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天音響の恐慌

 天音響が連れてこられたのは、都内の高級ホテルの最上階だった。


 テラスに専用のプールまでも用意されているデラックスさで、エグゼクティブスイートという言葉の象徴のような客室だ。

 そんなプールで誰かが泳ぐ水の音で、天音響ははっと意識を取り戻した。


 そう、気を失っていたのだ。おそらくは。


 不思議なこともあるもので、車内に押し込まれてからここに至るまで、天音響にははっきりとした記憶がない。

 車に押し込まれた――と思った次の瞬間には、もうここに立っていたという感じだ。

 だが、誰かに拘束(こうそく)されていた様子はなく、自分の足で歩いてここまで来たのだという自覚だけはきちんとある。


 魔法にでもかけられたような気分だと思った。

 むろん、魔法など存在するはずもないのだが。


「おーい、レン! 頑張る愛娘に、パパからのプレゼントだ!」

「……まさかとは思いますけど、プレゼントって俺の事じゃないでしょうね?」

「無論君のことだ」

「人権侵害も(はなは)だしい! これは犯罪行為ですよ! 拉致行為ですよ!」

「そんな堅苦しいことを言うなよ。いい思いさせてやるから」

「頼んでないし求めてない! こんなところにいられるか! 俺は帰らせてもらいます!」


 天音響が死亡フラグの代名詞のようなセリフとともにくるりと踵を返すと、社長はそれを逃がすまいと天音響に取りすがった。


「そう言わず! 一目娘に会ってくれたまえよ! かわいい子なんだ、いい娘なんだ! 君が毎晩見る夢を、私の娘に捧げておくれよ!」

「夢の話をしないでください! っていうか、なんですか夢を捧げるって! 意味が分からないし、俺は夢なんか見てません!」

「夢に関する事柄で、我々に嘘をつこうとしても無駄だぞ。密閉していない弁当箱のからあげのように匂うからな」

「メンタリズムか何かですか? 詐欺のにおいしかしない!」

「いやいや、これはもっと直接的な夢魔としての能力で――」


 その時だ。


「パパ!? また男の子をさらってきたの!?」


 突然、水着姿の少女がテラスから部屋に飛び込んできた。

 プールで泳いでいたのはこの子だったのだろう。

 その姿が網膜を通って脳へと到達した瞬間、天音響はあまりのことに、すべての語彙を失って叫んだ。


「――蜜夢レン!?」


 年齢は天音響と同じ程度か、少し上か―――太陽よりも眩しい水着姿だった。

 ビーチですら着用したら通報されかねない布面積だというのに、引き締まった腹筋と芸術的な胸のふくらみのおかげか、いやらしさよりも健康的な美しさの方が際立って感じられる。


 天音響の目は、その体にくぎ付けだった。

 とても目を逸らすことができない魔力が、彼女の体には宿っていた。


 気にならない。


 尾てい骨からすらりと伸びる、黒い尻尾も。

 腰のあたりから左右に広がる、コウモリのような飛膜も。

 宝石のような水滴を滴らせるショートヘアから突き出した、ねじれた角も。

 まるで最初からそういう生物であったかのように、わずかな違和感も抱かせない。衣装としての完成度が限界値を突破している。


「あ……! そうか娘って……娘ってこういう……!?」

「私に娘はレン一人なのでね」


 蜜夢レンは天音響にズカズカと歩み寄ると、社長によって半ば拘束されているその体を、力づくで奪い取った。

 社長はいともたやすく天音響を解放し、その身柄は蜜夢レンに譲渡される。

 天音響はますます慌てた。

 社長によるものよりはるかにあまい拘束だが、精神的にはこちらのほうがはるかにきつい。


「ちょ、ちょちょちょ……! ちょっと待っ、まっ……! む、胸が、がが、あた、あ、当たって……!」

「かわいそうに、こんなにおびえて……! ごめんね、ボクのパパって昔気質で強引なんだ。いつも無理矢理はダメって言ってるんだけど、〝ちょっと乱暴なくらいがいいんだ〟とか言い出して……大丈夫? 変な催眠術とかかけられてない?」

「だ、大丈夫! 大丈夫ですから、は、放して……!」


 振り払おうにも、相手はほとんど全裸みたいな水着姿だ。

 どこに触れても、そこは素肌。柔肌。もち肌だ。

 指の先が埋まりそうな肉感の、だがはじき返さんばかりの弾力の。


 天音響は息を止めた。

 この香りを吸い込むことすら犯罪のような気がしたからだ。


 だが、蜜夢レン自らの手によって、乳房の間に埋没させられているおのが頭部だけはどうにもならない。どうにもできない。

 ふっくらとした二つの脂肪に挟まれて、天音響はただただ硬直し、解放してくれとか弱く懇願するばかりだ。


「あ、ごめん! 息苦しかった?」


 蜜夢レンは、息を止めたまま固まっている天音響の体を解放すると、すぐさまその具合を確かめるようにぐいと顔を近づけてきた。

 このパーソナルスペースをまるで無視した距離感――なるほど血のつながりを感じる。

 そしてやはり顔がいい。人間離れして整っている。


 蜜夢レンは真剣に天音響の目を見つめると、ふと安堵したように微笑み、天音響のずれたメガネをかけなおしてくれた。


「うん、大丈夫そうだね」

「大丈夫に決まってるだろう? せっかくの獲物の生命力を落とすようなへまを、この私がするものかね」

「人を獲物って言わないで! もう、ほんとパパって時代錯誤……!」


 蜜夢レンはかわいらしく頬を膨らませ、ぷんすかと社長をなじった。

 その動きに会わせて尻尾は揺れ、羽が大きく左右に開かれる。


 ――どうやってくっついてるんだ? これ。


 天音響は誘惑にかられた。

 ふりふりと揺れるその尻尾――材質は何なんなのだろうか。

ベルトで装着しているようには見えないが、新手の接着剤か何かなのか。

 尻尾があまりにも目の前で揺れるものだから、天音響はついに、その尻尾を指先でちょんとつついてみた。


 その瞬間。


「ひゃうぅ……!」


 蜜夢レンが叫んだ。


「え!? あ、ごめ……!」


 天音響は、慌てて両手を頭上に上げる。

 蜜夢レンも慌てたように自分の尻尾を抱き込んで、


「か、勝手に触ったらだめだよ……! 尻尾はえっちなとこなんだから!」


 と、しごくもっともなことを言った。

 いや、しかし衣装の尻尾がえっちとはこれいかに。

 天音響がきょとんとしていると、蜜夢レンは急に何かに気づいたように、再び天音響と距離を詰める。


「き……君……!」

「え? え?」

「すっごくえっちな夢見てるね……!?」

「親子そろって俺に対してどういう第一印象なんですか!?」


 天音響は恐怖した。

 なぜだ。どういう理由で二人とも、天音響の顔を見た瞬間にこうもやすやすと秘密を看破(かんぱ)せしめたのだ。

 そんなにいやらしい夢を見ていそうな顔をしているのか?

 メガネの奥で女子の肉体を舐めるように見ているような印象を持たれているのか?

 では実は、クラス全員に知られているのか、この秘密を。


「天音君ってまじめそうな顔してるけど、すっごいえっちな夢見てるよねー?」


 などと、裏で噂をされているのか。

 あの楽浄奏にも!

 耐えられない。生きられない。これはもはや社会的な死だ。


「ごめん、ごめんね! いきなりでビックリしたよね! 君があんまり美味しそうだったから、ついデリカシーのないことを……!」

「美味しそうって、なんですか? いじりやすそうってことですか? 俺が生真面目ヒョロメガネだから、性的なからかいの対象にしてもいいと思ってるんですか!? ドーテイいじりは訴えたら勝てるレベルのセクハラですよ!」

「そうじゃなくて! 食欲的な意味で!」

「俺を食べる気なんですか!? ハンニバルみたいに!?」


 もはや正常な判断を下せなくなりつつある天音響は、人肉食の第一人者たる映画の登場人物の名を叫び、狼を前にした子羊のように震えながら蜜夢レンを睨む。

 蜜夢レンはそんな天音響の様子に困り果て、


「もー! パパぁ!」


 と、諸悪(しょあく)の根源である父に助けを求めた。


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