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夜空を見上げて

作者: いまくるす

改稿:14,01,25


『夏休みの図書館』の続編です。


■登場人物■

アキラ……主人公。図書委員。

ユウコ……アキラのクラスメイト。文芸部。

ケンジ……アキラのクラスメイト。水泳部。

カナコ……ユウコの友達。文芸部。

 ほのかに香ばしい醤油の匂いが漂い始めた。目の前の交差点は、たくさんの人で賑わっている。もちろん車は走っていない。車道の両側には、所狭しと屋台が並んでいる。

 俺は、ユウコから送られて来たメールをもう一度見直す。

『集合場所は、会場に一番近い交差点。呉服屋さんの赤い看板がある所。集合時間は花火大会が始まる七時半。当日は必ずケンジを連れてくる事。以上の事が守れなかった場合、容赦なくパンチしますから、そのつもりで。じゃあね』

 俺に与えられた情報は、この一通のメールのみ。それ以外は何も伝えられていない。

 なぜでしょうか。思い当たる事が一つだけある。

 それは一昨日、ユウコと図書館の掃除を始めてすぐの事だ。

 善は急げとばかりに、俺はあの後すぐ、ケンジを花火大会に誘った。掃除を放り出し、本棚の裏に隠れ、こっそりメールを送ったのだ。

 たぶん、これがいけなかったのだと思う。掃除が終わった時、ズドンと一発、グーで肩を殴られた。どうやらユウコは、俺が掃除をサボっている事に気づいていたらしい。言い訳する暇もなかった。

 それからずっと、だんまりである。メールの返信すら無い状態だ。

 俺は背後にある赤い看板を見上げた。集合場所は間違っていないはず。もしかしたらユウコだけは先に来るかもしれない、という期待を込めて三十分前からここに立っているが、まだ誰も来ない。

 時刻は七時二十五分。頭上には限りなく黒に近い紺色がのっぺりと広がっている。太陽も、月も、星も、何も見えない。さっきまでオレンジ色に染まっていた雲はいつの間にか色合いを変え、ゆっくりと夏の夜空に溶け込もうとしている。

 と、その時、カラコロと下駄の音がこちらに近づいて来るのが分かった。

 俺は、その音に気づいていない風を装い、真っ直ぐ前を見据える。

「……………………」

 浴衣の女の子が三人、楽しそうにお喋りしながら、目の前を通りすぎていった。アップになった黒髪が、小さな歩幅に合わせてひょこひょこと揺れている。仕草もなんだか上品で大人っぽい。だけど、たぶん、歳は同じくらいなんだろうな。

 俺は遠くなる浴衣女子三人の背中を眺めて、フゥと息を吐く。

「お前、あんな感じが好きなの?」

「……おぉ、ケンジ」

 振り返ると、クラブジャージ姿のケンジが立っていた。右手に焼きそば、左手に割り箸というスタイルで、口をモグモグさせている。さて、どこからツッコミを入れてやるべきか。

「いやぁ、部活が終わるだろ? んで、片付けとかしてたら、いつの間にか七時過ぎてるじゃん? それで、ヤベェと思ってブッ飛ばして来たんだけど、やっぱり腹が減ってるわけよ。そしたら、ちょうどいいところに焼きそばの屋台があってさ。そりゃもう、買うしかないよな」

「……あぁ、そう」

「ふん……」

 返事をしながら、ケンジは焼きそばを口に運んだ。肩を怒らせ、一心不乱に、絡まった麺をすすり上げている。しかも、残りがだいぶ少ない。という事は、食べながらここまで来たのだろう。だったら、なぜ焼きそばを選ぶ。食べ歩きをするなら、もっと他にも選択肢があるだろうに。

「まぁ、とりあえず、お疲れさん」

 今更ながら、ケンジって左利きなんだ、なんて事を思いつつ、俺はすっかり味の無くなったガムを口から出した。

「で、ユウコ達は?」

「まだ来てない」

「あれ、そうなの?」

「連絡がつかないんだよ」

「カナコさんも?」

「いや……うん」

 カナコさんの連絡先は知らない。何より、俺はカナコさんとまともに喋った事すらない。一昨日の図書館が初対面だった。

 ここで俺はふと、ある事を思い出す。直感といってもいい。

「……アキラ? どうした?」

 ――ちょっと待って。

 俺は人差し指を立て、ジェスチャーでケンジに告げた。そして、注意深く周囲に視線を這わせる。特に、細い路地とか、電柱の裏とか、物影を重点的に。

 実はもう、あの二人はこの集合場所にいるのではないか。どこかに身を潜めて、こちらの様子をうかがっているのではないか。あり得る。確かメールには、ケンジを連れてこなかったらパンチする、とあった。恐らく、集合場所にケンジがいる事を確認して、それから登場する段取りなのだろう。

 さぁ、困った。せめてユウコが登場するタイミングだけでも聞いておけばよかった。一応、こっちにも準備がある。意気ごみとか、覚悟とか、それなりの、心の準備が。

 背後でドンと音がした。振り返ると、ちょうど一発目の花火が開き切った瞬間だった。

「お、始まった」

 消えかかった花火を見上げて、ケンジがペロリと口の周り舐めた。そして、空っぽになったパックに箸を投げ入れ、輪ゴムでフタをしていく。

「そもそも、集合場所って、ここであってるんだよな」

「ケンジと俺がいるって事は、大丈夫なんじゃない?」

 俺は背後の看板を指差す。もっとも、二人揃って集合場所を勘違いしていなければ、の話だが。

 花火がドドンと打ちあがって行く。小さいものから大きいものまで、ランダムに、乱れ打ち状態だ。複数の低音が小気味良く空気を振動させる。まるでチビッ子がドラムセットで遊んでいるような、そんな感じ。

 交差点の奥が花火大会の会場という事もあり、今いる場所からでも、花火はよく見えた。花火が打ちあがる度に、車道にモコモコと犇めく人々の頭を照らし出している。

「それにしても、人多いな」

 ケンジがフゥと息を吐きながら言った。

 別にいいじゃないか、と俺は思う。だって、人混みの中であれば自然と距離を縮められるじゃないか。他にも……いや、少し落ち着こう。さすがに浮かれ過ぎだ。

「そういえばアキラ、あの時どこにいたんだよ?」

 ケンジが唐突に訊いて来た。

「あの時って、どの時?」

「一昨日の図書館。戸締りに行ったまま戻って来なかったじゃん」

「あぁ、戸締り……」

 そういえば、そういう設定になっていたんだっけ。でも今更、実は隠れて全部見ていました、なんて言ったら張り倒されるんだろうな。適当な言い訳を考えるとしよう。

「そういうケンジだって、俺が戻って来た時にはいなくなってたじゃないか」

「だからそれは、アキラが戻って来なかったから――」

「そういえば、あの本、結局どうしたんだ?」

「あ……あぁ、あの本?」

 ケンジが目を反らした。そのまま宙を見上げる。花火を見ているようだが、どこかわざとらしい。

「あの本は……カナコさんに返した」

「返した? なんで?」

「あの本、カナコさんが借りた本なんだって」

「へぇ、そうだったんだ」

 我ながらわざとらしいと思いつつ、知らない振りをしておく。やはり、又貸しの件は秘密になっているらしい。といっても、アレはもともと図書館の本でもないし、ケンジが本を所持していたとしても全然問題無いのだけど。

 そんな事より、俺が一番気になるのは、又貸しを咎めるような面倒臭いヤツだとケンジに認識されている事だ。それが軽くショックだった。俺、何か言ったか? 正直、全く身に覚えがない。

「そういえば、カナコさん、小説書くらしいぜ」

 ケンジが、嬉しそうに言った。話題を変える良いきっかけが見つけた、という感じだ。

「そうなんだ。例えば?」

 俺はそのまま、話に乗っかる。

「いや、内容までは訊いてない。だけど、文芸部の活動で、書いたりするんだって」

「実はケンジ、もう読んでたりして」

「なんでだよ。一昨日初めて知ったんだぞ?」

「分からんぜ? 一昨日の本、実はカナコさんが『借りた』じゃなくて『書いた』本だった、とかさ」

 俺はさりげなく真実を告げてやる。

「いやいやいや、さすがにそれは――」

 そこまで言って、ケンジは黙りこんでしまった。もしかして、思い当たる事でもあるのだろうか。それはそれで、少しマズイかも。なんとなく、ユウコと共犯であり、同罪な気がする。カナコさん、ごめんなさい。

「ケンジって、カナコさんとはどうやって知り合ったんだ?」

 ケンジの注意を反らすべく、俺は別の話題を切り出す。

「家が近くだったんだよ、昔な」

「あ、そうなの?」

「うん」

 ケンジは近くにゴミ箱を見つけると、焼きそばのパックを捨てに走った。その隙に、俺は新しいガムを口に放り込む。

「まぁ、幼なじみ、ってヤツなのかな? 幼稚園の頃はよく一緒に遊んでたんだけど、小学生になる時にカナコさんが引っ越しして、それっきり。だけど、高校に入ったら、いるじゃん? もうビックリ」

 戻ってくると、ケンジが左手を差し出して来た。俺はガムを一つ、ケンジにくれてやる。

「ジャングルジムに登るのがスゲェ早かった」

「……誰が? ケンジが?」

「いや、カナコさん」

「へぇ、そうなんだ」

「けど今じゃそのカナコさんも女子高生だぜ? セーラー服で、スカートとか穿いてるし。まぁ背がちっちゃいのは相変わらずって感じだけど」

 ハハハとケンジが笑う。お前がデカくなり過ぎなんだ、とはあえてツッコまず、俺はただ何となく頷いておいた。

「なんか違和感あるよ。だって、小さい頃に抱く女のイメージってさ、男に付いてるモノが無い、くらいのもんだろ? そんな幼なじみの女の子が今になって目の前に現れて、しかも、その第一声が『ケンジ君、久しぶり』だぜ? 焦ったよ。妙に大人っぽいの。昔は、ケンちゃん、カナちゃん、だったのにさ」

 そう言うとケンジは、右腕にはめたゴツイ腕時計を覗きこんだ。

「さて、そろそろ行くか」

「……はい?」

 思わず声が大きくなる。

「行くって、どこへ?」

「どこへって、そりゃ花火大会だろ」

 ケンジが交差点の奥を見やる。

「それはマズイだろ。ユウコ達がまだ来てないし」

「だけど、このままずっと二人で花火を見たって仕方無いだろ?」

「いや、このまま会場の方に行っても結局は俺達二人だけだろ?」

「でも、途中でユウコと達とすれ違うかもしれないぜ? ほら、行くぞ」

 俺の肩を叩き、ケンジはヨタヨタと歩き始める。

「ちょっと……おい!」

 なんと勝手な。まだメンバーの半数しか集合していないのに。

 さぁ、どうする。このままユウコを待つべきか。それとも、ケンジと一緒に行くべきか。しかし、今日の主役は、一応ケンジだ。ヤツがいないと話が始まらない。でも、肝心のカナコさんが来ない。それに、ユウコも。

 だが、こうしている間にも、ケンジの背中がどんどん小さくなる。このまま人混みに紛れたら、面倒な事になる。それは確実だ。ええい、花火がうるさい。人も多いし、何より暑い。考えがまとまらない。

 俺はどうしたいんだ。

 どちらを取るのか。

 ケンジか、それとも――

「行かないで」

 背後で声がした。不意に右腕を掴まれる。

 その直後、カラコロと、下駄の音がすぐ隣で聞こえた。浴衣姿の女の子がショートヘアーを揺らし、ケンジの背中めがけて真っ直ぐ進んで行くのが見えた。

「アンタは、こっち」

 聞き覚えのある声が俺の手を引く。そのまま小走りで、すぐ近くの細い路地に入った。白い外灯に足元が明るい。

 目の前に現れた薄紫の浴衣。肩の辺りに朝顔が咲いている。

「ユウコ……」

 だが、それ以上の言葉が出てこない。驚きと興奮と混乱と感動と、いろんな感情がルーレットのように脳内を巡っている。

「すまない。遅くなった」

 ユウコが素っ気なく言った。いつも通りの、抑揚のない声で。視線はもちろん、ケンジ達の方を向いたままだ。

 俺はユウコの後ろに立ち、同じ方向に目をやる。

 たくさんの人が行き交う中、ケンジの頭が一つ飛び出していた。その顔は、ほんの少しだけ下を向いている。そして、人の流れが途切れる度に、浴衣姿の小柄な女の子がケンジの前に立っているのが見えた。カナコさんだった。少し困ったような表情で辺りをキョロキョロと見渡している。何かを話しているようだったが、さすがに声を聞き取る事は出来ない。

「あの子、意外に演技派だね」

 ユウコが楽しそうに言った。俺は黙って二人の様子を伺う。

 ケンジが花火の打ち上がる交差点の奥を指差した。それに応えるように、カナコさんが大きく頷く。そして、ケンジが差し出した左手に、カナコさんはソッと右手を置いた。そのまま二人は並んで歩きだす。歩調を合わせながら、ゆっくりと、手をつないだまま。

 空が光る。周囲からは歓声が上がった。直後、凄まじい低音が轟く。

 俺は、ユウコの背中に視線を移した。ケンジ達の姿は、もう見えない。

「名付けて――」

 突然、ユウコが振り返った。俺は思わず身構える。

「集合場所に来たらユウコとはぐれちゃったけどケンジ君を見つけたからもう大丈夫、大作戦」

 ユウコが一息に言い切った。得意げに、ほんの少しだけ、頬を緩ませて。

 説明を求める必要は無かった。その表情が、全てを物語っている。つまり、そういう事なのだろう。初めから、こうなるように演出されていたのだ。

 俺は納得の意味を込め、ゆっくり、何度も頷く。

「ところで、ユウコさん?」

「なんだい、アキラ君?」

 ユウコが小さく首を傾ける。

「どこから見てた?」

「ココで、最初から」

「カナコさんも一緒に?」

「今日の主役は、あの子だからね」

「俺、知らなかったんだけど」

「秘密裏に画策してこその、作戦なのですよ」

「……今の、『秘密裏』って言いたかっただけだろ?」

「残念。『画策』の方」

 思わずため息が出る。ガムが口から飛び出そうになった。

「ちなみに、ケンジには伝えてあった」

「……はい?」

 どういう事だ?

「何を? 作戦を?」

「五分経ってもアタシ達が来なかったら先に行くように、って」

 俺の脳内にふと、時計を覗き込むケンジの姿が映った。勝手なヤツだと思ったが、そういう事だったのか。

「つまり、何も知らなかったのは、俺だけって事?」

「騙すなら、まず身内からと言うだろ?」

「いや、違うだろ。ってか、俺があの時、ケンジと一緒に移動してたらどうするつもりだったんだよ?」

「それはあり得ない。断言できる」

 ユウコの視線が、いつになく力強かった。今日はいつもより眉毛が整っているからだろうか。いや、それはいい。置いといて。

「……なぜ、断言できる?」

「言って欲しいのか?」

 すると、ユウコは悪戯っぽい表情で浴衣の袖を握り、肘を畳んで両手を広げて見せた。爽やかな薄紫と、鮮やかな朝顔。予想以上の華やかさだ。アップの髪型もバッチリ決まっている。ただ、このポーズは一体、何のアピールだろう。そう思って首を捻った瞬間、俺はある結論に至った。

「いや、いいわ……」

 俺は右手でユウコの言葉を遮る。

 ケンジが移動しようと言い出した時、俺に与えられた選択肢は二つだった。ケンジと一緒に移動するか、それとも集合場所でユウコを待ち続けるか。そりゃもちろん、後者を選ぶ。だって俺は、ユウコの浴衣姿が見たかったんだから。

「アンタが待っていてくれる事は分かってた。だから、作戦は伝える必要がないと判断した。それだけだよ」

 ユウコは淡々と言った。俺は返す言葉がない。ここまで来ると、あまりの恥ずかしさに、笑えてくる。まさか、一昨日の時点でそこまで考えていたのか? ってか、むしろ浴衣で俺を釣ったのか? もしかして、アンタのためじゃないよ、ってセリフは、照れ隠しじゃなくて、そういう作戦を既に思いついた上での――

「アタシ達も行こうか」

「お、おう……そうだな」

 ユウコの声で、俺は我に返った。足元に大きく書かれた『止まれ』の文字を見ながら返事をする。もういい、忘れよう。せっかくの花火大会だ。ユウコと一緒に楽しむとしよう。

「おい、どこに行く」

 ユウコに言われ、俺は振り返る。

「……どこって、花火大会だろ?」

 ユウコがため息を吐いた。お前は一体何を言っているのか、といった表情だった。

「この作戦は、アタシ達がこの会場を離れて、初めて成り立つんだよ」

 いつになく真面目な顔で、ユウコが言った。

「せっかくカナコ達を二人にしたんだ。このままアタシ達も花火大会に行ったとして、もし途中で再会しようものなら、この作戦が意味をなさない」

「いや、まぁ、それはそうだけど……」

 そこまでやる必要あるか? と思ったけど、今日ここにやって来た理由を考え直すと、ユウコが言ったように行動するのがベターなのかもしれない、とも思えてくる。

 だがちょっと待てよ、と俺は腕を組む。そうなると、この後は、どう過ごすのだろう。作戦の最終段階を実行するという事は、ユウコが言った通り、ここを離れるという事を意味する。すると、花火大会に行かない、というシンプルな結論に行き着く。という事は、人込みでちゃっかり手を繋ぐ、なんていうドキドキイベントも、完全に妄想のまま消える事となる。

「アンタ、これからどうする?」

 ユウコが路地の奥を見ながら言った。花火大会の会場とは真逆の方向だ。

「俺は――」

 まさかとは思うが、このまま解散、なんて事にはならないだろうな。それだけは何としても避けたい。

「俺は、まだ帰りたくない」

 前のめりになった想いが無意識に口からこぼれ出た。一昨日、図書館で抱いた思いが甦る。何としてもユウコの隣にいる。その決意は今も変わっていない。浴衣姿を目の当たりにした今となっては尚更である。

「それじゃあ、こっち」

 ユウコがゆっくりと歩き出す。進む方向は、さっきと同じ、路地の奥。一体どこへ行こうというのか。俺はこの辺りの地理にはあまり詳しくない。その先に何があるのか、全く知らない。

 前方から聞こえる下駄の音が止まった。ユウコがチラリとこちらを振り返る。顎と頬のラインが見えるくらいの、本当に小さな動作。そして再び歩き始める。たぶん、早くついて来い、という意味だろう。まるで猫みたいなヤツだ。

 俺は駆け足でユウコに追いつく。

「で、どこに行くんだ?」

「着いてからのお楽しみ」

「……あぁ、そう」

 道の両側には民家が立ち並び、路上駐車している車のヘッドライトがこちらを向いている。この道、カーブミラーが無くて危ないな、なんてどうでもいい事を考えつつ、俺はユウコの数歩後ろを歩く。

 完全に想定外の事態だった。どうしたらこんな展開を予想できただろう。

 今俺の目の前には浴衣姿のユウコがいる。それはそれで魅力的な状況である事に違いない。違いないのだが、俺が求めていた雰囲気は、こうじゃない。もっとデートっぽい、心ときめく二人だけの空間を求めていた。そりゃそうだろう。夏を彩る浴衣姿の女の子と一緒に過ごすのだ。嫌でも考えてしまう。例えば、浴衣をどう褒めるかとか、一緒に歩く時は左右のどちら側に立つべきかとか、屋台での買い物は奢るべきかとか、ユウコはやっぱりリンゴ飴がいいかとか、いろいろ。

 俺は後ろを振り返った。プワッっと花火が広がり、遅れてドンと音がした。だいぶ時間差があった。花火大会がどんどん遠ざかっていく。

 ケンジ達はどうしているのだろう。今頃カナコさんと二人でかき氷でも食べているのだろうか。そういえば、今日はカナコさんも浴衣だったっけ。遠くからしか見れなかったけど、紺色の浴衣を可愛らしく着こなしていた気がする。

 俺の視線は自然とユウコの方を向く。

 まぁ声に出しては言えないけど、今日はユウコも凄く可愛いと思う。それはもう、見ているだけで心臓がくすぐったくなるほどに。特にあの、髪の毛をさりげなく耳にかける仕草。いつもなら絶対にやらないだろう。なんとなく、動作の一つ一つが落ち着いて見える。なぜそう見えるのか、よく分からない。もしかすると、浴衣だけじゃなくて、雰囲気も身に纏っているのかもしれない。そう考えると、女の子って、本当に凄い。

「こっち」

「……お、おう」

 ユウコが道を左に曲がった。

 カラコロと、下駄の軽快な足音が、アスファルトに響く。これから花火大会に行くと思われる人たちとすれ違いながら、俺達は歩き続ける。人混みのざわつく音は遠ざかり、ほとんど聞こえなくなってしまった。ただ、花火の音だけは相変わらず威勢が良い。

「だいぶ雲が晴れて来た」

 ユウコが空を見ながら言った。確かに、雲ひとつない夜空だった。真っ暗で何も見えないけど。

 俺は速足でユウコに歩み寄る。

「そういえば、カナコさんとは仲直りできたのか?」

「一応、互いに納得できる形で、和解した」

「……それは、仲直りできたって事?」

「謝ったら、ちょっと話が複雑になってね」

「ユウコって、文芸部なんだよな?」

 すると、ユウコがゆっくりと俺の方を振り返った。

「……また、パンチされたい?」

「いやいやいやいや、違うって!」

 しまったと思ったが、もう遅い。俺は反射的に腹部をガードする。

 一昨日、ユウコが文芸部である事を始めて知り、それに驚いたら鳩尾にグーパンチが飛んで来た。さすがに二度も食らいたくはない。

 と、不意に、ユウコが立ち止まった。俺は無意識に距離を取る。

「あれ、アタシが通っていた中学校」

 ユウコが道路の左前方を指差す。ほんの数十メートル先、外灯に照らされる正門が見えた。道路の左側は、敷地を囲むように背の低いフェンスが並んでいる。俺はすぐ横にある建屋を見上げた。デカイ校舎が夜の闇にのっそりと佇んでいる。

「……ちょっと、ユウコ? 何やってんの!?」

 正門の前まで来ると、ユウコが腰の高さまであるスライド式の門扉に手をかけた。ゴロロロと固い音がレールの上を這い、人一人が通れそうなスペースが出来上がる。

「こっち」

 スルリと門の隙間を抜け、ユウコが振り返った。

 止めるべきか、どうするか。いや、止めるべきだろう。さすがにこれはマズイ。そう思った時、ユウコはすでに学校敷地内の奥へと足を進めていた。放っておくわけにもいかず、俺は素早く隙間をすり抜け、音が響かぬよう、慎重に門を閉めた。まぁユウコの下駄の音が鳴り続けている時点で、無駄な努力だとは思ったが、やらないよりはマシだろう。

「ちょっと、ユウコさん? コレはマズイって。引き返しません? まだ間に合うよ?」

 俺は急いでユウコの後を追い、説得を試みる。すると、ユウコは左手にある自転車置き場を指差した。数台の自転車が止まっている。

「……で?」

「先客がいる」

 ユウコが端的に答えた。歩みを止めず、そのまま直進。左手に校舎、右手にテニスコートという、裏道のような細い通路を進んで行く。

 通路の出口に差し掛かり、視界が一気に開けた。

「あの……ユウコさん?」

「目的地は、あそこ」

 ユウコが前方を指差す。真っ暗で視界が悪い。俺はユウコの人差し指の先を見据え、目を細める。そこは校庭だった。サッカーゴールが、すぐ手前に見える。反対側のゴールは、その遥か奥。支柱がぼんやり見える程度で、距離は分からない。ただ、明りが全くない校庭は、静かで、広くて、壮大だった。

「あ――」

 突然、短い声を残し、ユウコが視界から消えた。

「のあ……!?」

 ユウコが転んだ。そう認識した時、俺はすでにユウコの上にのしかかっていた。

「ちょ……ユウコ? 大丈夫?」

「躓いて、転んだ」

「見りゃわかるよ。起きれる?」

 ユウコがゆっくりと立ち上がる。

「大丈夫。躓いただけ」

 ユウコが手を払いながら言った。俺はさりげなく、立ちあがろうとするユウコの背中に手を添える。

 足元をよく見ると、小さな段差があった。通路のアスファルトと校庭の砂場が混ざり合う、そのちょうど境目の部分。校庭の方が、ほんの少しだけ、低くなっている。

 コレが原因かと、俺は校庭の砂の感触を靴底で確かめつつ、ユウコの方を振り返った。

「はい、ユウコ」

「……何、この手は?」

「危ないから、ほら」

 俺はユウコの前に立ち、左手を差し出した。ユウコが怪訝な表情で俺を見ている。気がする。暗くてよく見えないが、雰囲気で分かる。どういうつもりだ、セリフにすると、こんな感じ。それは俺も承知している。もちろん下心もある。だが、慣れない浴衣と下駄、それに加えて、この暗がり。怪我をさせるわけにはいかない。

「上手い言い訳、考えやがって」

 そう言って、ユウコが俺の手を掴んだ。そして反対の手で自分の浴衣の裾を抑え、ゆっくりと小さな段差を越えた。俺は黙って、その様子を見守る。

「こっち」

 ユウコが再び歩き出す。お礼の言葉は無かった。ただ、段差を越えても、ユウコは俺の手を放さなかった。

 足元がアスファルトから砂に変わった。俺の手を引くユウコは、歩きにくそうに、小さな歩幅で足を進める。すぐに追いつける速さだ。だけど俺は、ユウコの一歩後を歩き続けた。近いようで遠い。けれども互いに手を伸ばせば届く。誰かと手をつないだ時にだけ許される特別な距離感を、俺は守り続けた。

ザクザクと砂を踏みしめる音が耳に馴染み始めた頃、俺とユウコは校庭の真ん中付近に辿り着いた。

「はい、到着」

 ユウコが立ち止まり、俺も足を止めた。

 辺りを見渡す。何も無い。分かっているが、もう一度、ぐるりと辺りを見渡す。

 遠くで花火の音がした。そこで閃く。もしかして、花火が良く見える秘密の場所なんじゃないか。俺は、歩いて来た方向を振り返った。だが、残念。校舎にさえぎられて、何も見えない。その代わりに、いつの間にか、たくさんの星が出ている事に気づく。

「アタシの弟が、今、あそこにいる」

 そう言って、ユウコは背後にある校舎の屋上を指差す。

「……どういう事?」

「今日は理科の課外授業なんだってさ」

「課外授業? こんな時間に?」

「今日、この時間じゃないとダメらしい」

「じゃあ、もしかして、さっきの自転車は――」

 その時だ。校舎の上、漆黒の夜空に、細い光の筋が走った。

 ユウコの手にグッと力が入る。

「……今の、見た!?」

「うん、見た――」

「ほら、また!」

 ユウコの声が大きくなる。

 流れ星だ。しかも二回連続。あまりに突然過ぎて、俺は目の前の光景が信じられなかった。どういう偶然だろう。純粋に感激した。流れ星なんて、生まれて初めて見た。

「まさか、これを見に……?」

「そう。ペルセウス流星群」

「……流星群?」

「毎年、この時期にだけ見れるんだよ」

「じゃあ、毎年見てるのか?」

「いや、生まれて初めて見た」

「……あぁ、弟に教えてもらったのか」

「知ったら、誰かに自慢したくなるよね」

 なるほど、と思いながら、俺は小さく笑った。

 花火大会には行かないとユウコが言いだした時はどうしようかと思った。だけど、まさか、そのおかげでこんなにも幻想的なイベントに出会えるとは。全く予想外だった。

「ちなみに、そっちの方は、自慢しなくていいのか?」

「そっちって、どっち?」

「その浴衣、結構似合ってると思うけど」

 俺は星空を見上げたまま言った。

 我ながら絶妙なタイミングだと思った。

「ありがと」

 優しく囁くような声が、耳元で聞こえた。

 完全に油断していた。俺はてっきり、調子のいい事言いやがって、といった具合に肩の一発でも叩かれるのかと思っていた。だが実際は違った。その真逆だった。これはマズイ。こうも素直な反応をされてしまっては、返す言葉が無い。逆になんだか恥ずかしい。

 ふと、ユウコの視線を感じた。実際にこっちを向いているかは分からない。だが、そう思い始めたが最後。心臓の鼓動が耳元で聞こえ始める。湿った空気が、首元で汗と混ざり合うのが分かった。

「……次は、どの辺に見えるかな?」

「さぁ、どこだろうね」

「あと三つは見たいな」

「三つでいいのか?」

「じゃあ、十個」

「小学生か、アンタは」

「たくさんって意味だよ」

「じゃあ、アタシは百個」

「幼稚園児か、お前は」

「アンタに言われたくないね」

「いやいや、それはこっちの――」

「あ、ほら!」

「なに?」

「あれ!」

 ユウコが空を指差す。

 一筋の光が、音も無く夜空へと吸い込まれていった。

 俺はユウコの手を握り締め、流れ星に願う。

 ――このまま、時間が止まってしまえばいいのに。


 

 ~つづく~


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