第32話「初めての外出、初めての田舎」
和歌山県新宮市
外見:紫苑寺 咲
中身:緑川 湊
朝から目が冴えていた。というよりも遠足前の子どものように眠れずに朝を迎えてしまっただけだ。咲には外出許可が取れればとはいったが、退院許可まで貰うことができた。病院にいても治療のしようが分からないのであれば、居てももう手の施しようがないのだと。
だとしても、俺には嬉しいことだった。もう、この白ければ良いと言わんばかりの壁や天井を見ずに済むのだ。それにせっかく、こんなにも自然豊かで美しい清らかな地に来られたのだから街を見たい。窓から見るだけではむしろ不満が溜まる一方だった。
荷物は大方、咲のお母さんが昨日のうちに持っていってくれたおかげで小さな鞄一つだけだった。そしてその時、持って来てくれた外着を来たのだが、部屋の化粧室に備え付けられた鏡に映る姿は大変可愛らしい。もう外は春が終わりだというのに桜色をしたワンピースだった。
しかし、外面と違い中にいる俺はだいぶ恥ずかしい気でいた。そして、ワンピースという服があまりにも心許ない衣服で風通しが良く涼しいということを学んだ。
「それじゃ、咲さん行きますよ」
初めて見る女性だった。黒のスラックスに半袖のYシャツでフォーマルな格好だが、咲と同じくらい長い黒髪をポニーテールにしているせいかスポーティーな印象を受けた。
その女性と一緒に来ていた美波が耳打ちで、名前は諏訪さんでおじいちゃんの所で働く神官の一人だと教えてくれた。
その美波はというと、白の薄手のYシャツにショートパンツという大変夏らしい格好で、俺一人だけが季節から取り残されてしまった感じがした。
病院を出ると太陽は高く、これからの暑さを予感させた。諏訪さんが持って来てくれた帽子はつばが広くお嬢様と言われんばかりで恥ずかしくてかぶれずに手に持ったままだ。
諏訪さんは、神官だとは聞いたがどうやら運転手も勤めるようだ。付いていくと駐車場に止まっていた黒の外国製高級車に乗り込んだ。
(お嬢様だと思っていたが想像異以上な気がしてきた……)
ふかふかの革張りのシートに沈み込み、車窓を眺めていると徐々に町並みは山並に変わっていく。これじゃ、街には気軽に遊び行けないのも分かる。しかし、緑濃い森林の木は無計画に立ち並び、人間が手を入れたような跡は見られない。それがこの山を世界遺産へとさせた熊野の特殊性かは俺には判別がつかない。
山道を進み、川沿いに出ると大きな民家が目に入った。日本庭園のある大きな和風建築の家だ。派手な建築で景観を損ねない配慮がされているようだ。時代が違えばここには城が建っていたかも知れない、そう思わせる威厳を感じる。
車が門を抜けた先には使用人が頭を下げて待ち構えていないか少しわくわくしたことは誰にも言えない。
「使用人が待ち構えていそうとかちょっと考えてたでしょ? お手伝いさんは何人かいるけど期待してるような感じじゃないよ」
一緒に後部座席に座っていた美波が小声で、俺が墓まで持って行こうとしていた内心を言い当てられてしまった。
美波は前にも家に来たこがあるようで慣れているのか部屋まで先導してくれた。
同級生の女子の家に来ること自体が初めてな上に、ここまで豪華な家で完全に萎縮した俺は借りてきた猫のようにびくびくと縁側の廊下を誰にも会わないよう願いながら歩く。
「さ、ここが咲の部屋だよ。絶対、荒らしたらダメだからね!」
「わかってるよ……」
そう生返事をした俺、咲の顔を美波が覗き込んだ。
「何かただでさえ白い咲の顔が白いけど大丈夫?」
美波が見てそう思うなら実際そうなんだろう。ずっと病院の中で過ごして、さらに病気のせいなのか、それとも慣れない山道の移動のせいか疲弊していた。本当ならここでピンクの花が描かれたシーツが綺麗に掛けられた咲のベッドに飛び込みたい。しかし、そうしたらもう今日は起きられない気がした。
「少し、休ませて。そのあと家の案内して貰いつつ資料とか探してみよう」
「うん、わかった。諏訪さんに言ってお茶とか貰ってくるね」
そういうと俺を一人置いて美波は部屋を出て行ってしまった。さっきはああ言っていたがそれなりに俺のことも信用してくれているのだろう。
少しでも休憩しよう。深呼吸をして部屋に籠もった空気を吸い込む。普段とは違い、肺が小さいので思ったより吸い込めずむせた。
それでも女子特有の良い匂いが少しした気がする。しかし、部屋の掃除が行き届いている。換気もされていているだろうから気のせいなのかも知れない。
部屋は一応和室ではあるが、ピンクの丸いラグが敷かれた上にローテーブルが置かれおり、部屋の隅に大きなベッドが置いてあって家具は洋風だった。そしてなにより目を引くのは天井まで伸びた本棚だ。しっかりと出版社別、サイズ別、作家別に分かれており咲の性格が表れている。古典からファンタジー、SFジャンルは特にこだわりなく揃っている。まるで本屋そのものだ。本好きとしては何か一冊手に取りたくなる。だが、それを遮るようにお茶を取りに行った美波が帰ってきた。
「おまたせ、紅茶とクッキーくれたよ」
美波が部屋に入った途端、柑橘系の匂いがふわっと漂ってきた。
「アールグレイにはリラックス効果があるから休憩にはもってこいって諏訪さんが言ってたよ」
「そうなんだ。いただきます」
休憩に出すお茶にまで心遣いしてくれる諏訪さんの優しさに心からの感謝をその一言に込め、ゆっくりと紅茶を口に含んでいく。
病室とは違い、初めての部屋でローテーブルを挟み、女子と迎合ってクッションに座ったせいかあまり、気が休まないのではという不安が紅茶によって氷のようにゆっくりと、確実に、溶けた気がした。
病室の方が慣れた部屋になってしまっているのがなんだか不思議な気がした。
美波によるとここは母方の実家らしく、昔はこのあたりの地主だったようだ。
美波は、家に何回も来ているが外にある倉には近づいたことがなく、もしかしたら何かあるかも知れない、と疑っているらしい。
だが、紅茶で完全に溶けきったせいか、もう動くこともままならないほどの睡魔がやってきた。
「緑川くん?」
心配そうな声だけが聞こえたような気がしたが、そのまま俺は布団に突っ伏した。このまま目が覚めないという可能性を微塵も感じることなく。