天音響の信条
時は二日前にさかのぼる。
まだ天音響が、蜜夢レンと同居生活をおくることになるとは夢にも思っていなかったころ、天音響はとある法律に思いをはせていた。
――軽犯罪法1条20号『公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者』
曖昧すぎる、と天音響は眉間にしわを深く刻む。
まず「公衆に嫌悪の情を催させるような仕方」とは、つまりどのような仕方なのだろうか。「その他体の一部」とは、具体的にどこを指すのだろうか。「みだり」の基準はどこになるのだろうか。
きわめて極端な言い方をしてしまえば、この軽犯罪法は「状況と人と時代によっていい感じに判断してさばきます」と言っているにほかならない。
「――まあ、俺も細かく規定するのが正義とは思わないけど」
誰かが教室の黒板に張り出した、蜜夢レンの特大下着ポスターを前にして、天音響はぐいとメガネを押し上げた。
天音響は蜜夢レンが苦手だった。
蜜夢レンは、煽情的な衣装で男子の情欲を煽る、直球のエロ押しアイドルだ。
キャッチコピーは「今夜君に会いに行く」。
サキュバスという設定を前面に押し出す売り方をしているので、蜜夢レンに関するすべての広告や商品は、性的な目で見られることを前提に作られている。
電車の中吊り広告でも目のやり場に困るというのに、雑誌の袋とじポスター用に撮影された写真など、とてもまともに見られたものではない。
いや、いい。
合法である以上、それをとやかく言いはすまい。
けれども。
「――少なくとも、こういった写真を学びの場に張り出すのはクラス委員としても見過ごせない! みたまえ一部生徒の気まずそうな表情を! こういうのは自宅の天井にでも張ってこっそり楽しむべきだ」
天音響はクラス全員に聞こえるように宣言し、即座にポスターを回収して折り目に合わせて丁寧に畳みなおした。
新品のようだが、すでに折り目がついているということは雑誌の付録かなにかだろう。
「天音、それ天井に張るの?」
「誰が張るか! 先生に処分してもらうに決まってるだろう!」
男子生徒からの問いに、天音響は決然と答えた。
「この場で破いて捨てないのが、俺のクラス委員としてのせめてもの良心だ」
「持って帰っちゃえばいいのに。天音君も好きなんだろ?」
「好き嫌いの問題じゃないし、俺はみだりに肌を露出してる女性は苦手だ。目のやり場に困るだろうが!」
「バカだな天音君、見ていいんだよ。ポスターなんだから」
「そういう話をしてるんじゃない!」
「なんでだよ、天音君! 健全な男子高校生たるもの、女子の裸は見たいだろ!?」
別の男子生徒が口をはさんだ。
天音響はきりりとメガネを押し上げる。
「俺が見たいと思うのは、好きな女子の裸だけだ」
ひゅー。
教室で口笛が上がる。
「そして俺が裸を見るのは、俺の未来のお嫁さんだけだ!」
天音響は断言した。
付き合いの長い生徒たちは「こいつ幼稚園の頃からこうだよ」と言い、高校からの知り合いは「大正生まれかよ」と戦慄している。
教室がやや凍り付いたところで、また別の男子生徒が声を上げた。
「いやまあ、天音の言い分も分かるよ。実際エロすぎるよね規制されても無理ないよねこのポーズとかもう犯罪じゃん逮捕だよ俺警察官になるわ」
その一言で、教室は再び蜜夢レンエロすぎ問題緊急会議へと話題がシフトしていった。
天音響がポスターを手にむっつりと席に着くと、男子の騒動にワンテンポ遅れて、女子のクスクス笑いが教室に伝播していく。
「だから天音君に怒られるって言ったのに、男子マジ馬鹿」
「ってーかなんで張るのポスター。マジで。うちらもセクシー消防士の特大ポスター張っていいの?」
「やめてよそれあたしも見たくない」
「セクシー消防士よりはレンレンのポスターのがいい。ってかあのポスター可愛かったね。どの雑誌の付録だろ」
「あ、インスタに雑誌の宣伝上がってる。ってか足なっが! くびれやばくない? ヒールマジかわいい。どこのこれ? え、やばいたかくね? レンレンまじセレブ。バイトふやそっかなぁ」
ざわざわざわ。
がやがやがや。
こうして五分もたつころには、話題は昨日見たオモシロ動画の話題にシフトしていることだろう。
「――ガツンとやったね、天音君」
天音響が席に戻ると、隣の席の楽浄奏は涼やかに言った。
「まったく、高校生にもなって」
天音響は嘆息した。
「あ、天音君。そのポスター、一枚六千円で転売されてるくしゃってならないように気を付けた方がいいよ」
「ろ――六千円!? たかが付録ポスターで!?」
「物の価値は原価では決まらないよ、天音君」
「経済学っぽいことを……!」
天音響は、さきほど没収したポスターが急に恐ろしい物のように感じられて、プリントをまとめて入れてあるハードファイルにそっとしまった。
早いところ担任に引き渡してしまいたい。
「よくわからないな……蜜夢レンの何がそんなに人気なのか」
「そう? エロは三大欲求だし、そこにうったえるのは強みじゃない?」
楽浄奏の口から「エロ」という単語が飛び出すと、いささか動揺する天音響である。
しかし動揺を隠して、天音響は会話を続けた。
「女子にも人気があるっていうのが、ますますよくわからない。蜜夢レンが流行るまで、ああいう露骨なエロ推しって嫌われるものだと思ってたよ」
「うひょー、ラッキーとはならないんだね、天音君」
「男をなんだと思ってるんだい、楽浄さん」
天音響が片眉を吊り上げると、天音響は「未知の生命体」と冗談めかして言った。
「男がみんな、アイドルの半裸ポスターを歓迎してるわけじゃない。正直、蜜夢レンみたいなエロ推しアイドルに関しては、どうにかしてほしいと思ってるくらいだ」
「ポスターを減らしてほしいってこと?」
「服を着てほしい」
天音響は情感をこめ、半ば懇願の粋に達する思いを口にした。
「気まずいんだよ……! 俺は満員電車で無害な広告を眺めて時が過ぎるのを待ちたいのに、今や広告を眺めていると蜜夢レンに興奮する思春期の男子扱いだ!」
「わかるよ、天音君。私も満員電車でタンクトップのおじさんにはわき毛をそってほしい」
「わき毛は方向性がちがわないかな、楽浄さん」
「犯罪じゃないけどやめてほしいって意味では同じだよ、天音君」
そう言われればそうかもしれない。
だが満員電車で男のわき毛が顔面に密着するのと、女性の胸に顔が埋まってしまうの――どちらが嫌かと言えば確実にわき毛だ。だが気まずさで言えば女性の胸だし、女性の胸は痴漢的な冤罪に発展する可能性もある。
天音響は苦悩する。
「やはり薄着を規制するしかない。わき毛も乳房も布で覆うべきだよ、楽浄さん」
「わき毛はともかく、女子が厚着するようになっても、天音君の悩みは解消しないと思うよ」
「え、どうして?」
「中世ヨーロッパでは、足首を見せるのはとてもえっちなことだったんだって」
「話題がとんだね、楽浄さん」
「関係ある話題なんだよ、天音君」
天音響は黙って聞くことにした。
「つまりね。どんなにきっちり服を着こんでも、人はどこかしらにエロティシズムを見出してしまうんだよ」
エロティシズム……と天音響は繰り返す。
「よくわからないよ、楽浄さん」
「例えば、体にぴったりフィットしたセーター」
うぐ、と天音響は引きつった。
想像してしまったのだ。
厚手のセーターの分際で、女性の体のラインを浮き立たせるセーターの存在を。
「例えば、スキニーパンツ」
「あ、あれはよくない……! よくないと思うよ楽浄さん……!」
下着のラインが浮いてしまうほど、体に密着しているズボンをはいている女性が何を考えているのか、天音響は理解に苦しむ。
ほとんど裸と同じではないか。
「でも、薄着じゃないよね。冬でもみかける。屋内なら冬でもみんな結構脱ぐし。わき毛問題にしても、服をきたところで腋臭問題は解決しないし」
「うぅ……救いはないのか……!」
天音響は頭を抱えると、楽浄奏は窓から吹き込む風に髪を揺らして軽く笑った。
「そう……救いはないんだよ、天音君。それに例えば私がふさふさの胸毛が苦手でも、毛深さは犯罪じゃない。脱毛を強要なんてできないし、毛深い事を理由にバカにしてもいけない。仮に毛深い人を見るとアレルギーを起こす実害があったとしても、私は相手の〝毛深さの自由〟を認め、我慢を強いられることになる」
「認めるも何も、毛深さは生来の特性だよ楽浄さん」
「おっぱいも生来の特性だよ天音君。タンクトップを着て目立つ胸げを許容して、タンクトップを着て目立つおっぱいの大きさを許容しないのはダブルスタンダードになると思う」
「急に難しい言葉を」
「ググって、天音君」
ダブルスタンダード――矛盾する二つの基準を、状況によって使い分けること。
「一つ賢くなったよ楽浄さん」
「気づいてるかな、天音響君。私たちは今まさに、ダブルスタンダードの問題に直面してることを」
「え?」
「毛深さに苦しむ私に、救いはない。でも、毛深い人は救われている。これって不公平だと思わない?」
天音響は気が付いた。
「そうか……! 毛深さを受け入れろ、と楽浄さんに強いること……それは〝毛深さを受け入れられない〟という楽浄さんに我慢を強い、毛深さを嫌う権利を侵害する事になる。矛盾だ……! これがダブルスタンダード……!?」
「そう。そしてこのダブルスタンダード的矛盾を、寛容のパラドクスといいます」
「すでに名前が!?」
「天音君だけじゃなくて、みんな悩んでるってことだね」
「安心したよ、楽浄さん」
「でもこのパラドクスは、一応社会的には決着がついてる。不寛容に対して寛容である事だけはあってはならない。不寛容さに寛容であったなら、人は少数派や弱者を容赦なく攻撃してしまうと、歴史が語っているからね」
ははぁ、と天音響は感心して声を上げた。
「ナチの話だね? 映画で見たよ」
「大体ナチの話だね。題材にした映画はたくさんあるものね」
「ほかにも該当が?」
「ルワンダとか」
「あ、それ知ってる。『ホテル・ルワンダ』って映画で見た」
他人に対する、ある事柄が許せなかったとして、それで殺人にまで発展する人の心が、天音響には分からない。
だが誰しもきっかけは「この不快感をどうにかしてほしい」程度の欲求で、それがいつしか「正義のために滅ぼすべき」になるのだろう。
「楽浄さんはとても物知りです」
「はい。なぜなら私はたくさん本を読むからです」
英語教材のようなやりとりは、学校全体での流行だ。
天音響は楽浄奏との議論を気に入っていた。
楽浄奏は人並み外れて物知りで、大人びていて、達観している。
中には「自分が馬鹿にされてるみたいで怖い」と言う生徒もいるが、天音響は知らない価値観や事柄を教えてくれる楽浄奏という存在を尊敬していた。
そんな二人に、クラスのどこかからヤジが飛ぶ。
「天音! 楽浄さんと仲良くしすぎるなよ!」
天音は言い返す。
「クラス委員同士が話していて何が悪い! 男女が会話しているだけで下世話な勘繰りを入れるんじゃない! 小学生め!」
天音君が怒ったぞ、とクラスがひときわ楽しげな笑いに包まれる。
「――でも、どうして見たくないんだろうね。天音君は」
「え? 何が?」
「蜜夢レン――ひいては、女の人の裸」
「どうしてって……楽浄さんだって、俺が半裸で学園生活を送っていたら注意するだろう?」
「うん、校則違反だからね」
「学校の外だったら?」
「私も合わせて脱いじゃうかもね」
「楽浄さん!?」
「なーんちゃって。冗談」
そこでちょうど予鈴が鳴って、楽浄奏との会話は打ち切られた。