男が絶対に受け継がなければならない伝統
真面目な話ばかり書いてると死んでしまう病が発病しました。
「私ももう歳だし、この水着は……」
お母さんがそうつぶやくと、手元で揺れる水着の生地に視線を落とした。
薄いミントグリーンの布地が、部屋の照明を受けて小さく光る。
鏡に映る自分を見比べながら、ため息交じりに眉を寄せている。
するとお父さんが、何の迷いもなく言った。
「全然いけるって。見たいなぁ、それ着てるとこ」
軽い調子なのに、どこか本気めいた声音だった。
お母さんは一瞬目を丸くし、頬に赤みを差しながら言い返す。
「そ、そう?」
その瞬間、部屋にあった空気が少しだけ華やいだ気がした。
明日、僕たちは海へ行く。
砂浜の眩しさや波の音を思い浮かべるだけで胸が高鳴る。
ただ、その翌日が「一生忘れられない日」になるなんて、今の僕には想像すらできなかった。
翌朝。
海に着くと、潮風の匂いを含んだ空気が窓から流れ込み、車内は少し蒸し暑かった。
車が砂利を踏む音を響かせながら駐車場に止まると、視界いっぱいに青が広がる。
波の白い縁が寄せては返し、遠くで子どもたちの歓声が跳ねていた。
お父さんは慣れた手つきでビーチパラソルを立て、椅子を広げる。
僕も隣に腰を下ろした。
「ちょっと着替えてくるね」
お母さんはタオルを抱えて更衣室へ向かう。
その背中を見送ると、お父さんは無言でサングラスを取り出し、ゆっくりとかけた。
太陽光がレンズに反射して眩しい。
僕も真似をしてサングラスをかけた。
波音と、うっすら焼けた砂の匂い。
どこか胸が落ち着かない。
するとお父さんは急に真剣な声で言った。
「お前ももう10になる。これを教えておかなければならない。学校の授業よりも大事なことだ」
学校の授業よりも大事。
その言葉に僕は興味を持ち、耳を傾けた。
お父さんは顎を少し動かして前方を示す。
「あれを見てみるんだ」
視線の先には、若い女性二人組が笑いながら波打ち際を歩いていた。
太陽の光を跳ね返すような鮮やかな赤と白の水着。
上下に分かれた、露出の多いスタイル。
「あの上下に分かれている水着はビキニという」
僕は頷く。
「どうだ、エロいだろう?」
突然の言葉に思わず息が詰まる。
母に告げ口しようかと思ったけれど、なぜか耳が離れない。
心臓が、波の音より大きく打った。
お父さんは拳を握りしめ、熱を帯びた声で続けた。
「あの姿が拝めるのも、過去の男たちが戦い、勝ち取ったからなんだ」
「戦い?」
「そうだ。壮絶な戦いだ」
風が一瞬止んだように感じた。
遠くの海鳥の鳴き声がやけに響く。
「この世にビキニが登場したとき、女たちは卑猥だと着るのを拒否した」
「確かに…ちょっと恥ずかしい感じ、する」
「だろう?だが当時の男たちはこう返した。水に入るための専用の衣装だから卑猥ではない、と」
「卑猥じゃない…」
「そうだ。むしろそうやって意識するほうがいやらしい、と返したんだ」
波が膝下を濡らす女性たちの姿が視界に揺れる。
「それで女たちは、べ、別に意識してないし…ビキニ可愛いんじゃない?と、本当はエロいと分かっていながら着始めたんだ」
僕は聞き入っていた。
風も太陽も全部、背景のように溶けていく。
「恐る恐るビキニを着た女たちは、自分が卑猥な女だと思われないように、ビキニは健全だと周りにアピールした」
「それを受けて、段々とあのエロい水着が女たちに受け入れられ、夏になればこうして拝めるようになった」
「すごいね……」
「すごいだろう」
お父さんはそこで、さらに声を低くした。
「ここからが大事だ。よく聞け。絶対に水着をエロいと女性には言ってはいけない。感想を求められたら、“可愛い”か“綺麗”だ」
「どうして?」
「女性に自分が今、卑猥な格好をしていると思わせてはならない」
そして、お父さんは空を仰いでぽつりと言った。
「『諸行無常』という言葉がある。すべての現象は変わり続け、固定されたものはないという教えだ」
「つまり、今の当たり前が明日当たり前ではなくなるかもしれない」
波の音が心まで押し寄せてくる。
「女性全体がビキニを“エロい”と言い始めたら、もうあれを拝めなくなる」
「うん」
「今の時代に生まれたことに感謝し、先人たちの努力に感謝し、そしてこの伝統を守らなくてはならないんだ」
そのとき、遠くから母が歩いてくる気配がした。
ミントグリーンの水着が太陽の下で柔らかく輝いている。
お父さんは立ち上がり、両手を広げる勢いで言った。
「うわ、綺麗だな!めちゃくちゃ似合ってる!」
母は照れ笑いしながら髪を耳にかける。
お父さんは、伝統を守っているんだ。
僕は今日、重大な秘密を打ち明けられた気がした。
お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)
本当にビキニが定着したのは奇跡(*´ω`*)




