答えは何?
一回以前に登場していますが、禅語史上最も物騒な禅語「殺仏殺祖」好きなのでまた書きました。
「仏にすがるな。殺せ。」
最初にその言葉を耳にしたとき、俺は耳を疑った。
高校卒業後、やりたいことも見つからず、俺はある禅寺に修行に入った。
社会に出るのが怖かったのかもしれない。誰かに正解を示してほしかった。
その“誰か”が、ここにはいると思っていた。
「仏教において、仏を殺すってどういうことですか?」
本堂の掃除を終えた夕暮れ、老僧に訊ねた。
「そのまんまだ。」
「……教えを否定しろという意味ですか?」
「違う。すがるなということだ。仏に縋って生きるのは、仏の命に乗っかっているだけだ。お前の命じゃない。」
老僧は静かに湯呑みをすすった。
「お前はここへ来て三か月、ずっと“答え”を探している。わしに、仏に、この寺に。“正しい生き方”を聞きたがっている。だがな、そんなもんは、お前自身が作るもんじゃ。」
「……それじゃ意味がないじゃないですか。じゃあ何のために修行するんですか?」
「修行とは、“殺すため”じゃ。」
「は?」
「仏を殺し、祖師を殺し、わしを殺し、お前の中の“正しさ”を殺し、最後にはお前自身を殺す。そのうえで残るもの、それが“お前の道”じゃ。」
俺は唖然とした。
何かを得たくてここに来たのに、老僧は何も与えようとしない。
それどころか壊せという。
修行の合間、書物を読み漁った。
「殺仏殺祖」は臨済義玄という禅僧の言葉だという。
それは権威や教義にすがる弱さへの、強烈な否定だった。
「仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺せ」
徹底して他に依存することを許さない。
優しさも、導きも、ここにはない。
あるのは、突き放されたまま放り出された“自分”だけだった。
ある夜、俺は黙って寺を出た。
風呂敷に荷物を詰めて、本堂にそっと手を合わせる。
“何も得られなかった”
そう思いながら、寺の坂を下った。
だがその途中、ふと振り返った。
空に星が出ていた。
何かが、胸の奥で静かに点った気がした。
数年後、俺は街の小さな喫茶店を営んでいる。
看板にはこう書いた――
喫茶去
――お茶でもどうぞ。正解のない場所で。
客がコーヒーを頼み、静かに腰を下ろす。
その姿を見ていると、不思議と心が静まる。
ここでは誰も、正しくあろうとしない。ただ、今を生きている。
ある日、老僧がふらりと店に現れた。
「迷わず、殺せたか?」
そう尋ねられて、俺は少し笑って言った。
「まだ殺せてません。でも……たまに首元くらいは切れるようになってきた気がします。」
老僧は笑った。
そして静かにコーヒーを口に運んだ。
「誰かの言葉にすがらず、誰かの背中を追わず、誰かの道を生きない。そんなふうに、自分の命をまっすぐに使う。それが“殺仏殺祖”ってことだ。」
その声が、今も俺の胸の奥にある。
前話のマスターの過去話でした。
お読みいただきありがとうございました(*'ω'*)




