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第37話「つかの間の休息、恋する阿呆」

東京都渋谷区


外見:緑川 湊

中身:紫苑寺 咲


 図書館からアルバイト先へと向かいます。

 図書館がある住宅街から家の前を通る大通りに一度出ます。その坂道の大通りを上っていけば私がアルバイトをしているカフェ「みらんだ」のあるビルが見えてきます。


 お店自体は地下にあるので表から見えるのは控えめに設置された電飾看板くらいです。

 白地のプラチック板に小さな島と店名「みらんだ」が書かれたその看板は、ビルに対して新しく、このお店自体がまだできて、日が浅い事を伺わせます。



 雑居ビルの地下一階、木目調の壁で統一された階段の外装と青銅の看板を目印にされると無事に見つけることが出来る小さなお店です。

 階段を降りて、店内に入れば扉に付いた鈴の音と、茶色のエプロンをした女性が一人で出迎えてくれます。



「いらっしゃ……あら、緑川くん。もうそんな時間ですか~」



 お客様と勘違いして挨拶をしてくれたのはこの「みらんだ」の店長さんです。小柄で、少し天然なところがある可愛らしい女性です。


「はい、お疲れ様です。地下だと時間感覚なくなっちゃいますよね」


「そうなの。それにお客さんも来ませんから……」


 店内を見渡せば店長さんの言う通り、有線の曲が独りでに寂しく流れているだけで、お客様は誰もいませんでした。


(どうしてこのお店はこれでやっていけているのかな?)


 ディナーの時間には、お酒の提供もあるとは言え、居酒屋のような気安さはないせいか一日中、混み合うことはあまりないです。


「違うのよ。今、誰もいないだけでさっきまでお客さん来てたのよ?」


 私が店内を見渡して黙りこくっていたせいか、内心を察したのか店長さんが慌てて取り繕います。しかし、その慌てる姿も可愛らしい店長さんです。


「はい、分かってます。それで今日はどうしますか?」


「うん、今日はこれからお昼おやつ時間だからパンでも切ってもらおうかな」


 しかし、それでも店長とだけあって、お店のことはしっかりこなします。それに読書が趣味だそうで店の壁を覆い尽くさん、とする蔵書量からその度合いを測り知ることが出来ます。それは、さも当然と居座っていてお店の飾りのようですが、実際は店長さんの趣味で集められ、暇さえあれば読まれている実益の塊です。


 私は、すぐにお店のバッグルームに回り、着てきた白のワイシャツ、黒のチノパンの上からお店の名前が刺繍された茶色地の腰掛けエプロンを身につけました。



「お待たせしました。それではやりましょう! 」


「じゃ、これ緑川くん用の包丁です」


 パンを切るためのギザギザした刃の包丁を渡されました。今日は昼時間帯向けのサンドウィッチ用のバンズを用意します。ただ、二人でパンを切っていてもつまらないので、店長さんが話しかけてきてくれます。


「緑川くんは、カフェと喫茶店の違いって知ってますか?」


 店長さんはサンドウィッチ用に野菜をスライスしているところでした。細長い包丁の切れ味は良いようでそれほど力を入れているようではないのに、トマトやキュウリが山のようにスライスされていきます。



「えー分からないですね。英語と日本語の違いではないですよね?」


「違いますね~。何かがあって何かがないんです」



 店長さんは作業を続けながら口笛でも吹き出しそうな気軽な口調で、楽しんでいるのが分かります。



「ヒントは店名です」


 そういうと、店長さんは野菜をスライスし終わったのか、棚からコーヒーミルを取り出しました。


 このカフェの店名は「みらんだ」です。これは何かのキャラクターの名前のようです。が、多分、元々は「ミランダ」でしょう。そしてここは地下にあるお店でWi-Fiがなければ電波も入らない孤島でしょう。また、そこで働くのは若い女性店長さん一人。

 前に見た、お店の看板に書かれたコンセプトは「魔法のようなひとときを――――」でした。



 私はそれらに散りばめられたヒントから一つの解を導きました。



「神様の飲み物ですか?」



 パンを無心に切りながら答えたら、横でしていたコーヒー豆を挽くリズミカルな音が止まりました。


「店長さん?」


 手を止めて見てみると驚きで口が開いてしまっている店長さんが固まっていました。目を合わせると慌てた様子で答えます。


「せ、正解です。よく分かりましたね」


「はい、シェイクスピアのテンペストからですか? 」


「カフェではアルコールの提供があって喫茶店では基本的にはそれはありません。テンペストに出てくるキャリバンという怪物はそれを神さまの飲み物と勘違いするくらい嵌まるのですが……このミランダというのは主人公、ミラノ公の娘なのですが、ミラクルの語源とも言われ、驚きや不思議といった意味があります」


 どこか自信に満ちたような表情の店長さんは、完全に下ごしらえの手を止めてしまっています。


「いつかこの洞窟での生活から救い出してくれる王子様がこないかなってこの名前にしました」


 完全に夢見る乙女な目をした店長さんにかける言葉は他に見つかりませんでした。


「きっと来ますよ。テンペストは喜劇で終わらなきゃいけませんから」


 笑いながら私はそう、店長さんを励ましました。読書家だけでなく、メルヘンな所もある店長さんです。


「そう……だよね! 今日にでも来ないかしら。世界はこんなにも美しかったのですねって言いたいんですよね~」


 ミランダが恋人をゲットする前に、その恋人となる人は、迷いながらここにたどり着き、全く知らない老人に無理難題を突きつけられる姿を想像してみました。それはあまりに滑稽で、現実的ではありませんでしたが、決して店長さんには言いませんでした。

 優しい心を持っていればいつか叶える事が出来るはずです。同じ本に収録されている「夏の夜の夢」にはこうも書いてあります。


『恋する阿呆は死ぬほどばかをするもんだ』



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