蜜夢レンの接吻
「あ、そうだお化け屋敷! お化け屋敷入りたい! 天音君、怖いの平気?」
「あ、無理です。ガチ目に無理です」
「えー! 可愛いのに!」
「お化け屋敷が可愛い!?」
「だって本物はもっと怖いじゃん?」
「やめてください本物の話は! 非科学的です!」
「ボクも夢魔なのに?」
「それもまだ半分くらいは疑ってますので」
天音響は眼鏡をきらりと光らせる。
尻尾や羽が極めて本物っぽかったり、それらが目の前で突然消えたり、夢の内容を知られてしまったりしているが、まだ科学で証明できそうな範疇と言えなくもなさそうだ。
「本物なんていないって思ってるなら、ただの暗い人形館じゃん」
「観測するまでは本物の可能性があるじゃないですか。シュレディンガーのお化けですよ」
「ボクがきゃーって言って抱き着いても?」
「俺がキャーって言って抱き着いてしまう惨事しか見えない」
「ボク的にはオッケー」
「俺的にNGなので……!」
「じゃあコーヒーカップ! コーヒーカップなら怖くないでしょ?」
「そんないい大人が……」
「天音君十六歳。ボク十八歳」
「なんですか?」
「みっせいねんだから子供なんで~す! 行こ!」
結局、コーヒーカップとメリーゴーランドに付き合わされた。
ゲームコーナーでは天音響が百発百中の射撃の腕を見せて蜜夢レンを喜ばせ、昼食は出店のフードをかじる。
「天音君、ちょっと古いけど、タピオカチャレンジ知ってる?」
売店でかったタピオカミルクティーを吸いながら、ふと蜜夢レンがにやりと笑った。
「聞いたことないですけど」
「手放しでタピオカミルィーを飲めるかってチャレンジ」
「落ちるでしょう、普通に」
「ところがボクは落とさない」
蜜夢レンはわざとらしく腕を組んで、ただでさえ主張の激しい胸を寄せ上げた。
その胸の上にタピオカミルクティーのプラスティックカップを乗せ、手を放す。
水分の重みでカップは蜜夢レンの胸に深く食い込み、テーブルもかくやの安定感でその場に鎮座ましました。
蜜夢レンはストローからタピオカを吸い上げ、
「じゃーん! タピオカチャレンジ成功です!」
と全力でドヤる。
「すいません馬鹿なのかなって」
「嘘でしょ天音君クール過ぎない?」
蜜夢レンは愕然とする。
「だってタピオカミルクティー関係ないじゃないですか。カフェオレでもいいじゃないですか。え、どういう文脈でそういうチャレンジが生まれたのかも謎でしかない……」
「もー! かわいいに理由なんて必要ないでしょ? いいから写真とってほらほら!」
スマホを渡されて、天音響は慌てて蜜夢レンのタピオカチャレンジを撮影した。さすがアイドル蜜夢レンは、天音響の素人撮影でも気が遠くなるくらい可愛く写る。
パークのマスコットキャラクターのパレードを最前列に陣取って観賞し、いよいよとばかりにジェットコースターに挑む。
ふと、天音響は蜜夢レンの手汗量が増加していることに気が付いた。
並んでいる最中から口数も減り、やたらと待機列を眺めている。
「……レンさん?」
「天音君、絶叫系平気なんだね……?」
「実は乗ったことないんです。でも、怖い気はしませんね。もしかしてレンさん……」
「へ、へへ……ふへへへへ……」
蜜夢レンは怪しい笑いを浮かべた。
「緊張で尻尾出そう……」
「ダ、ダメですよこんなところで出したら……! そんなに苦手なら列抜けて……」
「や、やだやだやだ! 吊り橋効果だよ天音君! 一緒にドキドキすると心の距離が近づくんだよ!」
でも、と蜜夢レンはつないだ手に力をこめる。
「ぜっっったいに手、離さないでね? 約束だからね……!」
「お客様何名様ですかー? 先頭にどうぞー」
順番は無慈悲である。
二人はコースターの先頭に案内され、帽子とサングラスを鞄に押し込み、少々過剰とも言える安全バーで全身をがちがちにロックされる。
「でちゃうよ……尻尾でちゃう……羽と角……あぅぅ……」
「レンさん落ち着いて! 最前列なのにまずいですよ尻尾と羽なんかでちゃったら! 撮影だってされるのにほら手! 手、つなぎましょう!」
「手ぇつないだら安全バー離しちゃうじゃん!」
「じゃあやめときま――」
「つなぐつなぐつなぐ! つなぐから見捨てないでぇえぇえ!」
蜜夢レンは天音響の手をつかんだ。
横から見て分かるほどがくがくと震えており、何やら人外の言語と思しき祈りだか呪いだかを延々と口にしている。
ジェットコースターが一周して戻ってきたとき、おぞましい怪物でも召喚されなければいいが……。
「――そういえば、十五歳になったときに、危険に十五禁ホラー映画の『ファイナル・デッド・コースター』ってやつを見たんですけど」
「それジェットコースターが事故る映画じゃん! 知ってるよボク知ってるんだから! なんで今そんな話すんの!?」
「気がまぎれるかと……」
コースターが動き出した。がたがたと音を立てながら山なりのレールを登っていき、そのてっぺんには「ようこそ地獄へ」と書いてある。
コースターは最も高い位置で一旦停止すると、緩やかな挙動で前傾し、そして一気にレールを滑り降りた。
「ぎーーーーぃやーーーー!」
蜜夢レンの悲鳴が遊園地にこだまする。
と同時に、天音響の顔に何かが当たった。
薄い、コウモリの羽のような――。
「わーー! レンさん! 羽と尻尾! 出ちゃってますかくしてかくして!」
「無理無理無理やだむりやだーーー! ぎゃーーーーやーーー!」
蜜夢レンの叫びもむなしく、コースターはぐるぐると回転し、上昇と下降を繰り返す。
コースターがようやく失速したとき、蜜夢レンは半ば死人のようになり、ぐったりと安全バーに体を預けていた。
降りるときに手を貸すも、膝が笑ってがくがくである。
やむなく肩を貸す形でよたよたとスロープを降り、天音響は蜜夢レンを適当なベンチに安置すると、通学用の電子カードにかろうじて残っていた千円でお茶を買う。
蜜夢レンはのたのたとお茶を受け取り、隣に座った天音響の肩にぽすっと頭を預けた。
「天音君は優しいね」
「これくらいは誰でもすると思いますけど……っていうか、レンさんは芸能人ですし、普通にみんな優しいのでは……?」
「そう思う?」
「違うんですか?」
「人ってそんなに優しくないよ。特にボクみたいなアイドルには、何してもいいんだって思ってる人いっぱいいる」
「アイドルに何をしてもいいなんて思う人類が!?」
「エロで売ってるんだから何されてもいいだろってさ」
あんなこととか、そんなこととか、と。こともなげに語る蜜夢レンの話の内容は、天音響を傷つける。
「それ全部犯罪じゃないですか! 告訴ですよ告訴!」
「ふふ。怒ってくれる天音君好き」
「んぐ……」
「告訴するにも数が多すぎるし、いちいち告訴してたら費用もバカにならないんだ。だからよっぽどじゃないかぎり、二度と現実の女に興味が持てなくなるくらいヤバい夢を見せる部門のお姉さんに対処してもらってる」
「夢魔っぽい粛清を……」
天音響はごくりと息をのんだ。
「ヤバ夢部門の夢魔は凄いよ……リアルでは絶対もっこりできなくなるし、性欲も完全に消えるからね」
「実質去勢……!」
戦慄する天音響をよそに、蜜夢レンは空を見る。
「みんなが天音君みたいならいいのになって、時々思うけど」
「俺?」
「だって、天音君は言わないでしょ? ビッチ扱いが嫌なら、まともな服着てろーとか、芸能活動なんてやめろーとか。女を売り物にしてるくせに、触られたくらいで被害者ぶるなーとか」
天音響はぎくりとした。
少し、思う所がある。
蜜夢レンとこうして出会わなかったら、天音響はバッシングする人々に同調していたかもしれない。蜜夢レンが犯罪に巻き込まれたら「少しは彼女にも責任あるよね」と、言わなかったと断言はできない。
けれど今、目の前にいる彼女はどうだ。
ホットパンツから伸びる長い脚は、正真正銘の生足だ。夏の日差しで胸の谷間にかく汗は、ライムグリーンのチューブトップをじんわりと濡らして、下着の色と形を浮き上がらせている。
この体に、勝手に触っていいと思うのが正常だろうか。
こんなにキラキラとした体に憧れて、近づきたいと背伸びする少女たちの性は、本当に乱れているのだろうか。
蜜夢レンのイベントに詰め掛けて、肌着の女性オーディエンスに目もくれない男性客はどうだ? エロに釣られた犯罪者予備軍か?
そんなはずがあるものか。
「……昨日の夜、見た夢の子……なんですけど……」
「んんー? デート中にほかの女の子の話しちゃう? しちゃう?」
「あ、すいません! でも……聞いてもらっていいですか」
蜜夢レンはわざとらしくため息を吐いた。
「しょうがないなぁ。特別だよ?」
ありがとうございます、と天音響は礼を言う。
蜜夢レンの寛容さには足を向けて寝られない。
「楽浄奏さんて子なんですけど……レンさんの大ファンなんです」
「ほんとに? えー、好きになっちゃった」
チョロすぎるのではと思う天音響だったが、今はそれに言及すべき時ではない。
「いつもきっちりした格好してて……大和なでしこで……でも、レンさんは女の子を自由にしてくれるんだって言ってました。自由な格好をしていても、誰にもバカにされたり、見下されたりしなくていいんだって勇気をくれるって」
その楽浄奏が、言っていた。
昨日、ライブあとのファミレスで、ドリンクバーで喉を潤しながら、アイドルに憧れる年頃の少女の顔で。
「ショーケースに並んだパンがどんなに美味しそうでも、勝手に食べていいと思う人はいない。当たり前ですよね。それと同じで、露出が多いからって勝手に触っちゃいけないし、勝手に触って怒られたからって相手のせいにしてもいけない。それも当たり前で……レンさんは、そういう当たり前のことを歌ってくれる人なんだって。だから俺は言わないです。レンさんが悪いなんて、絶対に」
蜜夢レンの視線を横顔に感じて、天音響は自分の膝を睨む。
偉そうなことを言っただろうか。
年上の夢魔の女性に、説教臭かっただろうか。
けれど素直な気持ちだ。嘘も見栄もそこにはない。
「……天音君、なでなでしたい」
「え? 嫌ですよ……!」
「したい! ちょっとだけ! ぎゅっとしてなでなでーって!」
お願いお願いと懇願されて、しょうがないなと抱擁を許す。
蜜夢レンの胸はやわらかくて、暖かくて、少し湿っぽくて、甘い香りに交じった汗の香りがする。
「ボクたち夢魔はね、天音君みたいに真面目で、貞淑で、人の体を大事にできる……そういう人が大好きなんだ」
「しょ、食糧としてでしょう……!?」
「そう。でも食糧に恋をしちゃうの。身も心も捧げていいって思うくらい。好きだから食べちゃいたいけど、食べちゃったらその人は長く生きられない。だから夢魔は、誰も好きにならないのが一番幸せ。――かわいそうでしょ?」
「わ、わからないです……俺も誰も……好きになったこととか、ないから……」
「そうなの?」
「ま、まだ高校生ですから……!」
「なのに夢魔に魅入られちゃって、かわいそうだね、天音君」
抱擁の腕がゆるんだ。
天音響が蜜夢レンの胸から体を離すと、蜜夢レンの濡れた瞳が、じっと天音響を見つめている。
「お互いにかわいそうだから……慰め合っちゃう?」
「な、慰め合うって……」
「響君」
名前を呼ばれて、天音響はぞくぞくと腰から背中に這いあがる奇妙な感覚に支配された。
硬直した天音響の唇に、蜜夢レンの唇が近づく。
「にげないの? キスしちゃうよ?」
「あ、あの……これ、夢……ゆめ、ですか……?」
「どうだろ。夢なら平気?」
「ゆ、夢なら……そりゃあ……」
「じゃあ、夢にしちゃおう。全部」
蜜夢レンの唇が、天音響の唇に重なった。
ぬるりとしたグロスの感触がする。何もすることができない天音響の唇に、蜜夢レンの長い舌が滑り込む。
天音響は蜜夢レンの肩をつかんだ。
夢じゃない――夢じゃない、夢じゃない。
「んぐ……ん、ぅ……!」
蜜夢レンの舌が、おびえて縮こまる天音響の下に蛇のように絡みつき、口腔から引きずり出して強く吸った。
頭の奥がちかちかして、天音響は蜜夢レンの肩をつかむ指に力をこめる。
細くて、やわらかくて、壊れてしまいそうな蜜夢レンの肩に、自分の指が食い込んでいくのが恐ろしくて、天音響は目を閉じる。
次の瞬間、天音響は目を覚ました。
遊園地のベンチの上――日の暮れた空をバックに、蜜夢レンが天音響を見下ろしてる。
「へ? 俺……いつの間に、寝て……!?」
「どんな夢見てたの? お寝坊さん」