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§8 恋情と議論と友情の律動

 日常は,ゆっくりと甘く発酵する生地みたいに膨らむようだ。


 先進天文研究室の朝は,決まって振り子時計の拍子で始まる。続けて,紙を重ねる音と,羽根ペンがかすかに擦過する音が空間を支配する。午前,生徒の仕事と言えば,実験の結果や気づきをまとめ,講義を聞き,講義の課題を考え,それらについて議論する程度である。


 特に,ノエラの「魔法力学演習」の課題は群を抜いて難しい。課題内容は,彼女が講義で語った数学知識の延長線上にあるといっていいだろう。講義におけるノエラの論理は至極真っ当だ。すなわち,彼女が語る数学や問題そのものは非常に完成されている。講義をよく聞いていれば,私でも理解に足る内容ではあった。いつからか,魔法学の講義で数学の話ばかりが続く違和感にも慣れてしまったようだ。


 しかし,課題の内容は私達を試すが如く,自身の理解の一つ上を行く難しさがあった。


 ほかの講義の課題は,調べ学習や復習形式のような,知識体系を問うものでしかない。それに対して,ノエラの課題では閃きのような一歩や,着実な論理構築が要求されるものばかりだった。だが,一人では着想できないことも,研究室の仲間と議論していれば自ずと湧き出てくる。――尤も,この議論で一番最初に閃くのはいつもセレーネであったが――。こういった経験は中々に新鮮で,実際に問題を解くことができたときは非常に感動する。


 そのような具合で時間を過ごし,昼時になる。ガラス窓に差す陽が真鍮の天球儀を金色に染め,机の上ではパンくずと計算用紙が共存するようになった。普段は食堂を利用することもあるが,こうして研究室の中で軽く済ませることも多い。そうなると,リディアは決まって一番にパンをちぎり,決まって一番に話題をそらす。


「ねえねえ,恋ってさ,どの瞬間に始まると思う?」


「臨界ポテンシャルを超えた時,なのですね」


 ノエラがきりりと即答した。彼女の方を向けば,計算手帳が所狭しと並ぶ壁一面の本棚を背景に,紙で埋もれた机の前に座る少女の姿が映った。羽ペンを持った手が迷いなく動き,何やら難解な数学記号を紙面に書き連ねている。ペンをそっと机に置き,私達に向き直って続けた。


「感情が心のクーロン障壁を飛び越えて,相手の心の核力に委ねられるその瞬間なのです」


「なんかノエラの言い回しって全然ロマンチックじゃないわぁぁ……」


 私たちの心を代弁してくれたかのようなリディアの感想に,ウィルが笑って肩をすくめる。


「でも,ボクはちょっとわかるかもなぁ。確かに誰かを好きになるときって,心の枷が外れちゃったみたいに感情がぶわぁってあふれてくるもんねぇ」


「へぇ,少なくともウィルは誰かを好きになったことがあるのねぇ…」

隙を見逃さないといった感じで,リディアが切り込んだ。その表情は,笑顔とも悪意に満ちた顔ともつかない,何とも不気味な具合だ。


「そ,それは内緒だよぉ」

とウィルが顔を赤らめる。


 やり取りの間にいても,セレーネは視線を紙から上げなかった。

「……少なくとも測れないものは議論に値しないわ」


 慣れない雰囲気を私は咳払いでごまかす。


「まぁ,人の言うこと思うことなど,その時々で変わるものだからな」


 それでもリディアは諦めなかった。


「じゃあさ,仮に,だよ? 将来,理想の誰かと星を見るとしたなら,どこがいい?」


「この前の丘陵の上みたいな,街明かりを遮られる場所が一番星光の散乱減衰を抑えられるのですね。あと冬の寒い日とかだと熱散乱が抑えられて,もっと望ましいのです」


 ノエラは目を瞑りながら,よく分からないが真理なのであろう論理を口にした。


「なるほどねぇ,寒夜の下,理想の相手と2人きり…,なんて確かにいい感じだわ! ねぇねぇ,ほかのみんなは?」


 ウィルが穏やかに答える。


「どこでもいいけど,風が強すぎない夜かなぁ」


「私は灯台。潮の匂いが混じる方が,星はよく瞬く」

セレーネも続く。澄んだ声が涼しく響く。


 流れに応じて「私は……」と口にしたが,言葉を飲む。祈りの癖が顔を出し,無意識に胸の六芒星に触れてしまう。聖教の教義では,本来こういった話は控えるべきであるのだ。


「私はですね」


 ノエラがぽんと手を打った。


「私に真理の方程式を教えてくれるような人がいれば,それはきっと理想の相手なのですね」


「――やっぱりノエラはロマンスをちっとも理解していないわ!!」

リディアが机に突っ伏す。


「いえ,とてもロマンチックなのです」


 ノエラは真顔で,肩目を瞑って続けた。


「だってその人は,世界が運命を選ぶ仕組みを,私に見せてくれるのですね」


「はは,それをロマンと言い張れるのは,たしかにノエラらしいかもねぇ」


 何か勘違いしているような気がしなくもないが,ウィルは笑みのまま,皿を重ねて片付けていた。





 午後は実験と清書の時間だ。リディアは曲線の輪郭を美しくなぞり,余白に星座の落書きをするついでに,誰かの名前の頭文字に何やら意味深な記号を描く――描いて,私とセレーネに見つかって慌てて塗りつぶしている。


「その記号は何の定数なのかしらね?」


 とセレーネが揶揄うように尋ねる。


「……ひ,秘密定数よ!」


一同から笑いが漏れる。


「そう,定義が難しそうね」

と,笑みの内にいつもの皮肉が炸裂しながらも,着々と整理は進んでいた。


 ウィルは黙って砂時計の乾燥具合を確かめ,湿気のある砂を窓辺に広げる。器具の手入れは彼の担当みたいに自然と決まり,誰も異を唱えなかった。商家出身の彼の手先は,商品を扱う時と同じで,器具を取り扱う感覚に優れているようだ。


 夕方になり,測定練習をしている合間にもリディアの恋愛話は再燃していた。


「じゃあ仮その2。ねえノエラ,もしあなたが理想の誰かから告白されたら,なんて答える?」


 ノエラはしばし考えたのち,

「うーん,なんだか嬉しいような,悲しいような,変な気持ちになって受け入れられないのです…」

と首を振った。


「なんだか曖昧ね,ノエラにしては意外だわ」


 構わずノエラは続ける。

「えっと,結局皆,その場の感情に突き動かされているだけなのですね。恋情なんて観測で確かめられない気持ちは,真理とは呼べないのです。でも――その人が私の見落としていた定義や測り方を教えてくれて,どれくらいの愛かを定量的に示してくれたら,たぶん私は嬉しいのですね」


「ああもうやっぱり! 情緒のかけらもないわ!」


 両手で顔を塞ぎ,リディアが嘆く。


「でも,筋は通ってるわ」

セレーネが淡々と援護する。


「“愛の定義”は未確定よ。測り方を得たら,話は違うわね」


 ウィルが肩をすくめ,笑いをこぼした。


「あははは。君たちの考え方は独特でおもしろいねぇ」


 そんな他愛のないやりとりの最中,皆の会話を聞きながら,私が無意識に六芒星へ指を添える。ノエラがその様子を見て笑みをほどき,どこか真面目で穏やかな表情で私に話しかけた。


「ねぇ,アルヴァン」


「何か?」


「その印が,君の測り方なら,私は尊重するのですね。信仰と数理は喧嘩しないのですよ。どちらも,世界を見つめるときに,思考の軸になるものなのです」


 そう言って,彼女の深い海を思わせる紺碧色の瞳が私を見つめる。それはあまりにまっすぐで,子供のように純粋で,そしてとても遠かった。成程,彼女は私が信仰と自然科学の板挟みになっていることに,とうに気付いていたのだ。


「……先生にはすべてがお見通しのようですね。もしやその技も数学の魔法ですか」

私は皮肉交じりに答えてみせた。


「えへへ,普段の様子から,ちょっと思考を広げればわかるのですよ。」


 皆の談笑が響く中,ノエラの存在だけが私の知覚に入ってくる。


「私も昔,修道院にいたので,神様を頼りたくなっちゃう気持ちは分かるのです。 もちろん,世界の真理を考え過ぎちゃうのがあんまりよくないことも,教父さんや修道女さんに教えられてたのですよ」


「でも,考えることを止めなかったんですね」


「もちろんなのです。 考えれば考えるほどに疑問が浮かんで,それが解決したらすごく嬉しかったのです。それに……ふふ,ダメって言われちゃうとやりたくなっちゃうのですね!」


 そう言って,彼女は純粋な笑みを浮かべた。私は,胸の奥で何度も感情を弄る――安堵,敗北,畏怖,そして,憧れ。そういったものがごちゃ混ぜになった名状しがたい気持ちが,胸の内を巡っていた。


 日が落ちる。塔の鐘が一度鳴り,窓辺の影が長くのびる。

「今日はここまでなのですね」ノエラが手を叩く。


 片付けの手順はすでに暗黙の了解だ。ウィルが砂時計や器具を伏せ,セレーネが紙束を厚さ順に揃え,リディアが羽根ペンの先を洗う。私は黒板のすみに残った文字を指でなぞり,かすれた白粉を払う。


「ねえ,明日の市の日で美味しい菓子が出るらしいの! みんなで行きましょう!」


 と,一通り片づけを終えたリディアが瞳を輝かせ言い放つ。


「いいね。ボクは賛成」

とウィルが答える。


「甘味の取りすぎは美容に悪いわよ」

セレーネは皮肉交じりにそう言って,手元に集中している。だが,言葉とは裏腹に,楽しげに片づけを終わらせて皆に合流する。その様子は肯定の意思の表れだろうか。


 また,ノエラは小さく跳ねている。


「賛成なのです! 私は甘いものがあれば頭が動き始めるのですね。まさに,砂糖は思考を一段階上の領域へ引き上げる魔法の粉なのです!」


「あはは! 確かに,ノエラ,紅茶にあり得ないほどの砂糖を入れるわよね」


リディアが笑って,肩で私を小突く。ノエラの子供のような無邪気な様に見惚れ呆けていた私は,ハッと現実に引き戻された。


「ね,アルヴァンも来るよね?」


「……あぁ,もちろん」


 扉を出る前,ノエラが机に忘れた布袋をくるんと掴む。


「大事なことを言い忘れていたのですね」


「なに?」


「明日からは,ついに! 星の動向について議論していくのです。えーっと,その,恋のおはなしも,ついでなのですね」


「後半は余計ね」

セレーネがきっぱり切る。


 笑いながら私たちは廊下へ出る。石畳が冷えはじめ,窓越しの空に最初の星が滲む。リディアは腕を背中で組んで歩き,ウィルは鼻歌を奏で,セレーネは無言で歩調を合わせる。ノエラは先頭を跳ねるように進み,ふと立ち止まって振り返った。


「ね,みんな。世界は美しさに溢れているのです!」


 なんの脈絡もない一言に聞こえるのに,なぜだろうか,胸の奥の緊張がほどけていくのが分かる。たぶんそれは,彼女の中で最も情緒的な告白なのだ。明日もまた彼女は式を立て,私たちはそれに笑い,困り,驚き,少しだけ賢くなる。


 そんな日々が続いて,膨らんでいくのだ。ゆるやかに,私たちの時間は前へ進んでいた。


 窓の外,丘の端から星が一つ,昇ってきた。誰かの想いの星かもしれないし、ただの観測点かもしれない。だが,いまはどちらでもいい。

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