その9 乳と卵
乳と卵(川上未映子、文藝春秋、2008年)
川上未映子さんの代表作『乳と卵』。物語の中で起こることは、東京に住む『わたし』の元に、大阪から姉・巻子とその娘・緑子がやってきて、二泊三日で帰っていく、たったそれだけのことです。
しかしながら、その独特のリズムを持つ文章に練りこまれた、回転量、みたいなものは半端ではないです。なんといえばいいのか、模型飛行機の、ゴムが動力のプロペラを回して回してひたすら回したのを指で留めているような、静止の中に含まれる、膨大なエネルギー。また、それが開放されたときの、尋常ではないプロペラのスピードと、飛行機の急激な加速。特にクライマックスは凄まじいです。私はこれから一生、スーパーで十個入りパックの玉子を見るたびに、この作品を思い出すことになるのでしょう。
玉子。たまご。卵。○。
冒頭、なにはともあれ『卵子』の話から始まります。卵細胞。生物学の分野では、ふつう、それは単に『卵』とだけ呼ばれます。そこに『子』の一字がくっつくのは、『精子』という言葉に対応して用いられる場合です。つまり、卵のことを卵子と呼ぶ場合には、必ずそこに精子という概念が存在し、ひいては受精、すなわち新たに生まれる『子ども』を想定していることになります。
子どもを生んだことによって不幸になっているようにしか見えない巻子。緑子は、そんな母に同情しつつも嫌悪を抱き、〝子どもなんか生まへんと心に決めて〟います。他方、語り部である『わたし』は、今のところ子どもはなく、〝今月も来月も受精の予定は、ない〟ようです。
子どもにまつわる三人の現状や態度は、彼女たちの名前に象徴されているように思います。
母の名前は、巻子。これは『子』の字がなくなると、『巻』になります。それ一文字では名前として成立しにくく、やや不自然な感じになってしまいます。実際、巻子は子どもを生み、シングルマザーとして一緒に暮らしています。
娘の名前は、緑子。これは『子』の字がなくなっても『緑』で、一文字でも立派に名前として成立します。自分の体内には卵子がある、けれども子どもを生むつもりはない、という緑子らしい名前と言えるでしょう。
『わたし』の名前は、『夏』の字が入ること以外わかりません。仮に、姉の巻子から類推して『夏子』だとすると、これは緑子と同じ、子があってもなくても成立する名前です。しかし、『わたし』は作中では最後まで、あくまで『子』のない〝夏ちゃん〟としか書かれません。そこに、『わたし』と、未来でどう転ぶかわからない緑子との、何かしらの違いが表れているように思います。
乳房と卵子。前者は外から見えるもの、後者は内に抱えているもの、という違いはありますが、いずれにせよ、肉体という容れ物に貼りつけられた、取り去りがたい『女』というレッテルです。
これは、そんな容れ物の、中の人たちのお話です。
@wiki 川上 未映子(かわかみ みえこ、1976年8月29日 - )は、日本の小説家、詩人、ミュージシャン、女優。音楽活動時は未映子名義も使用する。血液型はB型。