感染する強者のルール
「き、君がスイーパーか!?」
薄暗い書斎に、金時計の針が小さく震える音が響く。
豪奢な大理石のテーブルの前で、中年の男が椅子から転げ落ち、床に手をつきながら怯えた瞳を闖入者へ向けた。
男の頭頂には照明が反射し、汗が一筋伝っていた。
「そうですね。そう呼ばれているようです。」
闖入者は静かに答えた。
黒いコートを着た長身の男。表情は穏やかで、場違いなほど上品な佇まい。
その青い瞳が、暗闇の中で凪のように冷たく光っていた。
「わ、私を殺すのか!? 金ならやる! い、いくらだ?」
男の声はひくつき、震えが床に響くほどだった。
闖入者は、コートについたわずかな埃を指先で払い、その仕草はまるで客の前で礼儀を整える執事のようだった。
「貴方を殺すことは決定しているのですが……興味が引かれました。貴方の値段はいくらなんですか?」
「私の値段?」
男の喉がごくりと鳴る。
「そうです。貴方にお支払いしていただく値段が、貴方の命の値段です。
――貴方は自分でいくらをつけるのですか?」
書斎の静寂が、急に重く、冷たく沈む。
「……1億でどうだ!」
男は震える手でスーツの胸ポケットを押さえながら言った。
その指先は白くなるほど力が入っている。
「あなたの総資産は100億を超えると聞きましたが……そんなものですか。」
闖入者の声は淡々としていた。それが余計に恐ろしい。
「貴方が悪事を働いて貯めたお金の100分の1の価値もない男だと。」
「じゅ、10億だ! これ以上は無理だ!」
「お金と天秤にかけて、自身の命の方が軽い命ですか……。興が冷めますね。」
闖入者はわずかに首を振った。
薄暗い書斎の灯りが、彼の金髪を静かに照らしていた。
「手早く終わらせましょう。」
「やめてくれ! まだ死にたくない!」
男は足をもつれさせながら逃げようとする。
分厚いカーペットの上を這い、扉へと向かって必死にもがく。
「貴方は私に殺される運命であり、自然に帰るだけ。」
黒靴が床を静かに踏みしめ、闖入者が歩み寄る。
「何をそんなに怖がっているのです? あなただって害虫は殺すでしょう?」
「い、嫌だ……。」
男は扉に指先を伸ばすが、震えてうまく力が入らない。
豪奢な書斎が急に狭く、逃げ場のない牢獄のように感じられた。
闖入者は静かにしゃがみ込み、男の首筋にそっと手を添えた。
その手つきは、まるで子どもを寝かしつける親のように優しい。
それだけで、男の体は糸が切れたように力を失い、床へすっと沈んだ。
「おやすみなさい。次の縁へ紡がれることを。」
闖入者の声は酷薄でも残酷でもない。
ただ静かに、薄闇に溶けていくようだった。
書斎の窓から差し込む月明かりが、闖入者の影を長く伸ばす。
その影は、闇夜の中へ吸い込まれるようにゆっくり消えていった。
クリーン社会。
綺麗なものしか受け入れられない。
人々は少なくとも表面上は綺麗に装い、裏ではドロドロとしたものが流れている社会。
汚れたものが表に姿を現すと、まるで合図をしたかのように人々が一斉に叩き始める。
寄ってたかって燃やし尽くす。
SNSのタイムラインでは、昼夜問わず炎上の火が赤々と燃え続けていた。
昼の渋谷の交差点よりも、人の怒りの方がずっと騒がしい時代だ。
以前から似たような空気が漂っていたが、ある事件を契機に人々はこの国を「クリーン社会」と呼ぶようになった。
汚職議員、テレビのプロデューサー、ブラック企業の社長。
世間を賑わせた“汚いもの”たちが、次々と謎の死を遂げていったのだ。
ニュース番組では、アナウンサーが冷静に「死因は心臓発作とみられます」と読み上げる。
だが、どの遺体も苦しんだ痕跡はなく、むしろ眠るように穏やかだったという。
微笑んでいる者すらいた。
薬物の可能性も疑われたが、検死では何も出てこなかった。
“社会の害”が連続して死んでいくにつれ、ネットでは奇妙な熱狂が生まれた。
「正義の執行者が悪を裁いている」
「世のゴミを掃除する『スイーパー』が現れた」
匿名掲示板では黒い笑いが渦巻き、動画配信者たちはセンセーショナルにその名を取り上げ、
『スイーパー』はいつしかカルト的な支持を受ける存在となっていった。
「遺体を検死に回しておけ。」
俺は淡々と指示を出す。
冷たい蛍光灯に照らされた現場で、また一人、眠ったように死んでいる。
汚職で世間を騒がせた議員だ。
明日にはワイドショーが大騒ぎを始めるだろう。
「スイーパーですかね?」
声をかけてきたのは新米の加藤純一郎。
捜査一課に配属されてまだ数か月。
緊張と好奇心が入り混じった顔で、死体に視線を注いでいる。
「たぶんな。奴さん、これで今月に入って三件目か。」
俺はメモ帳を閉じ、遺体の冷えた指先を見下ろす。
生きていた痕跡をすべて洗い流したような綺麗な死に方だ。
「全部、殺されても仕方ないやつらばっかでしたけどね。」
加藤が吐き捨てるように言う。
「仏さんの悪口は言うんじゃねぇ。さっさと捜査を進めるぞ。」
加藤は小さく肩をすくめ、任務に戻っていった。
捜査は何も進んでいなかった。
証拠がない。手口がわからない。痕跡がない。
ただ時間だけが砂時計のように落ちていく。
そんな中、意外なところから糸口が転がり込んできた。
街でホームレスをやっている情報屋――源さんに呼び出されたのだ。
夜のガード下。蛍光灯がところどころ切れかけていて、黄ばんだ光が地面に揺れている。
湿った段ボールの匂いが風に混じっていた。
「どうした源さん? 源さんから俺を呼ぶなんて初めてじゃないか?」
源さんはいつもの汚れた毛布を肩にかけ、ニヤリと笑った。
皺だらけの目が、妙に鋭い光を帯びている。
「いやー、たっちゃんが困ってると聞いてね。網を張っていたんだが、気になる情報を手に入れてね。」
「ほう、聞かせてくれ。」
財布から一万円札を取り出し、源さんの手に握らせる。
源さんはその重みを指で確かめながら、満足げに頷いた。
「スイーパーが利用している情報屋がわかった。華街の修二ってガキだ。」
捜査本部へ情報を流し、すぐに全捜査員を桜花街へ張り付かせた。
ネオンが夜を照らし、チンピラや半グレがうろつく“裏の街”。
酒と煙草と汗の匂いが混じった、典型的なスラム街だ。
修二はその街で悪ガキどもをまとめる小さなボスとして知られていた。
表向きは酒屋で配達をしているが、裏で動かす情報網は侮れない。
「辰さん、あのガキしょっぴいて吐かせましょうよ。」
加藤が苛立ったように言う。
桜花街の雑多な光が、彼の若い顔を赤く照らしていた。
「ダメだ。証言だけじゃ弱い。泳がせて現場を押さえる。」
修二を24時間監視する日々が続く。
だが、夜な夜な悪ガキたちとつるむ以外、特別怪しい動きはなかった。
それでも、聞こえてくる噂があった。
「俺たちはスイーパーと繋がってるんだ」
「スイーパーが後ろ盾だぞ。ビビんなよ」
そんな声が酒臭い路地裏のあちこちから聞こえてくる。
そして悪ガキたちはある日、突然動き出した。
とある大企業の社長の身辺を調べ始めたのだ。
警察も裏を探ると、海外のマフィアと繋がっていることが判明した。
麻薬、密輸、裏資金――ろくでもない話が次々と出てくる。
どうやらガキどもも同じ情報に辿り着いたらしい。
「次のターゲットはこいつですかね?」
加藤が資料を掲げる。
「だろうな。」
俺は書類を閉じ、遠くで鳴るサイレンの音を聞きながら言った。
静かな夜が、嵐の前触れのように重く感じられた。
そこから修二たちを監視し続けたが、スイーパーの正体は掴めなかった。
だが、俺の中で一つの感が働いた。
修二が酒を卸している先を巡った。華街のさまざまな店に卸していた。
街灯に照らされた路地を歩くと、濡れたアスファルトが光を反射し、夜の街が濃淡のあるモノクロの絵のように揺れて見えた。
ここも修二の卸し先の一つだ。
重い木でできた扉を押し開けると、店内は外の闇と変わらぬ薄暗さがあった。
カウンターに置かれたランプの淡い光が、埃を漂わせながら空間をゆらめかせている。
光に誘われるようにカウンターへ座る。
バーテンダーが光の中でカクテルを作り、氷がグラスに当たる音が静かに響く。
こちらへ笑顔を向ける。
「いらっしゃいませ。」
「ウイスキーをくれ。」
「かしこまりました。」
歳は30代くらい。がっしりとした体格だが、筋骨隆々というよりはスラッとスマートに見える。
特徴的な金髪と青い目。北欧風の顔立ちの男が、ほの暗い店内で流暢に日本語を話す。
場末のバーテンダーだが、その存在感はこの空間に自然と溶け込んでいた。
見た目が外国人のマスターに「日本語上手だな」と声をかける。
「もう住んで長いですからね。」
「元はどこにいたんだ?」
「ヨーロッパの方です。随分昔ですね。」
氷を削る音が一定のリズムで流れる。
その音に合わせるかのように、街のざわめきは遠くで溶けていた。
「移り住んだ理由は?」
「日本の食べ物が好きで……あと、禅という思想も好きですね。」
「禅?」
少し困った顔をした後、すぐに元の笑顔へ戻る。
カウンターに置かれたランプの光が、彼の笑顔を柔らかく照らした。
「若い人には人気ないですかね。好きな言葉があって――大円鏡智。」
「だいえんきょうち?」
「澄んだ大きな鏡のような智慧。鏡は何を映しても汚れない。人をそのまま映し、良し悪しで裁かず、ただ受け入れる。そうありたいと思っていますよ。」
グラスを手に一口含む。琥珀色の液体が喉を滑り落ちる感触が、静かに体を通り抜ける。
一杯飲んで店を後にする。
扉を押し開けると、湿った夜風が外の路地をなぞった。ネオンの光が濡れた路面に反射し、街の輪郭をぼんやりと滲ませる。
……当たりか?
あのマスターには何かある。直感が囁いた。
数日後、大企業の社長が海沿いの倉庫でマフィアと大規模な取引を行うという情報が入った。
海風が倉庫の錆びた鉄扉を揺らし、波の音が遠くから低く響く。
スイーパーが現れるかもしれない。
警察も隠れてその会合に参加することにした。
「辰さん、どうしてあの社長を逮捕しないんですか?」
加藤が声を荒げて抗議してくる。
彼の声が車内に反響する。
「あいつは薬を売りさばいてるんですよ! そっちが先でしょう!」
「上からの指示だ。スイーパーに集中しろ。」
短く答える。組織にいれば様々な思惑が渦巻く。末端は与えられた使命を果たすしかない。
倉庫を見張っていると、大企業の社長の車が倉庫に入り、マフィアも中へ入っていった。
取引が行われているのだろう。
車内で加藤は納得がいかない様子で、足を落ち着きなく動かしていた。
倉庫から銃声が響く。
その音が海風に混じって、波の音をかき消した。
「行くぞ!」
合図を送り、倉庫に突入する。
錆びた鉄扉を押し開けると、冷たい空気が一気に入り込み、古い木材の匂いが鼻を突く。
そこには地面に横たわる数人の男たちがいた。
血の匂いも埃の匂いもしない。静寂だけがそこにあった。
そして、こちらを向く酒場のマスターがいた。
「これはこれは、皆さんお揃いで。」
何もなかったかのように言うマスターは、武器など持たず、バーの制服のままだった。
光と影の中で浮かぶその姿は、倉庫の薄暗さに映えて異質な存在感を放っていた。
静かにマスターが歩き出す。
足音がコンクリートに軽く響き、倉庫内の緊張をさらに高める。
「動くな、撃つぞ!」
銃を構えた加藤が威嚇する。
緊張で汗ばんだ額が月光に照らされる。
「どうぞご自由に。海が見たいんです。」
自分に向けられた銃に一瞥することもなく、堂々とした足取りで倉庫を出ていく。
一定の距離を保ちながら銃を構えつつ、ついていく。
倉庫の外は冷たい夜風が海の匂いを運び、波の音が静かに打ち寄せる。
「今日は星が綺麗ですね。暗い海によく映える。」
何をするわけでもなく、ただ海を眺めるマスター。
月光に照らされた海面が銀色に輝き、風に揺れる波紋が揺らめく。
「お前がスイーパーか!」
加藤が尋ねる。
波の音と遠くの街灯の明かりが、言葉の緊張感を強調する。
「そうですね。そう呼ばれているようです。」
あっさりと自供した。
「中の人間も殺したのか!」
加藤が怒気を帯び問いかけると、マスターは不思議そうな顔をして言った。
「何を怒っているのですか?私にはわかりません。害虫を駆除しただけではないですか?蚊を殺すのと何が違うのです?」
心底わかっていない様子だった。
「法がある!」
海の上にある満ちた月がマスターを照らした。
光は水面に反射し、波と影を複雑に絡めながら夜空に伸びている。
「法などというものは弱い者が身を守るために勝手に決めたものであり、私がそれを守ると、生涯を通してそれを誓った覚えはありませんが?」
「屁理屈を言うな!」
「屁理屈でもなんでもありません。ただあなたが私の考えを受け入れられないだけでしょう。」
マスターは闇夜に翼を開く鳥のように、その両腕を天に伸ばした。
風が羽ばたきに呼応するかのように吹き、倉庫周囲の波の音が一瞬高まる。
「私は強い。私は強いのですよ。強者には強者のルールがある。」
マスターの背中から、闇夜に溶けるような色なのに確かに存在を主張する漆黒の羽根が広がった。
月明かりがスポットライトとなり、天から照らされるその姿は、聖典に描かれる堕天の瞬間を切り取った絵画のようだった。
「あ、悪魔……」
誰かが言った。
悪魔と呼ばれたマスターの口が三日月のように広がる。
闇夜にマスターの青い目が浮かび上がった。
「あ、ああ……ああああああああああああああーーーーーーーー!!」
静寂の闇を銃声が三発連続で切り裂いた。
倉庫の壁に反響する衝撃音と、波の音が交錯し、時が一瞬止まったかのようだった。
銃弾を受けたはずのマスターは、落ち着いた声で言う。
「それでいいのです。人とはそういうもの。あなたは害虫を駆除したにすぎない。暴力とはそうあるべきだ。」
そう言うと、マスターの体はぐらりと傾き、そのまま後ろによろめき海へと身を投げた。
ドプンという音が夜の空気を震わせ、波紋が静かに広がる。
また静寂が戻った。しかし、その時、何かが壊れた音も確かにしたのかもしれない。
ニュースが流れる。
「若い警官が昨夜未明、指定暴力団事務所にて6名を射殺。その後、拳銃を所持したまま逃亡しました。」
「警察は写真を公開し、市民に目撃情報を募っています。」
大々的に街中に流れるそのニュース。
大型ディスプレイからの音声が街角にこだまし、人々の足を止めさせる。雨に濡れたアスファルトが光を反射し、ニュース映像が揺らめく。
そのニュースを聞き、深くフードをかぶり直す男がいた。
黒いフードの影に隠れた顔には冷たい光が差し込み、目だけが闇の中で鋭く光っていた。
「害虫を駆除しないと……害虫を……それこそが強者の……。」
ぶつぶつと呟きながら、雨に濡れた雑踏へと消える。
通りの水たまりに映る街灯の光を踏みつけるように歩き、行き交う人々の傘や足音に紛れ、その存在はほとんど気づかれない。
「加藤純一郎をさっさと捕まえろ!」
俺は今日も上司にどやされる。
オフィスの冷たい蛍光灯が目に刺さり、紙や書類の匂いが鼻をくすぐる。
「捜査行ってきます」と言い外に出ると、分厚い雨雲の隙間から青空がのぞいていた。
まるで目のように見えるその青は、あの人の瞳を表しているかのようで、心の底を覗かれているような気がした。
お読みいただきありがとうございます(*'ω'*)
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




