§7 日常と音律と奇跡の定義
それからというもの,日々は,音の連続だった。
振り子時計の等しい拍。砂時計のさらさらという小さな石音。チョークが石板に擦れて生む白いざらつき。真鍮の定規が机に触れて鳴らす澄んだ金属音。ときどき,ノエラが指を鳴らす軽い破裂音――それは「ここで操作をかけよ」の合図だ。
関数,という言葉をノエラは「楽器」と呼んだ。
「関数の関係は楽器みたいなものなのです。ある弦を鳴らせば,調律の取れた音を返す。いつも“行為”に対して“音”で返す――それが関係,『関数』という概念なのですね」
彼女はそう言って,紙に三列の枠を引く。時刻,位置,明るさ。天体観測の予行として,まずは地上で練習する。水の水位を時に対して記し,湯気の立ち方や金属杯の温度指示器の目盛りを,指鳴らしの回数と並べる。絵心のあるリディアが,点を線でやさしく結ぶと,そこに曲線が現れた。
セレーネは言った。
「…つまり,直線でないこれも,関数の返答の結果なのね」
「そういうことなのです。楽器が“行為”に対して“音”を返すように,この関数は“数”に対して“計算の結果”を返すのですね。」
私の胸の奥で,長く息を止めていた何かが,ようやく呼吸を思い出す。昔,数学という世界に絶望してからというもの,図形はただの余興の産物だった。だがいま,数は祈りのように静かで,確かで,やさしい。
目の前の曲線を描く細い橋が,私の中で,神の秩序と世界の手触りをつなぎ始めていた。
ある日の「魔法力学演習」講義も,終わりは音で知らされた。
窓の外で鐘楼が短く鳴り,ノエラが「今日はここまでなのですね」と手を叩く。
「ボク,ちょっと用事があるから先に行くね」
「そうか」
ウィルが柔らかく笑って,教科書や紙束を胸に抱えた。
「気をつけてね」
とリディアが言葉で送る。
「じゃあ私も友達と食堂に行ってくるわね」
とリディアも別れの仕草を取って人混みの喧騒に消えていく。
セレーネは人前で群れるのが嫌なのか,もはや最初からいなかった。
他の生徒たちも,椅子を引く音,机に当たる膝の布の擦れる音を残して,それぞれの午後に散っていった。薄く積もったチョークの白粉が,履き物の先で静かに舞い上がる。
講義室に残ったのは,ノエラと私だけだった。
窓は日の光を受けて長矩形に青白く,空気には墨の匂いが微かに混じっている。黒板には,消しきれなかった文字が白い霧のように浮いていた。
ノエラは講義資料を片付けながら羽織っている黒衣を脱ぎ椅子の背にひっかけた。歳相応の華奢な体つきが露になる。手足は今にも崩れそうなほどに細く,背丈は私より2回りも小さい。この幼き少女に学問を教わっているという事実が,改めて奇妙に感じられた。
彼女が指先についたチョークの粉をふっと吹いた。粉は小さな星の群れになって,光の中で消える。
「先生にとって,奇跡とは何なのでしょうか」
自分の声が,やけに静かに響いた。思い返せば,ここ数日,私はそればかり考えていたのだ。彼女の知識と発想はどこか未来から滲み出したもののようで,凡俗の梯子では届かない段に立っている人間に見えた。
あれほどの力と理の前で,私の言う“精霊の奇跡”など,ただの言い逃れに過ぎないではないのか,と思うことさえある。彼女の頭の中では,精霊とは何で,その奇跡とはいったいどう定義されているのか,気になって仕方がなかった。
ノエラはしばらく黙った。
黙りこみ,窓の光を見て,それから私を見る。
「……分からないのですね」
彼女は正直にそう言って,それから肩にかけた小さな革の道具袋を机に載せ,がさごそと探った。出てきたのは,角がすこし磨り減った白磁のサイコロ。親指と人差し指の腹でつまんで,光に当てる。点の彫りに墨が入り,一から六までが潔く刻まれているのが日に反射してくっきりと見えた。
「でも,もし――」
と,ノエラは言葉を置いた。
「この世の運命はすべて最初から決まっていて,出てくるサイコロの目さえ,神様は分かっているとするのですね」
彼女は私のもとへ歩み寄る。机の上を片づけ,自分とのあいだに広い板の空地をつくった。私の目の前で,掌を上に向け,サイコロをそこに載せる。魔法のうねりは感じられない。なにも,揺れていない。ただ,彼女の呼吸が深くなるのが分かる。
「――例えば,これから『1』の目が出るとして――」
声は,いつもの子どものような調子より少し低く,慎重だった。
彼女は手首だけで,軽く宙へ放つ。石が空中で回り,光粒をはじくように瞬く。私の時間は伸び,世界がゆっくりになる。石片が机に触れる手前で,いったん空気が固くなったかのように止まり,それからころ,ころと転がった。
――1。
点がひとつ,私を見返して止まっていた。
耳の奥で,振り子時計の拍が戻ってくる。ノエラは息をはき、何事もなかったようにサイコロをつまみ上げる。
「そんな運命を知ることができれば――それこそまさに『魔法』で,私にとっての『奇跡』なのです」
ノエラはそう言って,片目を細めて笑った。
「わたしには,まだそれができないのです。できないからこそ,理という言葉で近づこうとするのですね。運命の道を,神様がえらぶなら――その道を言葉にする。それが,わたしの魔法なのですね」
私はノエラのサイコロに視線を落とした。白い石の上に,墨の小さな目がひとつ。もし本当に,最初からすべてが決まっているのなら,いま私が息を呑んだことも,彼女がこのとき微笑んだことも,遠い昔のどこかで決まっていたのだろうか。
「奇跡は,起こすものではなく,運命が分かること,だと」
私は気づけば口にしていた。
ノエラは頷いて答える。
「占星魔法だって人によって結果がばらばらで,まるでデタラメなのです。実のところ,わたしの物理もまだ成長中で,この世はわたしの数理では説明のつかない,分からないことだらけなのですね。 ……でも――」
片目を瞑り,諭すように続ける。
「――分からないことがあるから,驚けるのです。驚ける間は,世界は美しいのですね」
言いながら,彼女はサイコロをもう一度投げた。こんどは4。彼女は肩をすくめる。
「ね?」
机の板目に沿って転がった石が止まり,窓の外で雲がほどける。斜めの光が黒板の文字のかすれを金色に変えた。
ノエラはサイコロを道具袋に戻し,指についた白粉をはらうと、まるでなにかの儀式を終えた聖職者のように,しかし子どもそのままの仕草で机に腰かけた。
「ねえ,アルヴァン」
「なんです?」
「“1を出すこと” と,“1が出ると知っていること” は,似ているけど違うのです。わたしは前者をいつでも大したことないと思うのですが,後者は――いつか本当にできたら,それはきっと,わたしにとっての奇跡なのですね」
私は頷く。
祈りで世界を変える代わりに,知ることで世界に触れようとする彼女。
それは精霊の奇跡を否定する,全能の絵姿からほど遠く,危うくて,人間的な挑戦だ。
その横顔が,窓の光に縁取られている。頬には講義の名残の白粉,襟には薄い墨と石灰のしみ。未来の知恵は,こうしていつも指先からこぼれ,机の上に散らばっているのだと私は思った。
遠くで鐘が一度だけ鳴った。
私は立ち上がり,椅子を静かに戻す。
「食堂にでも行きましょうか」
「賛成なのです! 今年は小麦の実りが良いらしくて,パンをおかわりしてもよくて最高なのですね」
「はは,占星魔法は正確に豊作の年を占えるようになって欲しいですね」
「それ,いいアイデアなのです!」
ノエラはそんな子供じみた願いを,しかし子供のように喜んで同意した。
そのまま,椅子に掛けていた黒衣を羽織り,速足で私のもとへと駆け寄ってくる。窓から日の光が届き,ちょうど彼女を照らして輝いた。亜麻色の髪が光に揺れてふわりと舞い,その一本一本が,まるで数式が緻密に集まって一つの数理を成すように,綺麗に重なった。
奇跡という名の曖昧な光は,いま,言葉の形を探している段階だ。
窓の外で,夕方の風が乾いた葉を一枚運び,石畳の上で転がした。それは,サイコロが止まる音に,少しだけ似ていた。




