第1話「私の暮らし、私の街」
3月23日(木)
和歌山県新宮市
紫苑寺 咲
私は生まれつき身体が弱く、喘息を患っています。両親はそれもあってか私が物心付く前にこの街、和歌山県は新宮市へと引っ越してきた程です。
ですが、見知らぬ街に引っ越したわけではありませんでした。
母方の父が、私から見たらおじいちゃんが、この街で神社の宮司をしていました。自然豊かで、知り合いも居て、土地勘のあるこの地は私の療養場所として丁度良かったのです。
海が近く、それから街の周囲を護るように伸びる熊野川が、世界遺産にもなった緑濃い山へと続く、この街が私は大好きです。
長期休みには、調子が良ければ、宮司をしているせいか、礼儀作法に少し厳しい所があるおじいちゃんと、それをなだめる優しいおばあちゃんと熊野の古道を歩くこともありました。
また、おじいちゃんの神社には、いつも学校と家を送り迎えしてくれる神官の諏訪さんが修験するために生活を共にしています。そういう神官さんは、何人か居るのですが、女性である諏訪さんとしか関わりがありませんでした。
今日は、春休み前の大掃除が早く終わってしまい下校時間が早くなってしまいました。諏訪さんが迎えに来る前に、私から神社に行ってしまうことにします。
神社の敷地は、高校と面してはいるのですが、高台にあり、入り口は少し離れた場所にあります。高校の前にある片側一車線の県道を歩いて踏切を渡った所に神社への参道入口があります。
本堂まで少し歩くことになりますが、海が近く、風のおかげで春の陽気が暖かすぎる心配はありません。
(あ、諏訪さんに神社に行くって連絡をするの忘れていた。)
参道の中腹あたりに車でも入れる道があり、そこには駐車場があります。そこにいつも迎えにきてもらうのですが、急なことで頭から抜け落ちていました。携帯電話の操作が苦手なのでつたないながらも、どうにか諏訪さんの連絡先を表示させます。
諏訪さんはまだ神社の社務所を出ていなかったようでコール音が鳴って、すぐに出てくれました。
『はい、咲さんどうされました?』
諏訪さんの明るく、お腹からしっかりと出された大きめの声でした。私の声は、諏訪さんとは対照的に声が小さいのでさらに弱々しく聞こえます。
『うん、学校が早く終わったから学校まで迎えに来なくて大丈夫です。』
『分かりました。ゆっくり来て下さいね。伊勢の赤福があるので食べるのを待っていますね。』
諏訪さんは、声は大きく、食べ物もよく食べますが線の細い守りたくなるような可愛らしさがある女性だと思います。
しかし、前に一緒に温泉に行った時に見た身体は筋肉質な気がしました。昔、何かのスポーツか武道をしていたそうです。
ちなみに、赤福というのはすごく柔らかいお餅をいっぱいのこしあんを指で包んだような三つの筋が入った、お隣、伊勢のとてもおいしい和菓子です。
電話を切り、あと少しで拝殿と本殿がある台地の手前にある階段の踊り場で脚を止めます。
本殿が山を削ったような山頂付近にある神社なので参道には階段が多いのですが、いつもは途中で休むことなく本殿まで行けます。しかし、今日は動悸がして脚が止まってしまいました。週に一,二回は登っているので体力が無いわけではないと思うのですが……。
(大掃除で知らないうちに疲れていたのかな?)
階段の途中でも、すぐ裏手に広がっている太平洋が一望できます。
海を眺めながら心臓の高鳴りを感じます。少し休憩してから登ることにしました。
「咲さん、遅かったですね」
拝殿の脇に建っている社務所に入ると、待つと言っていたのに先に赤福を食べている諏訪さんが出迎えてくれました。
「諏訪さん、食べるの待ってるって言っていたじゃないですか!?」
「咲さんが遅いからですよ。ほら、おいしいから食べて下さい。」
満面の笑みですでに半分ほどになっている赤福が入った箱を差し出してくれました。少し怒っていたけれど諏訪さんの笑顔を見ると怒れなくなってしまう徳な人です。
社務所の奥には、神官さん達がゆっくりできる居間のような部屋があります。いつもそこで、お喋りしたり、テスト期間は勉強したり、お茶してから家に送ってもらっています。
部屋に入ってすぐ、座布団に座ると諏訪さんはお茶を煎れに部屋から出て行きました。
おじいちゃんはこの時間は表でお仕事をしているので私が社務所に来ても顔を合わすことはあまりありません。しかし、原因は仕事が忙しいだけでは無いと思います。たぶん、部屋の一角にある祖霊舎がそうだと思います。
祖霊舎は、仏教で言うところの仏壇で、神道では亡くなった方を神様として拝むそうです。神道とは無関係な生活をしているので神棚と同じような感じかな、くらいの認識です。
祀られているのは昨年、夏に亡くなった私のおばあちゃんです。おじいちゃんのブレーキ役でした。口癖が「まあまあ」で、勢い付いたおじいちゃんを止める、いつも穏やかなおばあちゃんが大好きでした。
ブレーキ役のおばあちゃんが居なくなってしまって、おじいちゃんも孫の私との距離感が分からなくなってしまったようです。それに、ブレーキがないせいかアクセルが踏み込めなくなってしまったようで、前のような元気もなくなってしまったように感じます。
祖霊舎を見上げて考えていたら、部屋のふすまが開きました。
「お待たせしましたー」
お盆に二つの湯飲みと急須をのせた諏訪さんが戻って来ました。どうやら諏訪さんはまだ食べるようです。
「じゃあ、食べましょうか!」
彼女の再びの笑顔は私の疲れを少しだけ吹き飛ばしてくれたように思えます。
ほんの少しだけ……。