草の根BBSの電話帳
「もう、きりない」
自分より背の高い本棚だけではなく、雑誌や文庫本が壁に付けられて積まれている六畳の部屋の中で、さらに自分の周りをぐるりと囲むようにして積み重ねてある大小様々な本を見ながら、あひる座りをしていた祐未は頭を左右に振りながら右手でこぶしを作って左肩を正面から叩いた。
振った頭の動きに合わせて、ゴムで結わえた黒い髪が弾むように左右に揺れる。先日、スーパーのレジのバイトを始めて、ストレートパーマをあてて、黒く染め直したばかりだ。
「ねえ」
祐未の視線の先には、もみあげの先と毛先が細い無精髭に白い物が少し混じった、眼鏡姿の華奢な男性が祐未の周りに並べてある本を一冊ずつ懐かしそうに手に取り、くるくると何度もひっくり返し、ページをいくつかめくりながら頬を緩めていた。
「お父さん」
「ん」
お父さんと呼ばれたその男性、祐未の父である優夫は、『電話の本』という妙なタイトルの古ぼけた本をめくりながら嬉しそうに鼻を鳴らして生返事をした。
「最初にも聞いたけど、ここにある本ってどれくらいで売れるの?」
日曜の朝、お金がないと言い出したのは祐未だった。
バイトは始めたばかりで、給料が入るのは数週間後。しかも、締め日の少し前から働き始めたので、振り込まれるのは一万円にも満たない。そんなときに、友達と東京へ買い物に行くことになり、母親に言ってもどうにもならないことを知っているので、自分と父親が二人きりになるときを見計らい、看護師である母の佐絵子が用意した朝食を食べながら、買ったばかりのタブレットPCをいじっていた優夫に向かって言ったのだ。
優夫はシステムエンジニアをしている。システムの設計には自信を持っているが、女性と話すのは苦手で、それは身内である妻の佐絵子に対しても娘の祐未に対しても同様であり、更に祐未には非常に甘く、いつもは、いくら必要なのかと聞いて、その金額の八割程度をすんなり渡していた。ところが、今日に限って、不要な本を古本屋で売りたいからその選別をしてほしい、古本屋で売った金額の半分をバイト料として払おうと言った。
「ねえ、いくらぐらいになるの」
祐未はそう聞いたが、相変わらず、優夫は本をめくりながらにやにやしているばかりだ。
祐未にとって、父がだんまりを決め込んでいるというのはよい状況ではない。優夫は、都合の悪いことを聞かれると黙ってしまう癖がある。黙られてしまうと結論が出ずにすべてがうやむやになってしまうことを祐未は何回経験してきたかわからない。中学の卒業旅行で友達と泊まりがけでディズニーランドへ行きたいと言ったとき、最近ではiPhone3Sにしたいと言ったときもそうだった。なので、今でも父のお下がりの、横幅があって小さなキーがびっしりついている変な携帯だ。
スキンヘッドの父の友人が家に遊びに来たとき、「すごいよ、ブラックベリーを使っている女子高生はきっと祐未ちゃんだけだよ」と言って頭に負けないほどの輝く笑顔で言っていたが、祐未は、形が変すぎて恥ずかしいと、輝いているひたいに向かって怒鳴りつける寸前までいった。
「あ!」
優夫がそう声を上げて、いきなり膝を立てて両手を床について這うようにして祐未に近づいてきたので、祐未はなにかされるのかと思わずのけぞった。
「捨ててなかったのか、これ」
優夫は、少し厚めの本を持ち、表紙についた粉をぽんぽんとはたき、白い前歯を見せて笑った。
「あ、もしかしてそれ高く売れるんじゃない!? 厚いし!」
祐未が一転して、自分の父と同じようにハイハイの動きで優夫に近づき、奪うようにして本を取り、すぐにひっくり返して裏表紙に書かれてある定価を読み上げた。
「にせんにひゃく…さんじゅうきゅうえん! ほら高いし!」
誇らしげな祐未の顔を見て、優夫は本を見ていたときの笑顔にあったものとは少し違う、穏やかな目をして顔を小さく横に振った。
「いや、これはきっと買い取りしてもらえないよ。多分、買い取り出来ませんので、こちらで処分させていただく形になります、とかなんとか言われるな」
「え、どうして」
優夫はその問いに答えず、祐未に向かって右手を差し出した。祐未が応じて本を返すと、優夫は器用に片手で本を開き、開いたページを祐未に見せながら言った。
「中にある情報の価値がまったくないんだよ。これは草の根BBSの電話帳と呼ばれるものでね、電話番号がたくさん載っているけど、使えるものは一つも残ってないだろうね。勿論、電話としては使えるけど草の根BBSに接続できる番号は一つもないと思うよ」
「草の根なんとかってなに?」
いぶかしげな表情で祐未にそう問われて、優夫は右手の親指の先であごの無精髭をはじきながら言った。
「……まあ、十何年前に全盛期を迎えて、急速に絶滅したインターネットの前身といえるのかな。昔、パソコン通信というシステムがあって、あちこちにパソコン通信用のサーバがあったんだ。個人で運営している人が多くてね。草の根BBSっていうのは固有名詞ではなくて、そういった小さなシステムの総称なんだよ。簡単に言うと、小さなmixiがあちこちにあったと思えばいい」
「えすえぬ……えす……だっけ? そういうのって今でもいっぱいあるじゃん」
「システムがちょっと違うんだ。mixiやほかのSNSはインターネット上にあるよね。インターネットっていうのは、サーバっていうパソコン同士がつながっていて、たとえばうちのパソコンから世界中のいろんなサーバに接続できるわけだ。祐未ちゃんがよく見てる@COSME、それとmixiが存在しているサーバは同じじゃないけど、それぞれのサーバはインターネット網でつながっているから、いちいち回線をつなぎ直したりせずに見られる」
「草なんとかは?」
「草の根BBSは一台のパソコンの中で完結しているんだ。たとえば、この本に載っている電話番号に電話をかけたとする。すると、電話回線を通じてパソコン同士がつながる。インターネットと違って、その先はない。一つの電話番号で一台のパソコンにしかつながらない。つながった先のパソコンの中には掲示板があり、メールシステムがあり、チャットシステムがある。別の草の根BBSに接続するためには、回線を切ってそのBBSの番号に電話しないと駄目なんだ。固定電話ってそうだろ。祐未ちゃんの友達の家に電話したら、友達の家族しか出ない。草の根BBSもそんな感じかな」
「へえ。じゃあ、mixiを見るときはmixiに電話して、ヤフーを見るときはヤフーに電話するって感じ?」
「そうだね。だから、アクセスするごとに電話料金がかかるだろ。九州の人が北海道の草の根BBSにアクセスしたら、たった三十分接続するだけで千円ぐらいかかるわけ。接続料金が定額制のインターネットみたいに、なんとなくアクセスするっていうことはないから、アクセスしてもらうためには、ほかの草の根BBSとの差別化、ようするに、うちにはこんなファイルがありますよっていう売りが必要だったんだ。たとえば、セラムンの同人CGが山ほどありますよとか」
「セラムンって?」
「あ、セーラームーンのこと」
優夫が抵抗なくさらりと言ったので、祐未は、思わず現在の姿から自分の父親の二十代の頃を想像し、さもありなんと納得した。
「その本があるっていうことはお父さんも草なんとか見てたの?」
祐未は視線を優夫の手元の本に向けたあと、あごをさすりながらその本を懐かしそうに眺めている優夫に言った。
「父さんはニフティっていう大きなパソコン通信の会員だったから、草の根BBSにはあまり接続しなかったな。パソコン通信は電話でつなぐから、話し中があるんだ。電話料金とは別に接続料を取るところだったら番号がいくつかあるから話し中を避けられるんだけど……」
「え、なにそれ、電話のお金払って、それからまたなんか払うところもあったの!?」
「課金って言ってね、一分ごとに十円とか二十円とかかかるんだよ。だから、ヘビーユーザー、つまりよくパソコン通信にアクセスする人は少しでも節約しようとして、テレホーダイという料金システムを使っていたんだ。午後11時から朝の何時までだったかな……とりあえず、夜中であれば市内への電話料金はいくらかけても月千円ちょっとで済むっていう」
「でも、課金があるなら相当お金かかっちゃうよね」
「うん。ニフティの会員で、毎日、何時間もつなぐ人は課金で月に十万円ぐらい払っている人たちもいたよ。オンラインゲームなんてないし、なにより通信速度が遅すぎて……あ、ほら、pixivっていうサイトあるだろ。絵がたくさんある。ああいうサイトにある絵というのは、今なら一瞬で表示されるけど、当時はたった一枚の絵でも五分ぐらいかけてダウンロードしないといけなかったんだ。しかも、パソコン通信のシステム内では開けなかったから、ダウンロードした後に自分のパソコンの中でいちいち解凍して、どういう絵なのか確認しないといけなかったんだよ。だから、出来ることなんて、掲示板への書き込みとチャット、そしてメールぐらいしかなかった。だけど、はまっていた人はほんとにはまってた。そういう人たちは課金地獄って自虐的に言ってたな。まあ、自慢でもあったんだろうけど」
「自慢?」
「お金をかければかけるほどパソコン通信の世界の中にいられるということになるよね。チャットにいつもいて他の常連たちとまんべんなく仲良くなれば、そのコミュニティでは一目置かれる。つまり、お金をかけるほど有名になれる、力を得られるわけ。そういう意味では今の携帯ゲームに近いものがあるかな。人が集まっていたから恋愛のトラブルなんかもあった。当時は女性ユーザの絶対数が少ない……それこそ、男が十人いたら女が一人っていう感じだったから、チャットでよく見かける、女性っぽいかわいいハンドル、しゃべり方をするユーザがいたらもう取り合いだよ。みんなでその子に話し掛けて」
「うげ、会ったこともないのに?」
「オフ会もあったよ。ところが、オフ会で集まると、チャット上ではちやほやされていた子がどうもアレで、発言がさばさばしていて男みたいなユーザが、パソコン通信には不釣り合いなほど若くて可愛い子で、次のチャットからは全員、そっちに行ったりね」
祐未は声を上げて笑い出し、つられて優夫も笑った。
「あ……」
無性におかしくて笑いがなかなか止まらず、呼吸困難になりかけていた祐未が、腕を組んでにやついている父を見て、突然ひらめいたように声を上げた。
「お父さん、お母さんとパソコン通信で知り合った?」
笑みを湛えていた優夫の表情が一瞬固まり、開いていた唇がゆっくりと閉じていく。
「前々から変だと思ってたんだよね、二人から出会った時の話とか聞いたことないし……システムエンジニアと看護師ってあんまり接点なさそうだし、それにお父さん、お母さんと知り合った頃は島にいたんでしょ。合コンってタイプじゃないし……」
九州の離島に住んでいた祐未たちが今の土地に引っ越してきたのは、祐未が幼稚園に入園した頃だった。祐未は島にいた頃の生活を断片的にではあるが覚えている。防波堤へ自転車で釣りに行く優夫にくっついていき、釣れた魚を触ってウロコまみれになり、母によく叱られた。道を歩けば、網を持ったおじいさんや、貝を手にしたおばあさんなどにひっきりなしに声をかけられて、なにをやっても誉められた。
島での最後の思い出は、船でたくさんの、いかつく厳しい表情をした男の人がやってきたことだ。島の異様な雰囲気を感じ、怖くて泣き出して、いつも可愛がってくれたおばあさんに抱きついた。おばあさんは「おまわりさんたちだから怖くないよ」と言った。そこで島での記憶は途切れている。
祐未は以前、最後に起きたことはなんだったのかを聞こうと母に尋ねたことがあったが、夢でも見たんじゃないのと言われて一蹴された。中学生のとき、インターネットで島の名前を検索したことがあったが、大きな事件や事故があったという情報はまったく載っていなかった。それからは、最後の思い出についてはあまり深く考えないようにしている。夢だったとは思わないが、取るに足らないような些細なことが、小さかった自分には大きなものに見ていたんだろうと。
「いや、別に恥ずかしいことじゃないと思うよ。口下手なお父さんなら有効な手段だと思うし」
あきらかに動揺している優夫を横目で見ながら祐未はかまわず言葉を続けたが、優夫はいやいやと繰り返し小刻みに言って、慌てて首を横に振った。
「いや、パソコン通信じゃないんだよ。パソコン通信じゃ」
「……ま、どうでもいいけど」
じゃあなんなのとつっこみかけたが、祐未は微笑んでそう言い、口をすぼめて小さく頷きながら優夫が持っている本を見つめた。日頃、父が語る昔話、特に早口でまくしたてる話は、専門的か主観的過ぎて面白いものと思えなかったが、インターネットが普及していない頃のパソコン通信という、古いけど新しい、異質なネットワークの話は興味が湧いた。
「あ、ねえねえ」
「ん?」
「その本に載っている番号に掛けて、つながるところってあるかな?」
「ないよ」
優夫は笑いながら即答し、続けた。
「さっきも言ったけど、電話としてつながるところはあると思うけど、パソコン通信として接続できるというところはないだろうなあ。もし、あったとしても運営者以外のユーザがアクセスしているとは考えられないし、そんな状態の草の根BBSをずっと維持したいと思う人なんていないだろ? 万が一維持されていたとして、ゴーストタウン状態だろうね。一番新しい書き込みが十年前のものみたいな。きっと、誰かいないかなとか、誰もいないんですねなんていう寂しい書き込みが最後だろうな。昔はたくさんの会員で賑わっていたところでも……」
そう言い終えると、優夫は本を床に置き、膝を叩いて立ち上がった。
「それにうちのパソコンにはパソコン通信用のモデムがないから、もし草の根BBSが存在していたとしてもつなげられないよ。ま、興味があるなら、栗本薫の『仮面舞踏会』っていう本を読むか、深津絵里が出ていた『ハル』という映画を見てみるといいんじゃないかな。実体験はできないけど、雰囲気は伝わるよ」
「ふうん」
「ベストは加藤茶とかゴクミが出ていた『空と海をこえて』っていうドラマを見ることなんだけど、DVDで出てないんだよなあ、あれ。加藤治子がシスオペでね。ほら、古畑任三郎で脚本家役で出てきて妹を殺した人。シスオペっていうのはシステムオペレーターの略で、ようするにBBSの管理人ってこと。食中毒にあった子供たちを救うためにさ、チャットを二十四時間オープンにします、とか言って。かっこよかったあ、あのシーン、あ、それと……」
「お父さん」
ゴクミって誰だろうということも気になったが、もっと気になることがあり、恍惚とした表情で語る優夫に祐未が声を掛けた。
「トイレでしょ。早く行ったほうがいいよ」
両足を、麦を踏むように動かしていた優夫があっという形で口を開き、何度か頷いて、部屋の扉に手を掛けた。だが、すぐに振り返って祐未に言った。
「そうそう、『仮面舞踏会』は多分、祐未ちゃんの周りにある本の中にあるよ」




