楽浄奏の肢体
天音響は待った。
並みいる下着姿のオーディエンスの中で、一人だけ普段着で。
奇妙なもので、こうなってくると普通の服を着ていることが恥ずかしくなってくる。いっそ自分もパンイチになった方がよかったのではなかろうか。
――今からでも更衣室に行って脱ごうか。
そんな風に思った瞬間もある。
しかし全身の体毛を処理して美しいランジェリー姿で出てくる男に交じって、生まれたままの朴訥なトランクス姿で出てくる勇気はまるでない。
たとえここが蜜夢レンの作った魔界というフィールドでもだ。
こう見えて、すね毛はそれなりに生えている天音響である。
そもそも蜜夢レンと合わせた衣装を身につけていなければ、ただのパンイチになりたい露出症(狂うという文字は修正案件である)扱いだ。
待っている最中、女性用下着を身にまとった例の「アメフト命」と目があったが、「はやくこっちの世界へこいよ」と言わんばかりに輝く笑顔で頷かれた。
俺にあの勇気と思い切りがあればいいのにと、心のどこかで思う天音響である。
「お、お待たせ」
「はぐっ――! ち、ちょっとまって楽浄さん! 振り向くのにワンテンポ覚悟をさせて!」
天音響は楽浄奏の声に、声だけで反応する。
そろりそろりと振り向いて、目に飛び込んできた楽浄奏の姿に、天音響はぞわぞわと全身を駆け上がってくる、なんとも言えない恥ずかしい気持ちに顔を覆いそうになった。
「んぐ……っ……く……!」
楽浄奏はすらりとしていて、蜜夢レンとは似ても似つかない体型だった。
球体関節人形のように繊細で、簡単にひび割れそうな危うさがある。
ヒビ。
あぁ、傷がある。そう思った。
楽浄奏の体には、その繊細な空気とまるでちぐはぐな、痛々しいあざや傷があった。
運動部に所属していればよくあることだ。
防具をつけているとはいえ、楽浄奏は時々ぎょっとするような怪我をする。
そんな体を、ふわふわとした透け感のあるスリップが包み込んでいた。太ももから足にかけては、ささやかな抵抗のようにガーターストッキングで覆っているが、ストッキングとスリップの隙間にわずかに見える生の素肌が、逆に目立ってそわそわする。
あ、ホクロがある。
太ももの、ぎりぎり付け根の辺り。なるほどだからホクロについてあれこれいうなと、楽浄奏は言ったのだ。これが楽浄奏のコンプレックスなのかもしれない。
あ、ダメだ凝視したら。
普通の恰好、これは普通の恰好。
「く……靴はローファーなんだね……!」
唯一言及しても問題なさそうなパーツについてコメントすると、楽浄奏はほっとしたように頷いた。
「ヒールだと、ほかの人の足を踏んじゃうし、転んで危ないから」
「そ、そそ、そうか……! じゃあ、楽浄さんの席まで送るよ……!」
「ありがとう。天音君の席は?」
「あ、確認してなかった……! ええと、チケット……チケットは……」
二人はチケットを覗き込み、固まった。
「――え?」
「――スイートルーム?」
天音響は青ざめる。
まずい。
これ、関係者席だ――!
「……天音君、それ……ど、どうして……?」
「も、もらいものなんだ、このチケット! イベント設営のバイトで仲良くなった人が、勉強のために見て来いって! それで……!」
嘘はついていない。
だが真実も言ってはいない。
心臓がバクバクと鳴っていた。
楽浄奏には知られたくない。
蜜夢レンと同居してると、楽浄奏には、どうしても。――それが、ファンとしての裏切りのように感じられたから。
そしてその裏切りによって、楽浄奏との友人関係が壊れることが、天音響は嫌だった。
「ご、ごめん……にわかファンなのに、こんなのズルだよね……! チケットは抽選で、外れたりもするのに、俺なんかが……」
「……ううん。びっくりしたけど、大丈夫。それに、私もアリーナ最前列だから」
「え! すごいね!?」
「距離なら天音君に勝ってる」
「ほんとだね……!」
「私はレンレンの汗まで浴びられる」
「それは嬉しいのかい楽浄さん……」
楽浄奏は深呼吸した。
どこか体を隠すようだった両腕がすっとわきに下ろされ、いつもの自信に満ちた立ち姿が戻ってくる。
「びっくりしたら、緊張が吹き飛んだみたい。私、天音君に負けないくらい、ライブを楽しむから」
「う、うん……」
「だからライブの後で、一緒にご飯に行こう。学校じゃ話せないけど、ライブの感想合戦がしたいから」
楽浄奏は、着替えを詰めた鞄をロッカーに詰め込んだ。
斜めにかけた小さなポーチからスマホを取り出し、天音響に差し出す。
「ID交換。着替え終わったら、連絡する」
「わ、わかった! 待ってるよ、楽浄さん」
「うん……スイートルームからの感想……楽しみにしてるから」