05.戸惑いと、婚約
少しの間そうして見詰め合い、マリアはダグラスの表情が僅かに違う事に気が付く。
それは昔一度だけ彼が幼い頃飼っていた犬を亡くした時に見た事のある表情に似ていた。
いつも微笑んでいるダグラスがその時ばかりは無表情の下に何かを押し込んでいるような気がして、マリアは不安で堪らずその時ずっと彼の腕を掴んで傍から離れなかったのを思い出す。
やがてマリアはふと息をついて振り上げたままだった腕を下ろすがダグラスの手はそれを掴んだままだ。
恐怖と驚愕に高鳴っていた心臓は徐々に落ち着きを取り戻し、マリアは一向に退く気配を見せないダグラスに細く溜息をつく。
「ダグラス、一体……」
「君は何を考えているんだ?」
突然堰を切ったような強い言葉に遮られ、マリアはじっとダグラスを見上げる。
彼が笑うと優しげなカーブを描く眉は中心でぐっと寄せられ、段々と強くなる眼差しはマリアを射抜くかというほどだ。
「何故俺の言った通りにしなかった。俺が君を恋人として受け入れないからか?農場や家まで手放すなんて!」
はっきりとした非難にマリアは思わず息を飲んだ。
だがマリアは今の状況を思い出し、血の気が引いたまま慌ててダグラスを促す。
「話は他所でしましょう、こんな所で騒いだら迷惑だわ」
「だったらこの先に知っている店がある、そこに行こう」
頷いたというのにダグラスはマリアの腕を掴んだままで、その痛みにも先程の非難にも心が落ち込んで行くのがわかった。
それでも唯一ほっとしたのが、少しずつ自分が落ち着きを取り戻している事だ。
ここへ旅立つ前のあの状況でこんな事をされたら、きっとその場に泣き崩れていたかもしれない。
そしてこんな事を言われていても彼に会えた喜びに胸が震えただろう。
だが僅かに余韻が残るものの、心臓は以前のように無駄に高鳴ったりはしなかった。
彼の背中を見詰めながらその遠さを理解して、マリアは悟る。
そう、自分は漸く認めたのだ、ダグラスが遠い存在だという事を。
本当に、漸く。
マリアを引き摺るようにして二つ先の通りのバーらしき店に入ったダグラスは、店員に何かを言うなりまた奥へとマリアを引っ張って歩く。
まるで聞き分けのない子供を連れ帰ろうとする親のようだなとマリアは自嘲した。
明かりに照らされた正面のフロアを抜けやがて個室に入ってやっとマリアを解放したダグラスは、ソファに腰を下ろすなり無言でマリアを促す。
大人しく従ったマリアはその正面に腰を下ろした。
テーブルとそれを挟んだソファ以外何もない部屋だった、当然のように窓もない。
内密な商談をする時にでも使われる部屋なのだろうとマリアは察する。
「それで、どうしてこんな事をしたんだ。俺が君を受け入れない当て付けのつもりか?」
言葉は訊ねているが、その口調も表情もダグラスには確信があるようだった。
このところの寂しさも凌駕するほどの絶望がマリアの胸に突き刺さって痛みに目を伏せる。
確かにダグラスの提案を受け入れられなかったのは、ある意味彼の言う通りだ。
けれどそれだけではない、例え恋人として受け入れられずともダグラスの態度がもう少し違っていたのなら、マリアはきっとまた疑いもせずに飛び付いてしまったに違いないのだから。
そうでなかったのならきっと彼から離れる事など考えもしなかった自分に気付き、内心苦笑してしまう。
またしても久しぶりに話す事がこれだとは……どこまでも皮肉だとマリアは思った。
「ダグラス、確かに私は貴方の提案に乗るのが怖かった。またいつ態度を変えられるかと不安だったの」
「農場は売らないと言っただろう、俺にとってもあそこは思い出の場所なんだ」
マリアは項垂れるようにして頷く。
ダグラスも昔はよく農場へ遊びに来て幼いマリアと一緒に駆け回ったり馬に乗ったりした。
両親もダグラスの事は一番目の息子のように可愛がって、彼の忙しい両親の代わりをつとめようとしていたのだ。
彼が成長するにつれ意味合いは変わっただろうが、それでもダグラスはマリアの両親をいつも気に掛けてくれた。
少なくとも両親が亡くなるまでの、昔は。
「わかっているわ、それはわかってる。でも漸く私も悟ったのよ、私では農場を上手くはやっていけない。例え貴方が出資をしてくれてもね。本当に、理解するのに五年もかかってしまったけど……」
「だったら俺が人を雇う、運営はそいつに任せればいい」
言い募ったダグラスにマリアは訝しげに彼を見詰めながら首を振った。
「それは同じ事だわ、私にとっては。そうでしょう?結果として農場は売る事になったけど、そのまま引き継いでもらえるし家も残ったわ。ホルブルック夫妻はとてもいい人で、いつでも遊びに来てくれて構わないと言ってくれたの。クリスとキャットも行きたかった学校に通えた。これ以上の事はないと思うのよ」
するととたん険しい顔になったダグラスにマリアは思わず身を硬くする。
マリアには昔とは違った顔しか見せなくなったダグラスだが、それでもこんな風に怒りを露わにされたのは初めての事だった。
しかしマリアももう引けなかった。
ダグラスの言う通りにしていたところで、やはり何度考えても結果は変わらないように思える。
農場を人手に渡せばマリアもただ家にいる訳にはいかなくなるし、家から通える範囲で仕事を探しても弟妹を抱えながらやっていけるとは思わない。
今までのように農場で仕事をしていた時以上に時間の融通はきかなくなるのだ。
ダグラスはしかし表情を変えないままマリアを睨み付けるようにして言った。
「これ以上の事はないだって?冗談じゃない」
吐き捨てる様子にマリアは薄く唇を噛む。
一体他の誰が、ダグラスのこんな姿を見ただろう。
「ダグラス……わかってよ、私が農場をやっていけない以上、仕事をしなければならないわ。これからはもっとあの子達の為にもお金がかかるし」
「学費だったら俺が出したさ!君は俺から逃げる事しか頭になかった。確かに今回は結果がよかったかもしれないが、下手をすれば君は騙されて、あの子達は路頭に迷う事になったんだぞ!」
張り上げたダグラスの怒声はびりびりとマリアの全身を震わせた。
だが不思議とマリアは自分の中の何かが凪いだように静まり返っているのを感じる。
そうして気付いた、いつもなら常にその瞳に引き込まれ騒がしかった胸の奥が、じわりと熱を帯びるものの静寂を保ったままな事に。
まるで幼い頃大好きだった絵本の中の王子様でも見るかの如く、目の前にいる人を自分がそう理解しているのだと。
恐らく今でも彼を変わらずに愛している。
しかし今までのように彼がまた自分の傍に近付いてくれるのではないかと期待をしていないのだ。
どれだけ愛しても、王子様は絵本の中から出て来る事がないのと同じに。
マリアは静かに頷いて僅かに息を吐いた。
「ごめんなさい、貴方に一言相談すべきだったと思う。でもレジナルドおじ様とは随分話し合ったの、勿論妥協した部分もあるわ。でも彼が例え大手の組合長でなくとも、私は彼に農場を譲りたいと思った。私が、そう決めたの」
「君はわかってない。君は……子供だ」
そうね、とマリアはそれに苦笑する。
見知らぬ土地に来て知ってる人達から離れて、今までマリアはどれほど自分が甘えていたかを知った。
例え自分が倒れても、ホレーショーやバーバラが弟妹を見てくれるという、どこかの甘えを知ったのだ。
多分今もその考えは抜け切ってはいないだろう、弟妹の事を考え出すと心配で堪らなくなって、そしてまた彼らがいてくれるから大丈夫だと言い聞かせている自分がいるのだから。
しかしそれではダメなのだとも知った。
自分が思う以上にもう弟妹は精神的な意味で自分を必要とはしていない、そしてそれは誰であっても同じなのだ。
少しずつだが大人になって、自分達の事は自分達でどうにかしていく。
そういうものだと、今になってマリアも理解した。
頭が悪くも機転が利かない子達でもない、クリスティアンもキャサリンもマリアがいないならいないで学校での暮らしを上手くやって行くだろう、マリアがあれこれ心配せずとも。
弟妹にすら甘えていたのだ、無条件に自分を必要としてくれる存在として。
「でも変わりたいと思う。前に貴方が言ったわ、あの子達はもう何から何まで昔のように私を必要とはしていないって」
「……必要としていないと言った訳じゃないよ」
「ううん、でもいずれはそうなる。そうなって当たり前なんだわ。そう、きっと私だけが子供のままだった。貴方に心配をかけてしまって申し訳なく思うわ。でも、こうしないと私はきっといつまでも変われないと思うの。私も大人になるわ、ダグラス」
言い切ってからマリアはほっとしてソファに身を委ねた。
そしてそっと視線を上げた先でダグラスの表情にマリアは困惑する。
怒りは収めたのだろうが、しかしその目は何故か戸惑いに揺れていた。
「……ダグラス、私は大丈夫よ。仕事は大変だけど楽しい事も多いし勉強にだってなるわ。それに一人で部屋が借りられるようになったら、休暇の時あの子達を呼ぼうと思ってるの。ここは大きな街だし、二人共喜ぶと思う」
ぼんやりとしたまま自分を見詰めるその目にマリアは微笑みかけた。
少なくとも、嫌われていた訳ではない。
子供だからと全てが疎ましく思われていた訳でもない、態度は違っても自分を気にかけてくれている事には変わりがないのだ。
ただ優しくなくなったからと、マリアがそれを理解しなかっただけ。
まるで、クリスティアンとキャサリンをホレーショーがそう言ったように。
忘れかけていたものがじわりとマリアの胸に滲む。
遠い昔に感じた、恋とは違う安心感のようなもの。
「今まで心配掛けて本当にごめんなさい。私しっかりするわ、今度こそ自立してみせる」
そう言えた事が、決意を表せた事が嬉しくて、マリアは全身から新たにやる気が湧いて来たのを感じる。
まだ痛む心はある、こうしていても彼に寄り添い、傍に行きたくて堪らない。
けれど彼はマリアが望む位置に置いてくれないともわかっているから、もう……わかっているから。
きっとこれからはもう少し、違った形で歩み寄れたらいい。
それだけは、許して欲しい。
「ダグラス……?」
ふと覚えた違和感にマリアがその顔を覗き込むように首を傾けると、再び僅かに揺れた瞳がマリアを映し、けれどすぐに逸らされる。
その戸惑いに、マリアは困惑した。
少なくとも幼い頃はダグラスの事を今よりわかっていた。
しかし彼が思春期と呼ばれる年頃になって、そしてそれを過ぎ大人になった今、もうその心に何を抱えているかがわからない。
昔は手に取るようにわかっていたダグラスを理解出来ないというのはマリアにとっては衝撃だった。
今ではそれもダグラスに向ける自分の過剰な意識が「理解していた」と思わせていたに過ぎないとわかるが。
不安定な足元に立つかのような彼を支えようと一瞬手を伸ばしたマリアは、けれどそれを引き、自分の中にも出来てしまった距離を感じる。
何にでも無邪気に手を伸ばせる時代が自分の中でも終わりを告げたのだと、物悲しく感じながら。
「体調が悪いの?仕事が忙しいんじゃない?もう帰って休んだ方がいいわ」
ふと今頃になってダグラスは仕事でこの近くに来ていたのではないかと思い当たった。
「仕事でこっちへ来たんでしょう?ホテルは近く?」
「……話はまだ終わっていないよ」
頷きながらも低く唸るようにダグラスは言ったが、マリアはそれに首を振る。
彼は仕事が忙しいとなると寝食を忘れがちなる、よく見れば顔色も少し良くない。
マリアは立ち上がって促すようにダグラスを見た。
「話は後日にしましょう。お願いだから早く休んで、顔色が良くないわ」
「君はいつ休みになる?」
「再来週末には一日空くと思うけど」
「それじゃあ、土曜に。迎えに行く」
一体これ以上何の話があるのかと問いたいのを耐え、マリアは頷いて部屋を出るダグラスの後を追う。
そのまま店を出てアパートメントまでを一緒に歩いたマリアは、何も言わず踵を返す彼の背中を見送った。
とたん溜息がどっと出て、胸にはもやもやとした霧のようなものが残る。
確かに自分は子供だった、精神的に自立していたとは言えないだろう、だからそれを心配してくれているようなのはわかるのだ。
だが彼の見せた戸惑いの表情が頭に浮かんで離れない。
――まだ上手くやれないと思っているのだろうか、それとも子供だった自分がそんな事を言い出した事に?
マリアは思考を振り払うべくふるりと頭を振って階段を上がり自室へと戻る。
ベッドの上で所在無げにしていたワンダの顔を見てお互いにほっとした様子だった。
「遅くなってしまってごめんなさい、心配してくれたのね」
「ううん、いいのよ。無事ならそれで。ジャックとどこかへ寄ったの?」
「ジャックはお母さんのお見舞いに行ったの。それで私一人で帰ったんだけど、途中で……知り合いに会って」
「そうなの。でも本当に無事でよかった。帰ってから下を見張っていたんだけど、今日は誰も来なかったわ。だからもしかして貴女と会ったんじゃないかと思って」
伸びをしてベッドに転がったワンダにマリアは視線を落とした。
「私も一度入り口まで帰っては来たの、その時には誰もいなかったわ。さっきもよ」
「誰だか知らないけど、さっさといなくなって欲しいわよね」
それに頷いてからマリアもシャワーを使い支度を整えてベッドに潜り込む。
明かりの消えた暗闇の中で、浮かんで来るのはやはり彼の顔だ。
再来週、一体何の話を聞かされるというのだろう。
でも期待をしてはいけない、ただ久しぶりの再会を喜べばいいだけの話だ。
今は遠い昔、彼を兄と慕い――まだ男性としては愛さなかった頃のように。
ただ、それだけを。
約束の日、アパートメントにやって来た人物を見て、マリアはほっとすればいいのか残念に思えばいいのかわからなかった。
ダグラスの下で働いている者だと言ったマリアと同年ほどの彼は、ドアの前で佇んだマリアに向かって一枚のメモを差し出す。
「私用で遅くなる。迎えをやるから先に行っていて欲しい」とダグラスの懐かしい筆跡で書かれたそれに目をやり、マリアは頷いて先を促す彼の後を追った。
外の通りに出れば見た事もないような馬車に乗せられ、マリアは思わず身を小さくさせてじっと揺られる。
正面に座っている彼からは、これからどこへ行くのかとも尋ねられないような空気が漂っていた。
諦めてマリアが窓から外を見ると、内心どこか沈んだ自分の心とは裏腹に空は晴れて行き交う人々は賑やかだ。
あれから何度も浮かぶ思考を打ち消し仕事に一心不乱になった。
幾ら考えてもダグラスが何を話そうとしているのかなんてわからないままだ。
もしかしたらまだ「妹のよう」だとは思ってくれているのかもしれなくとも、そんな距離にいてももう彼を理解する事など到底叶わないだろう。
いずれ隣に並ぶ、彼に相応しい人こそ出来る事なのだ。
暫くしてゆっくりと止まった馬車から、マリアは先に降りた彼の手を借りずに地に足をつける。
自分が知っている馬車とは違い、座っていた上質なクッションのお蔭で痺れもない事に苦笑した。
全く、今まで気付けないでいたのが不思議なほど、ダグラスとの距離を知る。
「こちらです」
再び促され目の前の建物に入ったマリアは中を見るなり足が止まった。
自分は宝石箱の如く煌びやかなその世界に投げ込まれた道端の小石だと思う。
しかしここで引き返したところでクロゼットにはこの世界に相応しい服など下げられてはいやしない。
訝しげにマリアを見る彼に慌てて足を動かし、時折周囲から浴びる好奇な視線を努めて無視した。
通された奥の部屋はこの間のような閉鎖的な空間ではなく、むしろ上等なホテルの一室のように解放された部屋だった。
開け放たれたバルコニーからは一層空の青さと陽の輝きが引き立って見える。
真鍮があしらわれた家具を横切りマリアが促されるまま中央のソファに座ると、後から入って来た女性がお茶の支度をして恭しく頭を下げて出て行った。
居心地の悪さにマリアが見上げれば、彼は表情も変えず「こちらでお待ち下さい」と言うなり部屋を出て行ってしまう。
取り残されたマリアは目の前のテーブルに置かれた紅茶に手を付ける気にもならなかった、まるで銀のカップに注がれた紅色の聖水だ。
ケーキスタンドに乗せられているそれさえもマリアの目にはとても食べ物には見えない。
うんざりとしながらマリアは勝手にクッションに体が沈み込んで行くソファの上でひたすらテラスの外を眺める。
どれくらいそうしていたのか、このままソファの一部にでもなるのではないかと思われた頃に漸く待ち人は来た――隣に女性を連れて。
体が勝手に立ち上がり二人に挨拶をするのをどこか他人事のように感じながら、いつかのようだなとマリアは思う。
随分女性の印象は違うが、しかし彼女の持つ艶やかな黒髪があの時を彷彿とする。
ダグラスは黒髪の女性が特別好きに違いない。
ラモーナと名乗った女性は可憐な微笑を絶やさず、今までのダグラスが連れていた女性のようにマリアには眉一つ歪めはしなかった。
その上等なピンク色のドレスと同じ、素晴らしい環境で育ったのだろう溢れんばかりの幸福さがわかる。
「それでは私はこれで失礼致しますわね。お話があるところにお邪魔してしまってごめんなさい。楽しかったわ、またお会い致しましょうマリア」
暫く談笑した後ラモーナはダグラスの頬にキスをするとそう言って、来た時同様優雅に部屋を出て行く。
それを見送ったマリアはそっと眩しさに眇める如く目を軽く伏せた。
――まるで王女様、王子様の隣に並ぶに相応しい人。
とてもお似合いだとマリアは知らず口元に笑みを浮かべる。
「出先で会ったんだ、近くに行くと言うから一緒に来たんだよ。彼女とは……婚約しようと思っている」
正面からざっくりとナイフで胸を突かれた思いがしたが、マリアはおかしな事にそれをどこか遠くで感じた。
彼女と談笑している間にも感じた、他人事のような感覚の比ではない。
確かに痛みを感じているはずなのにその心が体から切り離され、頭も体もまるで別人のようだ。
もうどちらが自分のものなのかもわからなかった。
「おめでとう、ダグラス」
ラモーナと談笑していた時と同じに頭が考えるより早くマリアの口がそう言う。
震えてもいないその声はいつもの自分のものだと、そう考える事さえどこか可笑しく思いながら。
「とても素敵な方だったわ、エイブおじ様達も喜ぶわね」
一人息子が早く身を固めて欲しいと願っているボルジャー夫妻だ、あれだけ素敵な令嬢を貰う事になれば諸手を挙げて歓迎するだろう。
身に着けていた物や立ち振る舞いから見ても彼女が貴族か資産のある家柄なのは間違いない。
そしてその令嬢との結婚となればダグラスにとってもこれ以上ない事だ。
何よりダグラスがマリアにはもう久しく見せた事のない微笑を向ける人だ。
きっとそこには今までになかった愛しさがある。
ダグラスはやっと幾多の女性達の中から相応しい人を選んだのだ。
御伽噺の終わりを見るような気持ちでマリアは微笑む。
幸せに向かって歩いて行く二人に例えば密かに王子に心を寄せていた村娘がいたとしたらこんな気持ちかと思う。
完全なるその幸せな結末に例外は有り得ない――これが現実であっても……そうだからこそ。
「もしかして、話ってその事だったの?」
いつまで経っても諦められない自分を思ってわざわざ彼女を連れて来てくれたのだろうか。
だとすれば相当自分がしつこかったという事だ。
羞恥でかっと熱くなった全身は次の瞬間には一気に凍り付き冷める。
「ダグラス、私はもう貴方を追い掛けたりしないわ。貴方の幸せを、願っているから」
出来る限りゆっくりとマリアは口にする。
言葉にしてマリア自身もそうだと納得したような気持ちになった。
ダグラスの不幸は願わない、望むのは彼が屈託なく笑っていられる幸福だ。
幼い頃は彼のその幸福に自分が寄り添っているのだと疑いもしなかったが、今はこれが現実なのだと理解出来る。
本当に泣いたりなどする事がなくてよかったとマリアは心底安堵した。
愛する人の門出に出来るならば自分もせめて笑顔でありたい。
例えばこれが、泣く事も忘れるくらいの衝撃故だったとしても。
まだ疑っているのか、ダグラスは無表情のまま微かに訝しげにしてマリアを見詰めている。
本当よと繰り返すと、またしても彼の瞳は戸惑い奇妙に揺れた。
マリアはどうしたら伝わるのかと、困惑するしかない。