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その5 村田エフェンディ滞土録

村田エフェンディ滞土録たいとろく梨木なしき香歩かほ、角川文庫、2007年)

 淡い水彩のタッチで描かれた、松ぼっくりみたいな形の花と、馬とも驢馬ともわからない四つ足の動物、そして大小いくつかのドーム型の建物と尖塔が寄り集まったおそらくはどこかの宮殿――見慣れないモチーフなのにどこか懐かしい、そんな表紙に惹かれ、その薄めの文庫本を手に取って、初めのページを開いてみます。

 すると真っ先に目に飛び込んでくるのは、こんな一行。


〝一八九九年 スタンブール〟


 その右のページには、『スタンブール全景』と題された中村智氏による挿絵が載っています。とある水辺の街の鳥瞰図――右から中央にかけて広がるのは、『金角湾』と『マルモラ湾』に挟まれた半島『スタンブール』。そこに、右手から『スクタリー』『ハイダルパシャ』なる地名が記された半島が突き出し、両者の間には川または海が横たわっています。


 ここまでの説明で、「なるほど描かれているのは『ボスフォラス海峡』か」と気づいた方は、きっと地理や世界史に詳しいのでしょう。


 梨木香歩さんの、一風変わった異国小説――『村田エフェンディ滞土録』。

 内容は読んで字の如く、歴史文化研究のために土耳古トルコにやってきた〝村田〟なる日本人学者が、その滞在中の日常を徒然なるままに語るというもの。ちなみに『エフェンディ』とは現地の言葉で『先生』という意味。なのでわかりやすく言い換えるならば、『村田先生のうるるんトルコ滞在記』とでもなるでしょう。


『村田先生のうるるんトルコ滞在記』――それだけでも十分に面白そうな題材ではありますが、そこはなんといっても梨木さんです。最初の一行にはっきり書かれているように、まず現代の話ではありません。時代は1899年――今から百年以上も昔で、しかも舞台はトルコ――正確にはオスマン帝国――の首都・コンスタンティノープル。また語り部である村田氏も、ごくごく一般的な日本人青年のようですが、明治維新から30年、西南戦争から20年、大日本帝国憲法発布から10年という時代を生きる日本人青年です。


 さて。ここまでの説明で、『日本』『オスマン帝国』『十九世紀末』――というキーワードから『エルトゥールル号遭難事件(1890年)』を思い浮かべられるほどに歴史に詳しい方は、そのまま物語に進んでいってなんの問題もありません。そして村田氏がトルコに滞在するにあたって世話になった『山田』なる人物にピンと来たならば、その方はすんなり物語の世界にトリップしていけると思われます。

 しかし、私の世界史レベルは『明治時代の海難事件』イコール『ノルマントン号事件(1886年)』くらいのものなので、もう少しだけ時代背景をおさらいしておきます。


 さしあたっては、物語の舞台である『コンスタンティノープル』について。作中では日本風に『君府』と呼ばれ、現在では『イスタンブール』の名で通っているこの都市の来歴プロフィールを、ちょっと見ていきましょう。


 まずは、地理的なことから。コンスタンティノープル(現:イスタンブール)を世界地図グーグルマップから探し出してみます。するとその特徴は一目瞭然。すばりコンスタンティノープルとは『ヨーロッパとアジアの架け橋』です。東からはアナトリア半島(西アジア)、西からはバルカン半島トラキア地方(東ヨーロッパ)が、指と指を突き合わせるようにくっついています。この狭間にある非常に細い海路が上記の『ボスフォラス海峡』。海峡の北には黒海があり、南にはマルマラ海が広がっています。


 西はヨーロッパ、東はアジア、北の黒海はロシアに通じ、南のマルマラ海はエーゲ海を経て地中海へと繋がるこの都市は、曰く『歴史上最も重要な都市の一つ』だそうです。建設されたのは紀元前で、その後、330年にローマ帝国皇帝・コンスタンティヌス1世が遷都したのが『コンスタンティノープル(コンスタンティヌスの都市)』の興り。以来、東ローマ帝国の首都として十五世紀半ばまで繁栄し、1453年の『コンスタンティノープルの陥落』を境にして、キリスト圏からイスラム圏の都市へと移り変わり、現代ではその名も『イスタンブール』と改まっています。


 物語の時代設定である1899年は、その『コンスタンティノープルの陥落』をやってのけたオスマン帝国の、六世紀以上に渡る歴史の終末期。

 語り部である村田氏は、そんなオスマン帝国皇帝の招聘によりかの地にやってきて、留学中はスタンブール(コンスタンティノープルのうち、金角湾とマルモラ湾に挟まれた地域のこと)のとある屋敷に世話になります。


 その屋敷には、合わせて五人の住人が暮らしていました。


 一人目は、家主であるディクソン夫人。敬虔なクリスチャンであり、日曜日には教会へと足を運ぶような良識のあるイギリス人女性です。屋敷のほうは、元々は裕福なイギリス商人の持ち物でしたが、その商人一家(ディクソン夫人はその商人の妻の母親です)がイギリスに帰ったあと、一人でコンスタンティノープルに残った夫人が留学生向けの下宿屋として開放したのでした。


 二人目は、語り部・村田エフェンディ。仏陀の誕生日も知らない形ばかりの仏教徒で、性格は真面目というよりも生真面目。〝礼節を尊び、正直で進取の気象に富んでいる〟と評価されれば〝そうありたいものだと思っています〟と恐縮するような、どこまでも典型的な日本人の青年です。


 三人目は、ドイツ人考古学者・オットー。〝仁王像を西洋風に脚色したなら斯くや〟という厳つい顔つきのゲルマーニーで、性格は実直な学者肌。ディクソン夫人と同じキリスト教徒でありながら、夫人が〝神はそもそもの最初から存在していたのです〟と説けば、〝いや、神も生まれ、進化し、また変容してゆくのです〟と反論してみせるような、かちこち頭の青年です。


 四人目は、ギリシア人のディミィトリス。物腰柔らかな美男子で、宗教はギリシア正教。〝ビザンツの末裔〟を自称し、どこか退廃的で、憂いを帯びています。彼もまた村田やオットーと同じ考古学者ですが、その根幹にある情熱は、単なる学術的興味だけにとどまりません。また、彼は叶わぬ恋をしているようです。


 五人目は、屋敷に住み込みで働くトルコ人奴隷(ここでいう『奴隷』とは、ニュアンスとしては日本の『奉公人』に近いものです)のムハンマド。周り全員が(彼にとって)異教徒である屋敷にあって、なお強かに生きるやんちゃなイスラム教徒です。村田氏のことを『エフェンディ』と呼ぶのも彼で、それは〝日本で商売人が誰彼となく先生と呼ぶ〟のに似ています。


 物語は『滞在記』の形式を取り、基本は一章完結で散発的に進みます。よく似た形式のお話としては、夏目漱石の『吾輩は猫である』が挙げられるでしょう。強引になぞらえるならば、猫=村田氏、苦沙弥先生=ディクソン夫人、迷亭=ムハンマド、寒月=ディミィトリス、越智東風=オットーといった具合です。


 つまるところは、『日常モノ』。

 三十以上もの人種が入り交じるスタンブールの街で、生まれた土地も信じる神も異なる個性豊かなキャラクターたちが織り成す日常を、ごくごく普通の日本人・村田エフェンディの視点で切り取ります。その題材もこれまた様々で、時に神について討論したり、淡い恋物語があったり、ローマ硝子を発掘したり、無血革命への協力を依頼されたり、ビザンティンの英霊と日本のお稲荷様とエジプトのアヌビス神が異次元衝突を起こして屋敷が倒壊しそうになったり――などなど、たまにちょっと不思議要素もあったりします。


 やがて季節は移り変わり、村田の元へ届く、母国の大学からの『急ぎ帰国せよ』との通達。

 物語は、そこから急速に終幕へ向かっていきます。


〝一八九九年 スタンブール〟


 最初の一行に梨木さんが施した仕掛け(マジック)が解けるとき、『日常モノ』であったはずの物語は、いよいよその真の姿を現します。特に物語に嵌まっていればいるほどに、結末は心に迫るものがあるでしょう。


 ところで、主な登場人物は上記の五人ですが、実はこの物語には『六人目』とも言うべき欠かせないキャラクターが存在します。彼に名前はありません。しかしながら、とても重要な役割を担います。


 あるいは、もし彼の視点で話が語られたのならば、その一人称は『我輩』だったのかもしれません。

@wiki 梨木 香歩(なしき かほ、1959年 - )は、日本の児童文学作家、絵本作家、小説家。鹿児島県出身。同志社大学卒業。イギリスに留学し、児童文学者のベティ・モーガン・ボーエンに師事する。

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