蜜夢レンの焦燥
天音響は戦慄した。
蜜夢レンの曲のイントロが、BGMに流れだす。
「は……話が見えないよ、楽浄さん……」
「私、レンレンのファンじゃなかったの。夢魔にお母さんを殺されて、私は夢魔を憎んでた。そして今の仕事への誘いを受けたの。お母さんを殺した夢魔を殺せる仕事。――私は最初、レンレンがアイドル活動を通して犯罪行為をしていないか見張ってただけ。年代的に、私がちょうどよかったから。わかるでしょ? あんなにおおっぴらに夢魔を自称して、政府が動かないはずないって」
「話のスケールが俺の身の丈に合わない……!」
「……まあ、厳密に言うと、実は警察とはちょっと違うんだけど」
「ちょっとって言うと?」
「警察は人間相手だけど、夢魔は人間じゃないから、猟友会みたいな感じになる」
「レンさんを民家に出没する熊みたいに!」
天音響は思い出した。
夢魔などが起こす犯罪を取り締まる警察機関も存在すると、社長が確かに言っていた。
夢魔や吸血鬼が実在する。
人狼系の警備会社も存在する。
ならば高校生である楽浄が本物の警察だとしても、何もおかしくはないのかもしれない。
「レ……レンさんは人を傷つけたくなくてアイドルになったんだ! 絶対に犯罪なんかしてない! それは絶対だ! 残念だよ、楽浄さん。友達だと思ってたのに……!」
「勘違いしないで、天音君。私は捜査のためだからって、なりたくもない下着姿を同じクラスの男子に見せるほど、滅私奉公を尊んではいないから」
「難しい言葉を……!」
「辞書を引いて」
滅私奉公――私利私欲を捨てて、主人や公のために忠誠を尽くすこと。
「――つまりライブで下着になったのは……趣味……?」
「これはトップシークレットなの、天音君。私はレンレンのファンになってしまったの」
楽浄奏はマイクを取った。
♪――隠さなくちゃいけない気持ち。
だってキミはボクと違う世界の人だから。
だけどもし君がもし一歩踏み出してくれるなら。
交われるかもねボクと君のミルクとコーヒみたいな二層の世界。
君のカラフルなストローでかき回してよカフェオレくらいが
ボクにも君にもきっとちょうどいいって思うから。
「――ということなの」
「楽浄さん歌うますぎじゃない?」
「ヘビロテしてるからね」
「プロデビューも夢じゃないよ」
「……それは褒めすぎ」
楽浄奏は赤くなる。
とにかく、と話を仕切り直した。
「天音君が犯罪に巻き込まれているなら、私はそれを本部に報告しなくちゃいけない」
楽浄奏はマイクを手に、ぐいと天音響に身を乗り出した。
「天音君。夢魔は人を殺すよ。夢魔にとって人間はただの食糧。愛情めいたものを感じたとしても、それは私たちの知ってる愛じゃない」
「わ、わかってるよ、それくらい! でもレンさんは、絶対に俺を殺そうとしてるわけじゃない! それだけは言える!」
「どうして?」
「レンさんは俺の枕元に立たないんだ。俺が勝手に見る夢を、美味しいって言ってくれるだけなんだよ! なのに俺は――」
「夢が見られなくなった」
キィーーィン。
マイクのハウリング。
曲と曲の合間の静寂。
「天音君……夢魔はとっても魅力的。私がレンレンを応援するのは、彼女が本当に人間と共存しようとしてるから。人間社会を利用するだけじゃなくて、貢献し、保全しようとしてるから。彼女がステージの上の、テレビの向こうの、動画の中の存在でいるから。でも、レンレンは今、天音君を〝囲い〟にしてる。これはとても危険なこと」
「でも――それはデモーガン社長が無理やりで……」
「ならなおさら引き時だよ、天音君。夢を見られなくなったなら、きっと向こうも天音君に執着しない。無理やりにでも夢を見せようとして来る前に、契約を終わりにした方がいい。それで追いかけてくるようだったら――」
楽浄奏はちらと警察バッジに目をやった。
天音響の頭に電車の中吊り広告見出しが躍る。〝蜜夢レン、男子高校生にセクハラ!? タナトスドリーム社長は黙秘〟〝乱れる性の伝道師! 活動休止秒読みか!〟〝男子高校生Aとの禁断の蜜月〟。
「れ……レンさんはそんなことしない!」
「うん、私もレンレンを信じてる。――でも、私はデモーガンを信じていない」
蜜夢レンは、本当に蜜夢デモーガンに逆らう事ができるのか。
あれほど嫌がっていた契約を、結局蜜夢レンはデモーガンの導きで結んでいる。ならばどれほど蜜夢レンが嫌がっても、デモーガンの策略によって、天音響を搾取しようとする時が来るのではないか。
そうなってしまったら、楽浄奏は蜜夢レンを逮捕せざるを得ない。
――否。
猟友会のようなものというなら、あるいは殺してしまう可能性もあるのではないか。
天音響は聞けなかった。友人が担っているという仕事を、深くまで。
今が、引き時。
確かにそうなのかもしれない。
ここ数日、蜜夢レンの夢を見るために天音響が注いだエネルギーは、平均的男子高校生のスケベゲージをはるかに上回っていた。
「……楽浄さん」
「なに、天音君」
「俺も……歌って……いいかな……?」
楽浄奏はこくりと頷き、二本目のマイクを差し出した。
※
カラオケ
↓
ボロアパート
※
その日、天音響はいつもと違うルートで帰宅した。
蜜夢レンのアパートではなく、以前の薄汚れた四畳半に、だ。
ほこりのにおいが充満する、じめっとしたアパートは、隣の部屋からくぐもったテレビの音が聞こえてくる。
天音響は窓を開けて空気を入れ替え、畳んだ状態で部屋の隅につんである布団にソファのように腰を下ろした。
今夜、蜜夢レンが撮影から帰ってくる。
――伝えなければ、その前に。
天音響は震える指で、数日前に登録したばかりの蜜夢レンの連絡先をタッチした。
呼び出し音。
留守電。
少しほっとした。直接言う勇気がない。
「――あの、天音です。すみません。俺……急に夢が見られなくなって……なんでかわからないですけど、見られなくて……それで……ごめんなさい、レンさん。契約違反になっちゃって。今週の土曜日に、荷物取りに行きます。その時に、俺の記憶を消してください。本当に、迷惑かけてごめんなさい!」
天音響は電話を切った。
蜜夢レンのマンションにはすべてがそろっていた。
天音響はこのボロアパートを維持したまま、必要最低限の私物だけをそろえて蜜夢レンのマンションに引っ越したのだ。
住所変更もまだしていない。
だから、元に戻るのは簡単だ。
必要最低限の荷物を持っていったように、必要最低限の荷物を持って帰ればいい。
夢を見られなくなった今、天音響を狙う夢魔も消えるだろう。
ならば守ってもらう必要もない。
天音響はささくれだった畳の上に、薄っぺらな布団を敷いて横たわる。
「……夢みたいだったな」
アイドルとの、突然の同居生活。
笑ってしまうくらいあり得ない非日常。
「なんだっけ、こういう映画……いくらでもあるはずなんだけどな。非現実的な夢から覚めて、日常に戻るみたいな映画……出てこないな、なんだっけ……」
天音響は目を閉じる。
「なんでもいいか……別に……」
※
天音響
↓
蜜夢レン
※
天音響が電話を決意する、前日のことである。
「天音君が電話くれない! 全然電話くれない!」
蜜夢レンはもがいていた。
撮影でホテル泊になることなど、今までも何度もあった。
離婚してからというもの、父はそもそも留守がちであったし、アイドル活動を始めてからはあのマンションに一人暮らしだ。
夢魔は肉体が成熟するまで、生まれた時に親から分け与えられた精力を少しずつ食べながら生きていく。
独り立ちすると自分で獲物を取るための準備を始め、その前段階として複数部屋のある物件に入居する。
そこに誘惑した異性を連れ込み、合法的に精力を吸い上げるためだ。
枯れ果てたらマンションを追い出し、また新たな人間を連れてくる。
人間を殺さないように生きる、現代に適応した夢魔の典型的なスタイルである。
しかし蜜夢レンにとって、天音響ははじめてにして唯一の〝囲い〟である。
この三日間というもの、蜜夢レンは片時も電話を離さず、どこかから通知が来てはいそいそと確認し、落胆することを繰り返していた。
「レンレンからかければいいでしょ? らしくないじゃない」
などと、顔なじみのフォトグラファーに呆れられる始末だが、ことはそう単純ではない。
「ボクは天音君の雇い主だよ!? 雇い主から電話なんてかかってきたら、ウザくても断りにくいかもじゃん! それに天音君は高校生だし、勉強の邪魔になったら嫌だし!」
「でも電話してほしいんでしょ?」
「してほしいーー! なんでなんで天音君ボクの声聞きたくないの!? ボクのファンになってくれるって言ったじゃん! 置手紙も残してあるのにー!」
蜜夢レンはスマホを握りしめて叫ぶ。
この三日間、天音響は蜜夢レンの夢を見ていない。
誰の夢も見ていないはずだ。
けれど安らかな眠りから目覚めて、ふと恋しく思ってくれたりはしないかと、蜜夢レンは夢想する。
「ボクが天音君の夢見ちゃいそう……」
「夢魔は夢なんて見ないでしょ」
「反芻はできるもん! えーん! 天音君天音君天音くーん!」
じたばたじたばた。
ごろごろごろごろ。
今頃は楽浄奏という同級生と仲良くしているのだろうか。年上の夢魔などより、清純な同級生の方がよいのだろうか。
いっそ高校生と年齢を偽って、天音響のクラスに転校してしまいたい。
「そんなに熱烈に求めてたら、天音君はあっという間に干からびちゃいそうねぇ」
「天音君は干からびませんー!」
だってボクが守るもんね、と蜜夢レンは心の中で胸を張る。
「あのねぇ、天音君は美味しいけど、美味しいだけじゃないんだよ。真面目で、優しくて、恥ずかしがり屋さんで、毎日毎日ちょっとずつ違ってくの」
「フルコースみたいな子なんでしょ?」
「そ。しかも毎日メニューが違うフルコース! 見てるだけでも幸せなんだ~三十歳になっても四十歳になってもボクの契約者でいてくれたらいいのに」
写真投稿サイトを開いて、蜜夢レンは差し入れケーキの写真をアップする。
いいねいいねいいね。
美味しそうなものは見ているだけで幸せになれる。
「早く明日にならないかなー! 天音君にお土産いっぱい食べさせてあげなきゃ!」
そして、翌日。
蜜夢レンは夕方のフライトで東京に戻った。
着陸するなり機内モードをオフにして、留守番電話をチェックする。
天音響。
「連絡きてるじゃんー!」
機内ではマナー上、まだかけなおすことはできないが、留守電を聞くことくらいは許される。
蜜夢レンはうきうきとメッセージをチェックし、最後まで聞き終わらないうちに立ち上がった。
スタッフに荷物をピックアップしておくように頼んで到着ゲートに走り、迎えに来ていた父に向って突進する。
「車貸してパパ! あと天音君の住所!」
「ただいまより先に言うことがそれとは――ドラマティックじゃないか! 行ってきたまえ! 住所はカーナビの登録名〝レン専用フルコース〟だ!」
「変な登録名にしないでよ! また警察に事情聴取されても知らないからね!」
蜜夢レンはデモーガンの手から車のキーをひったくった。




