天音響の受難
前述の通り、天音響は苦学生である。
親が突然「都会に疲れた」などと言いだして、超のつくド田舎への引っ越しを決めたので、抵抗したら一人暮らしを余儀なくされた。
学費は辛うじて親持ちだが、家賃も生活費も、天音響はすべて自分でまかなっている。父いわく「覚悟を見せろ」ということなのだが、これをネグレクトと言わずしてなんと呼ぼう。
意味が分からない。
本気で意味が分からない。
意味が分からな過ぎて一人暮らしを強行した天音を、だれがどうして否定できよう。
親という権力をかさに横暴を押し通す行為を、天音響は許さない。
「作業員の方は集まってくださーい! これから会場設営をするにあたって、運営の偉い人からご挨拶があるそうでーす!」
号令がかかって、天音響はほかの作業員と同様にぞろぞろと集合した。
周囲を見回せば、ボディビルダーもかくやというようなゴリゴリのマッチョばかりが集められている。そんな中に入ってしまうと、どちらかと言えば細身の天音響は子供のようですらあった。
身長百九十センチはあろうかという、「アメフト命!」と書かれたTシャツを着た大学生風の男が、天音響を軽く小突いた。
「おい、ヒョロ眼鏡。現場間違えてんじゃねえか? 邪魔になるから帰れよ」
天音響は暴力にひるまない。
悪意にさらされて一瞬ギクリとしたが、すぐに気を取り直して微笑み返した。
「全く間違えてないので、文句があるなら現場に言ってほしい。今からでも一緒に現場監督のところに直訴に行こうか? 公共の場で罵声を浴びせられたとして警察を呼んでも、俺としてはいっこうにかまわない」
「なんだとてめぇ……!」
「そっちから吹っ掛けてきた喧嘩で、そっちから手を出したとなると、裁判で君は絶対に負けるよ。さいわい証人もたくさんいる。その拳を下ろした方がいい。今から録音も開始するから、うっかり汚い言葉を言わない方がいいとも忠告しておく」
天音響はアメフト命と睨み合った。
アメフト命は振り上げた拳の下げどころを探している。自分のプライドが傷つかず、この拳をどうにか穏便に下ろす方法を探している感じだった。
天音響としても警察沙汰は面倒だし、そもそも絶対に殴られたくない。この体格の男に本気で殴られたら、絶対に歯が折れるし鼻の形が曲がる。悪くすると失明だ。
絶対に穏便に済ませたい。
二人の間で利害は完全に一致していた。
だからこそ、次の瞬間会場に突っ込んできた、常識外れに派手なピンクのスポーツカーの存在は、二人にとってまさに神の奇跡のようだった。
「な、なんだあの車!」
アメフト命は叫んだ。
「喧嘩をしている場合じゃないようだな」
天音響は眼鏡を押し上げる。
一時休戦。
二人は心底ほっとして臨戦態勢を崩した。
スポーツカーは集合した天音響たちの前で急停止すると、日本の道路事情では迷惑なだけのガルウィングドアが開き、ざわめきの中に一人の男が歩み出た。
全身をハイブランドの柄スーツで固めた、登場する時代を間違えた『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』というような人物だ。
すなわち、同次元の生命体であることをうたがわざるをえない容姿の西洋人である。
「諸君! よく集まってくれた! 私が本イベントの主催者・蜜夢デモーガンだ!」
とんでもない名前だな。
思わず声に出して突っ込みそうになったが、人様の名前を悪く言うのはあまりに無礼だ。天音響の信条に反する。
ぐっとこらえた。
しかしとんでもない名前だな。
「本日のイベントは、我が愛娘にして、わが社きっての人気アイドル、蜜夢レンのスペシャルサマーライブ! リビドーを解き放て2019! である!」
ざわざわざわ。
作業員の間に、ざわめきが広がる。
聞いたか、蜜夢レンだって。
俺、大ファンだよ。どうしよう、会えるのかな。
ばかそんなわけないだろ。でも、俺たちの作った会場でレンレンが……!
ざわざわざわざわ。
天音響は渋面を作った。
誤算だ。
さっきの今で、よりによって蜜夢レンの現場だったとは。
リビドーとは性的情動のことであり、蜜夢レンは、自分に向けられるリビドーを全面的に歓迎している。
なぜならば、蜜夢レンはサキュバスと呼ばれる種類の悪魔であり、ファンが蜜夢レンとの性夢を見れば見るほど、蜜夢レンの力になる――という設定だからだ。
天音響が蜜夢レンを好きになれないのには、もう一つ理由があった。
――彼女は本当に、自分の意思でそんな売り方をしているのだろうか?
ひょっとしたら、悪い大人たちに騙されて、無理矢理やらされているのではないか。数年後に後悔しても、衆目にさらされてしまった過去の自分は消し去れない――そんなリスクを考えず、周囲に乗せられてしまったのではないか。
そういう、ショービジネスの裏側を、どうしても考えてしまう。
だとしたら、蜜夢レンは被害者だ。大人たちに売り物にされた被害者を見て、幸せな気持ちになどなれるはずがない。
天音響は人知れず拳を握りしめた。
それは傍目には「やったぜレンちゃんの現場だラッキー」というように見えたかもしれない。実際先ほど突っかかってきたアメフト命などは、急に親近感を抱いたような表情で天音響を見つめ、うんうんと頷いている。
「えー、では諸君。本日、イベント終了後にファンのみんなに配る会場限定アイテムがあるのだが――今日はイベントの協力者である君たちにも、事前に配っておこうと思う。毎度、イベント後には転売騒動が起こるが、ぜひ自分たちで使ってくれたまえ!」
社長が軽やかに指を鳴らす。
するとどこからともなく現れた、夏のビーチをほうふつさせるビキニ姿のキャンペーンガール&ボーイたちが、居並ぶ男たちに小さな箱を渡して回った。
謎の男女平等精神にいささか面食らったが、レースクイーンが問題視される世の中で、この采配はむしろ正しいと言えるかもしれない。
それにしてもキャンペーンボーイの方は、はち切れんばかりにボディーをビルドアップしている。
天音響の手に配布物を手渡したのも、そんなボーイの一人だった。信条に反してややガッカリしてしまった自分を恥じて、天音響はひとしきり悶絶する。
改めて配布物を眺めると、手のひらサイズの正方形の箱に、でかでかと「蜜夢レン サマーライブ2019」と書いてあった。キャンディーか何かだろうかと、天音響はカタカタと箱を振ってみる。
「これぞ! マンネリな夜の営に0.01mmのいろどりをそえる、蜜夢印のサキュバス★コンドーム(ネオンカラーセット)だ!」
「なんてものを配ってるんですかあなたは!!」
天音響は叫んでいた。
叫びながら、小箱を地面に投げ捨てていた。
1カメ2カメ3カメスローモーション、すべてにおいて全力で小箱を捨てていた。
イベント主催者――すなわち雇い主に対する全力の突っ込みである。
人の波がさっと割れ、天音響と社長は正面から対峙する。
天音響ははっとした。
「あ……す、すみません! いただいたものをこんな風に……」
明らかに、これは天音響の失態だ。
自分が嫌悪感を抱くからと言って、なんら法律に違反していない贈り物を、やたらと投げ捨ててよい道理はない。
慌てて小箱を拾おうとしゃがみ込むと、その手を何者かにつかまれる。
ぎくりとして顔を上げると、そこには社長の顔があった。
パーソナルスペースという概念を完全に無視した距離感だ。
それにしても顔がいい。もはや恐怖を抱くレベルだ。
思わず全身の毛が逆立ち、
「ひっ……!」
と情けない声が出る。
天音響がたまらず上半身を仰け反らせると、男はぽつりとつぶやいた。
「……君、エロスか?」
「ハリウッドみたいな顔で何を急に言い出すんですかあなたは!?」
「ほぉーう。さすが、なかなかいい夢を見てるじゃないか」
「ど――」
どどどどど――!
「どうしてそのことを!?」
辛うじて――。
辛うじてそう叫びそうになるのをぐっとこらえた。
天音響全身の血の気が引き、ライオンに出くわしたサバンナのガゼルのように、社長から距離を取る。
今まで誰にも、夢の話を打ち明けた事などない。
初めて性的な夢を見た中学生のあの日以来、毎晩必ずありとあらゆるシチュエーションのひた隠しに隠し続けている天音響最大の秘密である。
ブラフか? はったりか? かまをかけているのか?
だとしたらなぜ? なんのために?
この男は危険だ。
逃げなければ。
すぐさま行動に移そうと足に力を込めた天音響の両肩を、しかし社長は逃がすまいとがっしとつかむ。
「キミにピッタリの仕事がある! 会場設営でちまちまやるより絶対に儲かるし確実に楽しいぞ! 来たまえ! 悪いようにはしないから!」
「は? ちょ、ちょっとどこに連れていく気ですか!? やめてくださいよ! 誰か! 誰か助け――おまわりさぁああん!」
悲しいかな、権力者の暴挙に逆らえる勇者はこの場にいない。
むしろ「いいなぁ、社長に特別な仕事もらえるなんて」という雰囲気だ。
社会という大きなうねりに対し、天音響という少年の力はあまりに無力。
天音響は抵抗もむなしくピンクのスポーツカーに押し込まれ、次の瞬間にはもう、高級ホテルの一室に連れてこられていた。