にやたらと熱視線を送ってくる妖艶な女、前方の幼女は完全に天音響に振り向いた状態で舌なめずりをしている。
後方からは吐息を感じるが、恐怖で振り向くことができない。
「み、蜜夢社長……これは……一体……」
「目の前に超うまそうなフルコースがあったら、君だって見るし臭いはかぐだろう?」
「つまりこの人たち、皆、おおお、俺がどんな夢見てるか……?」
「無論わかってる」
「すみません急用を思い出しました」
「――ふうん? じゃあ私の車で帰るかい?」
天音響がすっくと立ちあがると、同時に立ち上がった隣の妖艶美女が蛇のように腕を伸ばし、天音響の頭に自分の胸に押し付けた。
「最高の夢を見せてやろう。二度と目を覚ませなくなるくらい」
「や、やめてください……! セクハラ、セクハラですよ……!」
天音響は猛獣の檻に放り込まれた生肉の気分で、妖艶美女から必死に距離を取る。
すると社長が立ち上がり、天音響と自分の席を無言で交換してくれた。優しさと言うよりは、娘の獲物を横取りされないようにという思惑だろう。ともかく助かった。
ほっとしたところで、照明の色が変わる。
スモークが客席をおおい、色とりどりのレーザーが踊り狂う。
すべての色がステージに集約し、音楽が流れだす。
大歓声が、ステージに登場した蜜夢レンを包んでいた。
人気は男七割の、女三割といったところか。
女性ファンの露出度も高めだが、みな自分の体をさらけ出すことを楽しんでいるように見える。それとは逆に、肌を出すことに抵抗を持っていることが一目で分かる女性ファンの姿も目に付いた。
ファンの年齢層もバラバラで、半数以上は十代から二十代だが、五十代や六十代と思しき顔もちらほらと目につく。
共通点があるとすれば、誰もが心からステージを楽しみにしているということだ。
露出している女の横に立つ男も、蜜夢レンしか見ていない。
そこには不思議な安心感があった。
天音響の目も、自然とステージ上の蜜夢レンに引き寄せられる。
♪――おしとやかにしなさいなんて、息苦しいよね? 勝手でしょ
自由にしてて痛いめみたら、ボクのせいなの? 違うでしょ
リアルでやったらお仕置きされちゃう いけないこといっぱいしよう
だって夢だったらいいんでしょ
だから会いに行くよ今夜キミに リアルじゃ見せられないボクを
待っててねきっとキミをボクのとりこにさせるから
ってゆか、そしたらキミからボクに会いにきて♡
「……かわいい」
素直な感想だった。
ステージの蜜夢レンの衣装は、相変わらずきわどく、公序良俗を害する勢いだ。
けれどステージで踊っている彼女を見ると、あの格好の何がいけないのか分からなくなってくる。
ふと、天音響は楽浄奏との会話を思い出した。
――どうして見たくないんだろうね、天音君は。
あ、と思う。
見たくないわけでは、ない。
ただ、罪悪感があるのだ。
女性の体をじろじろ見るのは悪い事だと、小さいころから言われてきた。女性に限らず、他人の体を無遠慮に凝視していいはずがない。
そんな常識が大前提として存在するのに、薄着で目の前を歩かれて、目のやり場に困って居心地の悪い思いをするのが嫌だったのだ。
まるで、自分が悪いことをしているような気分になる。
偶然目にした女性の体で興奮してしまったら――それはほとんど自動的な現象なのに、とてつもない罪悪感に襲われる。
それが嫌で、煽情的なよそおいを暴力のように感じて――。
けれどアイドルとは――蜜夢レンとは、見る事を許された存在の最たる例だ。こんなに美しくて、可愛くて、輝いている存在を、無遠慮に見続けることを許されている。
付き合えもしないのに――と、アイドルに熱を上げる者を見下す言葉がある。
むしろ逆だ。
付き合えないからこそいいのだ。
手が届かない世界――それは映画と同じような、スクリーンの向こう側の世界だ。
ステージという壁を一枚隔てた向こう側に存在する、決して相互に傷つけあうことのない偶像。
アイドルは裏でつらい思いをしているのではないかと、天音響はいつも疑っていた。きっとそういうアイドルもいるのだろう。
けれど蜜夢レンは違う。
自分が生きるために、自分のために、自分のやりたいようにやっている。
好きになっていいのだ、と思った。
好きになって、応援して、彼女を夢に見ることで、彼女の力になれるのだ。
アイドルは夢なのだ。
その日、蜜夢レンは二十曲を歌いあげ、大歓声に見送られてステージを去っていった。――と思ったら慌てた容姿でステージに駆け戻り、言い残す。
「今日配った限定アイテム! みんなもらったよね? これ、とーっても大事なものだから、いざ! って時に困らないように、絶対絶対カバンに入れといてよね!」
日中、天音響も配られた小箱の事である。
その中身を思い出すと、やはりまだ少し落ち着かない気分になる。
「女の子もだからね! もし恥ずかしかったら〝イベントで配られちゃって、そのまま出すの忘れてたのー〟って言い訳にも使えるからさ! 注意書きと使い方もチェックしてね! じゃあ、今夜夢でね!」
歓声はその後しばらくやまなかった。
ライブ終了のアナウンスが流れても、ふわふわとするような非現実的は消えず、はっと気が付くと、夢魔に関する話を聞かされたホテルの一室に戻っていた。
※
ライブ会場
↓
ホテルの一室
※
「はへ!? あ、あれ!? 俺、さっきまでライブ会場に……!?」
天音響は戸惑った。
ここまで移動してきた記憶がない。
「ま、また俺に催眠術を……!?」
天音響は社長を睨んだ。
しかし社長はSNSでライブの反応をチェックしながら、
「私は何もしとらんよ。ライブ後にどうやって家に帰ったか思い出せないなんて、よくあることだ心配ない」
とにべもない。
「そ……そういうものですか……」
あまりにも〝かわいい〟が詰まったステージだった。まるであらゆる自由が許された夢の国だ。エロをテーマにしているはずなのに、童心にかえった気すらする。
そんな天音響の顔に、さっと影が落ちた。
誰かが正面に立ったのだ。
顔を上げると、天音響より少し高い位置に蜜夢レンの顔がある。ちらと足元を見ると、二十センチに届きそうなすさまじい厚底のハイヒールだ。
「どうだった? ボクのライブ。気持ちよかった?」
「表現がいやらしい!」
思わず突っ込む。
けれども。
「けど……感動しました。アイドルのライブって初めて見ましたけど……またライブにいきたいって思いました」
「ほんと!? ありがとう! すっごくうれしい!」
えへへ、と蜜夢レンは子供のように笑う。
天音響もなにやら無駄に照れ臭く、意味もなく首の後ろを撫でたりする。
そんな天音響の眼前に、社長がずいと契約書を突き付けた。
「じゃ、契約を」
「あ、しません」
天音響はきっぱりと断った。社長は心臓に杭を打ち込まれたような衝撃で後退する。
「なぜだ! こんなに可愛いレンが嫌いか!?」
「ではなくて!」
天音響は、少し悲しそうな蜜夢レンに向き直る。
「ゆ……夢に会いに来てください! 俺はきっと、今夜レンさんの夢を見る」
「天音君……?」
「お金で雇われなくても、俺がレンさんの夢を見たら、レンさんの栄養になるんですよね?」
「それは……そうだけど……」
「今日、ステージを見て……純粋なファンでいたいって思ったんです。ステージの上のレンさんがその……夢みたいだって思ったから……」
「信じてはいかんぞレン! そんなこと言って、彼女が出来たらその女の夢ばかり見るに決まっている! おかずはちゃんと囲って確保しておかねば……!」
「パパは黙ってて!」
「そうですよ通報しますよ」
二人で社長を撃退し、天音響と蜜夢レンはお互いに見つめあう。
蜜夢レンはにっこりと笑った。アイドルの笑顔で。
「ありがとう天音君。今夜、きっと会いに行くからね」
「はい!」
天音響は蜜夢レンと、固く握手を交わした。
美しい青春の一ページのようではあるが、天音響は「今夜あなたの性夢を見ます」と宣言したに等しいことに、まだ気づいていない。
帰り際、しつこく引き留めようとする社長から仕方なく名刺だけを受け取って、天音響は非日常から離脱した。
※
高級ホテル
↓
帰り道
※
「気が変わるかもしれないから、記憶はまだ残しておく……って。やっぱり記憶を消す力とかない、ただの詐欺なんじゃないか?」
夜。
すっかり人通りのなくなった道を、通学鞄を手に一人歩く。
天音響のアパートは、駅から徒歩二十分の立地にある。自転車は先日切断されたチェーンを残して盗まれて以来、買いなおす事ができていない。
――契約、しておくべきだっただろうか。
少なくともこんな生活からは抜け出せた。いやしかし、アイドルと同居生活などやはりおいそれと受け入れられない。
クラスメイトにばれたらどうなる?
あの蜜夢レンと同居しているなど知られたら、天音響の真面目なイメージは崩壊し、性欲魔王扱い間違いなしだ。
天音響はため息を吐く。
ふと、気配を感じた。
立ち止まって振り返る。闇の中に人影があった。
ぎくりとする。見覚えのある顔だった――確か、蜜夢レンのライブで関係者席にいた。
ならばあれはサキュバスか。
はっとしてさらに振り向くと、よだれを垂らして蜜夢レンを凝視していた少女が、むくつけき大男を従えて立っている。アレは無理だ。絶対にすり抜けられない。
では熟女の横をすり抜けて……と思った瞬間、巨大な――蜜夢レンよりはるかに巨大で禍々しい羽が広がり、天音響の進路をふさいだ。
前門の熟女。
後門のロリ。
天音響は唐突に気が付いた。
社長の言う通り、自分がフルコース的存在だとするなら、ほかのサキュバスたちも自分と契約したがるのではないか。
例えば夜道で後をつけ、住居を突き止めて夢枕に立とうとするのではないのかと。
それに失敗したとあれば、社長のように拉致して無理やり契約に持ち込もうとするのではないのかと。
天音響は戦慄し、すぐさま名刺の番号に電話をかけた。
『やあ、天音君か。思ったより早かったじゃないか。どうだね、もう襲われたかね? 気を付けたまえよぉ? 私のような穏健派の夢魔ばかりではないからね』
「あなたこうなる事分かってて俺のこと帰しましたね!? この詐欺師! 悪魔!」
『電話きっていいかい?』
「いやぁああ助けてーーー!!」
叫ぶと、車のライトが天音響を照らした。
進路をふさぐ熟女を押しのけるように、ピンクのスポーツカーが突っ込んでくる。
後部座席のドアが勢いよく開いて、蜜夢レンが身を乗り出した。
「乗って、天音君!」
「は、はい!」
天音響は後部座席に――蜜夢レンの胸に飛び込んだ。
ハリウッド俳優のような顔をした社長が『ワイルドスピード』ばりの運転で薄暗い路地を疾走し、あっという間に大通りに飛び出す。
そのまま、天音響は蜜夢レンのマンションへ連行され、その夜のうちに「ほかの夢魔から守る」という一文を加えた契約書にサインした。