天音響の秘密
天音響には人に言えない秘密があった。
悪事を働いているわけではない。
清廉潔白という言葉は天音響のためにあるような言葉で、目の前に困っている人がいたら自分を犠牲にしてでも助けずにはおれない性分だ。
今朝などは通学途中、ギブスで固定された足を引きずって歩く会社員に席を譲り、満員電車で痴漢に苦しむ気弱そうな男子中学生をさっそうと救い出し、階段で立ち往生しているベビーカーの運搬を手伝った。
「天音君ってまじめだよね」
「天音君に怒られるぞ!」
「天音君に聞けば分かるよ」
クラスメイトが天音響の名を口にするとき、尊敬とも、飽きれとも、からかいともつかない不思議な親しみの感情が込められる。
そう――天音響はまじめな男子高校生であり、真面目ゆえに少々融通が利かない部分もありつつも、みなに信頼を寄せられているクラス委員であった。
四角四面。
天音響をよく知る者にとって、天音響ほど人にいえない秘密から縁遠い存在はない。
だが、あるのだ。
――否。
できてしまった。
たいそうな苦学生であることは周知の事実であるし、リストバンドで隠した手首の傷も、秘密というのとは少し違う。場所が場所だけにいらぬ誤解を与えるのを避けているだけで、その実態は五歳のやんちゃな思い出の傷跡だ。
彼女いない歴イコール年齢――天音響は、その事実を恥ずべき事柄とはわずかばかりも思っていない。学校は勉学の場であり、男女関係にうつつを抜かすような場所ではない。
では、逆にだ。
逆に、天音響に恋愛経験があったら?
恋愛ならばまだいい。学友同士の間に育まれる清らかな、それでいてはかない恋心――いいではないか。彼女いない歴と同様、それもなんら恥ずべきことではない。
けれど、もしその関係が清らかでなかったら?
愛ではなく契約で――金銭でつながった関係だったら?
そんな女の子と手をつないだり、あまつさえキスをしたり、だ、だ、だ、だ、抱き合ったりしたらどどどどどど――!
「天音君。汗ダクダクだけど大丈夫? まだクラス日誌終わらない?」
「は……! い、いや、大丈夫! もう終わるところだよ楽浄さん!」
放課後。
クラス日誌に向かったままペンを握りしめていた天音響の額に、楽浄奏はぺたりと白魚のようにやわらかな手のひらをあてる。
「なんだか今日は一日中落ち着かない感じだったけど……具合でもわるい? 言ってくれたら仕事くらい変わるのに」
「お、俺は落ち着いてるよ楽浄さん!」
「でも廊下で野球ごっこしてる生徒をスルーしてたよ」
「バカな!? 俺がそんな危険行為を見逃すなんて!」
「みんなザワっとしてたし、先生はスクールカウンセラーの出動を検討していたよ」
天音響が他人に危険が及びかねない迷惑行為を見逃すなんて、それほどの異常事態だ。
天音響は自分を恥じた。
楽浄奏はふと微笑む。
「大丈夫。今日は天音君の調子が悪いって気づいたみんなが、問題を起こさないように過ごしてたから」
愛されてるね、天音君。と楽浄奏は言った。
それは慰めるような言い方ではなく、ただ事実を口にしているように思える。
天音響と同じく、楽浄奏もクラス委員長だ。
校風によって委員長と副委員長という分け方はされておらず、どちらも「クラス委員」として並列に名を連ねている。
けれど実際に選挙などをしてみれば、天音響よりずっと多くの票が、楽浄奏に集まるだろう。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
楽浄奏は大和なでしこを絵に描いたような存在であり、成績優秀にして剣道部の主将も務める、まさに文武両道といったクラスの憧れ的存在なのだ。
切れ長の目は厳しく、繊細なシルバーフレームの眼鏡のせいもあって冷ややかな印象を与えるが、少し話せばそれが容姿による偏見でしかないとよくわかる。
天音響が楽浄奏と名を連ねることをクラス全員から許されたのは、ひとえに「ほかの男にそのポジションを取られるくらいなら天音君に頼んだ方が安全だ」という、いわばほかの男に対する防波堤のような意味合いが強いだろう。
天音君なら大丈夫。
その絶対の信頼は、小中高と天音響がこつこつと積み上げてきた実績のたまものである。クラスの気弱な生徒がなんらかの頼みごとをするとき、最初に声をかけるのは間違いなく天音響だ。他クラスの生徒でさえ、困っているところに天音響が現れると露骨にほっとした顔をする。
そして天音響はそんな風に他人から頼られることが好きだった。
同時に、それは「頼ることが苦手だ」の裏返しでもある。
「いや、本当に大丈夫。ちょっと『マシニスト』の主人公みたいに寝不足気味なだけ」
天音響はつくろい笑いを浮かべて言った。
楽浄奏はメガネの向こうでぱちぱちと目を瞬き、
「『マシニスト』の主人公レベルに寝不足だったら大ごとだよ、天音君」
と笑った。
「それにその映画、知ってる人少なくない? 古いし結構マイナーな映画だと思うけど」
たとえに使うのには不適切だよ、と楽浄奏は助言する。
しかし天音響はぐいと眼鏡を押し上げて不敵に笑った。
「これは一種の合言葉だよ、楽浄さん。確率は低いけど、理解してもらえたときの〝同士をみつけた……!〟感はとても大きい」
「なるほど」
「――というか、よく知ってたね楽浄さん。古くて結構マイナーで暗くて救いがない映画なのに」
「一時期不眠症で、なんだかシンパシーを感じたの」
「分かるよ。映画にシンパシーは大切だからね」
「あ、私いいもの持ってるよ。『マシニスト』的な陰気で悲惨な結末を回避できる系の」
楽浄奏は通学かばんを開き、中から小さな袋を取り出した。
ふわりと甘い香りがする。
「……これは?」
「安息香のにおい袋。これを枕元に置いておくと、リラックスしてよく眠れる――と、私は思う。私の好きなアイドルのおすすめ商品」
「え、意外だな。楽浄さんもアイドルとか好きなんだ。なんてアイドル?」
楽浄奏はさっとほほを赤く染めた。
「……秘密」
ぽつりと言って、楽浄奏は天音響の手から日誌を奪って歩き出した。
「あ、ちょ、ちょっと楽浄さん!?」
「あとは私がやっておく。早く帰らないとバイトに送れるよ、苦学生」
悪戯っぽく笑って、楽浄奏は教室を去った。
天音響は、放っておいても大丈夫だと周囲の人に思われがちだ。事実、天音響はあらゆることを自分一人でこなすことができたが、楽浄奏はそんなことなどお構いなしに、誰に対しても平等に手を差し伸べた。
あんなふうな性格だから、楽浄奏を慕う者は非常に多い。
――楽浄さんには、俺みたいな秘密ないんだろうな。
ふと、そんな風に思った。
楽浄奏が秘密にしたいことなんて、どんなアイドルが好きかどうかという程度で、知られて即座に学園生活が終焉に導かれるような類ではない。
だが、天音響の秘密は違った。
この秘密を知られたら最後、天音響は二度とまともな学園生活を送れない。
よく眠れるという安息香――いっそ夢も見ないほど深く眠れればいいのにと思う。