蜜夢レンの攻防
帰宅すると、蜜夢レンが廊下に倒れて死んでいた。
「――ってうわぁあああレンさん!? どうしたんですか何が起きたんですか!」
天音響は靴を脱ぎ捨て、うつぶせに倒れ伏す蜜夢レンを助け起こす。
蜜夢レンはうっすらと目を開けて天音響を目視すると、急にがばりと起き上がった。
「ヤバ! 寝てた!」
「寝てた!? 廊下で!?」
「休眠モードっていうか?」
「お……お腹がすいたってことですか?」
「反芻モードって言うか」
「牛の一種だったんですか夢魔って生き物は」
まるでわけがわからないが、心配して損したことだけはなんとなくわかった天音響である。
「だってさ~。打ち合わせから帰ってきたらさ天音君いないし、せっかく土曜日だからイチャイチャしようかなって思ってたのに」
「い……いちゃいちゃって……!」
「廊下で待ち伏せして、帰ってきたらおかえりー! ってやろうと思ってたんだけど、なんか全然帰ってこないから。もー昨日天音響君が見てた夢でも反芻してようと思って」
「やめてくださいどんな能力ですか!」
天音響は昨晩自分が見た夢を思い出して悲鳴を上げた。
何やら公衆トイレの個室に押し込められて「声を出したらダメだよ天音君」とかやられたような気がするが、反社会的すぎて即座に記憶から削除した案件である。
公衆トイレの個室を占拠するような悪事を、夢の中とはいえ働いてしまった事実に自己嫌悪だ。
「だって天音君が美味しいから」
「なんで俺が悪いみたいに……」
「ボクをダメなサキュバスにするくらい美味しいから~!」
蜜夢レンは廊下でもだもだと身もだえする。
天音響は話題を変えたくて咳払いした。
「とにかく、具合が悪いってわけじゃないんですね?」
「うん、大丈夫。ってかどこ行ってたの天音君」
「ちょっと図書館に」
「えー? 勉強? えらーい!」
「ええまあ……一応お世話になるわけですし」
「ふん?」
「夢魔についての勉強を」
天音響は、楽浄奏オススメの夢魔本を鞄から取り出して見せる。
その瞬間、蜜夢レンは顔色を変えた。
「あぁああー! そ、その本はダメだよ天音君!」
「え? 嘘が書いてあるんですか?」
「じゃなくて、詳しすぎる系」
「はぁ?」
「ってか魔物狩りの大御所みたいな人が書いた本だし! めちゃめちゃ悪く書かれてるんだよ夢魔のこと!」
へえ、と天音響は声を上げる。
逆に興味の出る情報だ。
「魔物狩りって……そんな『ブラザーグリム』みたいな存在が……」
「あ、あの映画面白かったよね~ボクもめっちゃすき」
「いるんですか」
「いるんだよ天音君! あれの比じゃないやばいのが! 魔物絶対殺すマンみたいなのがいるんだよ! ってかその本ぜったいパパに見せちゃダメだからね! その人とパパすっごい仲悪いから!」
「え! 著者と知り合いなんですか!?」
「百年くらいまえに殺し合ったって言ってた」
「時代のスケールが大きい! って殺……えぇ!?」
「弾圧がすごかったんだよ、百年くらい前って。だから日本に逃げてきたの」
「へ、へぇ……なるほど……苦労してるんですね、意外と」
「ねぇ。意外とねぇ」
しかし、そうか。
本なのだから当然著者がいるわけだ。著者が実在の人物ならば、その知り合いがいるのも当然だし、うっかり百年前の人物の知り合いとエンカウントしてしまうことだってあるだろう。
なにせ夢魔が実在する世の中だ。
天音響は感心して本の表紙を撫でる。
そう考えると、本とはなんと不思議なものか。
「ってかさ、天音君」
「はい」
「聞けばよくない? 本人に」
「はい?」
「夢魔のこと」
「それはちょっと」
「え、なんで!?」
「なんか……セクハラみたいじゃないですか……」
天音響は気まずい気持ちを隠して蜜夢レンから目を逸らした。
しかし反応がないのでちらと横目でその様子をうかがうと、まるで人類言語が理解できない宇宙人のような表情で蜜夢レンがじっと天音を凝視している。
「なんですかその顔は! 女性に夢魔について説明させるなんてダメでしょう常識的に考えて!」
「でもボクはその夢魔なわけで……」
「そ、それでもなんか嫌なんですよ! とにかく俺は本でちゃんと勉強するので!」
「えー! やだよぉ天音くぅん! その本よんだら天音君が夢魔嫌いになっちゃうよぉ! 夢魔のよくないとこだけ抜粋した偏向書物だよぉ! 読むんだったらえっちなラブコメ漫画にしてよぉ!」
蜜夢レンは泣きごとを言いながら、立ち上がった天音響に取りすがった。
それはさながら、先日のデモーガン社長のようだ。
やはり血は争えない。
天音響はため息を吐いた。
「――なりませんよ」
「ふぇ?」
「この本にどんなに悪いことが書いてあっても、それはレンさんがした悪事じゃないですから」
「……でも」
「大体、種族単位で見たら人間だってヤバイじゃないですか! ヤバめの犯罪の歴史だけ読んで“人間嫌い”っていうやつがいたらそいつがヤバいでしょう!」
「でもぉ!」
「じゃ、俺今からこの本読みますので」
「やだー! 天音君のえっち!」
天音響は蜜夢レンを振り払い、本と共に自室のベッドにダイブした。
先日蜜夢レンに「勝手に部屋に入ってこないでほしい」と要求していらい、蜜夢レンは律儀にその約束をまもっている。
ゆえにこの部屋は天音響にとっての結界だった。
天音響は本を開いた。
分厚いハードカバーの本だけあって、序文からして難解だ。翻訳本特有のややこしい言い回しが連続し、天音響は「夢魔のページだけ先に読もう」と目次を眺める。
「夢魔のページだけも結構あるな……さすが楽浄さんオススメの資料だ……」
内容が濃い。
そして夢魔に対する憎悪がすごい。
挿絵や資料写真の挿入も多いので、百年前の本という気はまるでしなかった。
発行日を確認すると、この本が翻訳出版されたのは二十年前らしい。百年前の本に、百年前の資料やらを組み合わせて、現代の本としてよみがえらせたということか――。
夢魔を描いた絵画の資料もたくさん載っているが、不思議なことに角と羽根と悪魔の尻尾というような容姿で夢魔が描かれていることは少なかった。
それどころか、不気味な小男が女性の胸の上に座っていたり、そもそも人間の姿とまるでかけ離れていたりする。
蜜夢レンがこの本を嫌がった理由が、読んでいて少しわかった気がした。
自分の所属する集団が、故意に悪い方向に歪められた資料――しかもそれは完全な嘘ではなく、詳しすぎるといわざるをえないほど事実に即して書かれている
「――天音君は、ボクの尻尾や羽も好きなんだね」
「へ?」
背後から声をかけられ、天音響は顔を上げた。
目の前には蜜夢レンがいて、腰の羽を開いたり閉じたりして見せる。
「え!? あれ、なんで……!? 勝手に部屋には――」
「入ってないよ。だって、ここは天音君の部屋じゃないし」
天音響は愕然とした。
周囲を見回すと、そこはまるでベルサイユ宮殿の庭園のような空間だ。
ありえない。一瞬前まで、天音響は確実に自室のベッドにいた。
ということは。
「寝落ち!? 難しい本を読みながら寝落ちしたのか俺は!」
「そんなに慌てないでよ、天音君。ボクに会うの、そんなにやだ?」
「やだとかではなく……やだとかではなく……!」
天音響は庭園のベンチで、鳥の声を聴きながら蜜夢レンと対峙する。
古めかしい装束だった。
ゆったりとしていて、全身を覆っていて、けれどその薄絹は、下着すらつけていない蜜夢レンの全身を日の光のもとにさらけ出している。
当然、腰の翼も、長い尻尾も。
「結構いるんだよね、夢の中だと、ボクの尻尾や羽をはぶいて完全な人間にしちゃう人。でも、天音君はボクのそのままの姿を見てくれるんだ」
蜜夢レンは、尻尾をそっと指に絡めた。
指の腹でこするようにすると、唇の隙間から「あ」と甘い声がこぼれる。
「へへ……前にも言ったけど……ぁ……尻尾とか羽って、夢魔にとって……ん……すごくえっちな所なの。胸やおしりよりずーっと。だ、大事なところだから……ぁ、あ……大事な人にしか……触らせてあげないんだよ……ッ」
言いながら、蜜夢レンは天音響の頬を尻尾の先でついと撫でた。
天音響は恐る恐る、蜜夢レンの羽に手を伸ばす。
けれど、蜜夢レンはするりと逃れた。
「だめだめ。ボクの大事なところに触りたいなら、君もボクに大事なところを触らせてくれなくっちゃ」
蜜夢レンはぺろりと唇をなめた。
「教えて、天音君。君の恥ずかしくって大事なところ、いっぱい触ってあげるから」
蜜夢レンの指が、天音響の下半身に伸びる。
つ、と爪の先で下から上へとなぞり上げられ、大きく広げた手のひらで、敏感な部分をすりすりと撫でられる感触に、天音響はうめいた。
「そ、そこは……レンさん……ッ……そこ、は……」
※
夢
↓
現実
※
「そっ……そこはダメだってぇええぇ!」
天音響は悲鳴をあげて飛び起きた。
借りた本を枕にして寝ていたことにはっと気が付き、本が曲がったり汚れたりしていないことを確認してほっとする。
そして、気配を感じた。
ドアの外――リビングにいる蜜夢レンの気配を。
「……くそ。よりによってレンさんがいるときに寝落ちるなんて……!」
蜜夢レンは忙しい身の上だ。
通常、天音響は朝に性夢を見て目覚めても、蜜夢レンはすでに仕事に出かけているので、夢の内容を把握されている気まずさに身もだえることはめったにない。
だが、だからといって閉じこもっているのも、なんとなく違うような気がして――。
天音響は恐る恐る、リビングに顔を出した。
リビングはダイニングキッチンとつながっており、キッチンはアイランド式だ。
そんなアイランドキッチンで、蜜夢レンがるんるんと鼻歌を歌いながら、コーヒーをドリップしている最中だった。
大理石と黒を基調としたインテリアは重厚な高級感があって、パステルカラーな蜜夢レンとはいささかイメージが合わない。
蜜夢レンは天音響に気づくと、にっこりと微笑んだ。
「ごちそうさま、天音君」