恋に落ちた瞬間
「良い人がいたら結婚するよ。」
スマホの通話をため息と共に切る。何度目かの親からの催促だ。
今年で29歳。来年で30歳だ。私は仕事命で頑張ってきた独身女だ。
男性とお付き合いしたこともある。しかし、長く続かなかった。馬が合わなかった。圧倒的に相手に向上心が足りないのだ。
現状に満足して努力を手放す。この人と一緒にいても成長する気がしない。私は共に成長できるパートナーが欲しいのだ。
仕事は大好きな服飾業界に勤めているデザイナーだ。我が社のブランドは男女問わず好評を博している。
有名デザイナーというわけではないが、これでも内外に名前は売れている。
趣味は自分磨きだ。自分で言うのもアレだが、自分磨きの中で家事全般は高レベルで習得した。
私はどう考えても良い女だ。だからこそ妥協したくないという気持ちが湧く。
ここまで己を高めたのに、この程度の男と暮らすのか?と頭によぎる。
しかし、現実問題29歳である。男性はいいが、女性で29歳はやはり遅いだろう。周りの友達は次々に結婚していった。
焦る。私もと一時期婚活パーティーや結婚相談所に登録して男性に次々に会ったりしたが、決め手になることがなく、この人でいいのだろうかと疑問に思うばかりで決めきれなかった。
私にふさわしいパートナーなど現れないのだろう。仕事が恋人だ。そう思うようにした。
最近はメンタルを強くするために禅について学んでいる。禅寺へ行き座禅をする。世俗を離れ、悩みから離れ、ただ自然と一体になる。
そうすれば焦る気持ちも落ち着くと思ったが、焦る気持ちは消えなかった。相談したら、悩みを無理に消そうとするのではなく共に生きなさい。しかし、悩みに囚われてもいけないと言われた。難しい。
そんな生活をしていたとある日、会社で慰労会を開こうという話になった。
大きめの旅館を貸し切って皆で温泉にでも入りに行こうという話だ。
今のご時世社員旅行というのも流行らないのではないかと思ったが、お金は会社が出してくれて希望者のみ。
周りが意外と乗り気で、だったら私も行くかと参加希望に丸をした。
場所は箱根。貸し切りバスに乗って温泉街に着く。我が社の男女比はちょうど50対50くらいである。
同期の女友達は、この旅行で気になっている人との距離を詰めるのだと息巻いていた。
我が社は社内結婚が多い。
それもありかと思うが、果たして我が社に良い男なんていたか?と疑問に思う。
囚われてはいけない。そんなことは忘れて温泉に集中しよう。
箱根の温泉は素晴らしかった。日々の疲れも取れたし肌の調子も良い。
大広間で宴会もしたが、楽しくおしゃべりしてリフレッシュもできた。
その日の夜は皆で雑魚寝して寝た。学校の修学旅行みたいだねと笑い合い、恋バナに花を咲かせ、ぐっすり眠った。
良い旅行だったと満足して、朝食が出るということで大広間に集まった。
白米に味噌汁、焼き魚にお漬物、それに納豆。The日本の朝食というラインナップだったが、結局こういうのが一番安心できるのだ。
皆でワイワイ話しながら朝食を食べる。そうすると少し離れたところから怪訝な言い合いが聞こえた。
「そんなもん変わるわけないだろ!」
「だから食べてみろって言ってるだろ!」
私と話をしていた同期が興味を引かれてそこに行ってしまった。私も一応ついていく。
どうしたのか?と同期が事情を聞くと、
「こいつが、俺がかき混ぜた納豆の方が美味しいって言うんですよ。」
「事実美味い。」
自分がかき混ぜた納豆の方が美味しいというのを頑なに主張する人と、そんなもん変わるわけないだろうと反発する人で喧嘩になっていたらしい。
正直馬鹿らしい。男性はなぜこうもこんなに子供っぽいのだろうか?
そんなことを考えている間に話は進んでいて、なぜか私がその男の納豆を食べて美味しいか判定するという話になっていた。どうしてそうなった?
呆れながら、それでこのくだらない騒動が収まるならいいかと、男性がかき混ぜた納豆を受け取る。
「食べてみてください。」
一口食べてみる。適切にかき混ぜられ空気を含んだ納豆は舌ざわりが良い。そして風味も際立っていた。
味も刺々しさがなくなりマイルドになっている。私は目を見開いた。
「…美味しい!」
男性はどうだと言わんばかりに胸を張ってドヤ顔をしている。「負けたぁ~」とか叫んでいる者もいるが、私はそれどころではなかった。
頭に禅語の『拈華微笑』という言葉が浮かんできた。小さな仕草や一瞬の所作が悟りにつながることを意味する言葉だ。
私は今、この納豆で悟った。こいつだと!
「あなた、名前は?」
「え? 甲斐谷卓です。」
「私は佐藤めぐみ。よろしく。ここ、座っていい?」
逃さない! 私の勘はこいつだと言っている。納豆一つとってもここまで美味しくするまでこだわる。向上心の塊。
私のパートナーはこいつに違いない!
これは『拈華微笑』一つの小さな所作が人生を動かすときがある。そんなお話だ。
「逃さないから!」
「な、なんすか?」
そして、私と旦那の馴れ初め話だ。
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